SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

ちょこっとおもろいと思った。「その場で商品を売らない方法」

「いや、ここじゃ売りませんよ?」と明確に提示しておくことの意味と、ある種の利便性を生かせる人もいるかもしれない、と。

 

メンズファッションプラスAKIBA | メンズファッションプラスのリアル店舗が遂にOPEN!

 

個人的には、このサービスのターゲットとか、「モテ服」とか、付き添いとか、女友達とか、どーでもよくて興味はないんですけど、ただ一点。

「その場で商品を売らない」ことによる効果(の予測)。

 

 

僕は服が好きですが、お店での店員さんとの距離感は未だに苦手なことが多く、積極的な買ってください姿勢を見せられた時点で逃げたくなります。いや、気に入ったら買うし、どんだけ勧められても気に入らなきゃ買いませんよと。同じようなことでお店の滞在時間が短かったり、商品について聞くのが億劫な人って多くいるような気がしています。そんな面倒なポイントをカバーできる。店員側がゆるくいてくれるからこそ、客がゆるく入れるんだし。

 

あと店側が、例えば小規模で販売以外の業務も同時にやりたい場合。デザイナーとか作る側も兼ねてる場合だったり、飲食とかと兼ねてたり。

小さめのスペースでやりくりしたい時に在庫管理とか金銭管理の業務が増えるのは人もスペースも時間もいて大変だから、それをなるべく抑えるようにアウトソーシングできる余裕があるのなら、そっちの方が楽なこともあるんじゃないかと。小回りが利くのはいいことのはず。

 

扱うものによっては、サイトで改めて見てもらうことで絡められるコンテンツもあるんじゃないか、とか。最低限興味を持ってきてくれてる人なんだから、細かい仕様、+α、他の紹介等云々。

 

 

関係ないけど、メイドの格好ってホントに大丈夫なもんなのか?

行くことはないけど、状況だけ覗いてみたい感はある。。

 

 

 

(追記でさらに妄想)

全然関係ないかもしれんけどふと。

 

・1つのスペースで「飲食 x 家具(デザイン・販売)」で組んでやればいいのにとふと思ったんだけど、やってんのかな?

もちろんお互いが世界観を合わせて頑張るのは必須だろうけど。

 

当然家具・食器も、実際に触れて使ってみてこそ良さを判断できるだろうし、必然的に座っている時間が長く発生する飲食と組めば、ただの店舗販売より深く吟味してもらえるだろうし。

決まった2社が何年もずっと回していくんじゃなくても、期限付きにして特定期間でいろんな会社が入れ替わりとかでも。「プロジェクトとして試せるプラットフォームスペース」とかにしたら、いろんな会社で組んでやってみようとかで、元々の自分のお店への新規顧客開拓チャンスにも、とか。(でも、料理人こそその場が命だから、元々の店舗から出るのは難しいのか。。。)

一つ一つの世界観と商品をサイトにアーカイブにしていくのもいいかも。

 

特定の、飲食店と家具食器メーカー同士が信頼しあって持ちつ持たれつ、をテレビで見てたから、それを一般客にオープンにするだけでも相乗効果ありそうだと思った次第。

Twitterログ 7/15(金)メモ、ほぼ日メモあり

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・小学5年生のとき、おばあちゃん先生が担任になった。
 とても怖いという評判もあったけれど、
 前の担任にぼくはひどく叩かれたりしていたので、
 ぼくは、とてもよかったと思っていた。

 先生はクラスを8つの班に分けた。
 机も、7~8人ずつのブロックにして、
 いわば教室のなかに群島があるような感じだった。
 だから、先生が話しているときに、
 生徒たちはいろんな向きでそれを聞いていた。
 さまざまな問題を、班ごとに話し合って考え、
 班ごとの発表をすることになっていた。
 いまさら、おとなになってから思うのだけれど、
 どこかの研究会で知ったやり方だったのかもしれない。
 そんなことは、どうでもいい。

 班のなかに、いま習ったことをわかっている生徒と、
 まだわかってない生徒がいるとき、
 わかっているこは、わかってないこの手伝いをする。
 そんなことできるのかいな、と、思うかもしれないが、
 あんがい、できるものなのだ。
 教え方が生意気なやつは、好かれないので、
 ちょっとずつ態度を改めるようになったりもした。

 先生は、教室のなかをぐるぐる巡回したり、
 隅のほうで本を読んだりしていた。
 
 班ごとのメンバーは、「同じ班」という偶然から、
 だんだん仲間意識みたいなものが生まれてくる。
 と同時に、他の班との競争意識みたいなものも芽ばえる。
 そのせいか、個人個人の競争意識はあんまりなかった。
 5年生、6年生と、そういう先生と、そうやって過ごした。
 なんだか、とてもおもしろかった。
 授業って、あんなふうにうまくいくものなのかと、
 いまごろになっても感心してしまう。

 班ごとに「文集」をつくることになって、
 ぼくのいた班は、そのタイトルを『希望』とした。
 あのとき「希望」を強く提案したのは、ぼくだった。
 いまでも、「希望」っていいじゃない、と思っている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「自由」も好きだけど「希望」はもっと好きかもしれない。

Twitterログ 7/14(木)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・「仔犬みたいにしっぽが振れたらいいな パタパタ」
 という歌詞を書いたことがある。
 松本伊代の『TVの国からキラキラ』という曲の、
 B面だったから、知ってる人も少ないと思うけど。
 
 犬のしっぽの動きが、ぼくは大好きだ。
 犬の顔というのはけっこう無表情なのだけれど、
 しっぽに思いっきり心持ちが表れてしまう。
 勢いよく右左にぶるんぶるんと振ったり、
 お尻の穴を隠すように下にまるまってしまったり、
 どういうこころの状態かが、ばれてしまうのがいい。
 人間にもしっぽがあったら、
 どれだけウソがつきにくいことか。
 あらゆる人が、もっとかわいい存在になりそうに思う。
 
 ただ、よくよく考えると、
 人間にもしっぽのようなものがある。
 動かそうとしているわけじゃないのに、動く筋肉。
 たとえば、「笑う」という行為は
 あたまのなかだけでは完成しない。
 あたまのなかで「おかしい」と思っているだけでは、
 それはまだ「笑う」になっていないわけだ。
 横隔膜をケイレンさせるような大きな動きやら、
 くちびるの両端が上がってしまうことやら、
 はっはっはっはっと断続的に息を吐くことだとか、
 いくつかの無意識の筋肉の動きがあってはじめて、
 「笑う」になるのだ。
 この無意識の動きというのは、しっぽだ。
 そして、人間どうしは、
 そういう無意識の筋肉の動きまで感じながら、
 たがいにコミュニケーションしている。
 
 特に顔の表情に表れてしまうなにか。
 硬い表情だとか、ほっとしたような表情だとか、
 微妙な顔の筋肉の動きを読みとって、
 人は人とこころのやりとりをしているものだ。
 この「しっぽ的」なものを、どれだけ含んでいるかが、
 人のこころの豊かさにも通じているような気もする。
 文章にも、「しっぽ的」なものがあるといいなぁ。
 あるような気もするんだけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ノドが痛くて、どうもだるい。仕事を半分にしております。

ママは細やか。「Onyx Containers」

秋田から東京に出てきて、ママの細やかさをさらに実感してたけど、それをこれで思い出してた。

www.roomie.jp

www.onyxcontainers.com

 

自分の食のことなんて全く気になんてできてなくて、シルバーが好きだからなんとなくぱっと目に入った記事だったけど、読んでみてふむふむと。

 

食材のことだけじゃなく、使う食器まで気にして作ってしまうなんて、さすがママ。自分のことより他の誰かのことの方が気を使うなんて当たり前っちゃ当たり前だけど、子供だとなおさらですよね。安くて便利なプラスチック容器をガンガン使ってて、剝げて色ついてうわ〜...ナウだったもんで、ちょっとだけタイムリーでした。

 

田舎だと食関連の衛生云々でセンシティブな雰囲気を感じたことが皆無だったんですが、都会という環境全体の雰囲気がそうさせるんでしょうか、この違いというのはケッコーな驚きだった気がする。家系的にテキトーだった可能性の方が高いですが。

Twitterログ 7/13(水)メモ貼りあり

何気に便利そう。「CHACOLI」

今まで確実にどっかで見た感あるけど、まじまじ見たら便利そうだったのでメモ。

 

chacoli.jp

kinarino.jp

 

個人的には3列まで厚さはいらないけど、2列の細身のやつはいいかも。

日頃ペットボトルとかタンブラー持ち歩こうとすると入れ方に苦労するんだけど、その心配が解消されるし(雨ふりそうだったら折りたたみさす場所にも使えそう)、直立に立つって何気に便利だと思う。

ガシガシ地面に置いて使いたいから、白もいいけどそれ以外の方が気にしなそう。白に跡がついていくのもそれはそれでいいんだが。

Twitterログ 7/12(火曜)メモ、ほぼ日メモあり

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・昨日、まるでとっさにという感じで、
 永六輔さんの作詞の仕事についてツイートをしました。
 少しだけ手直しして、ここに並べてみます。

 永六輔さんのことを、ぼくは「作詞家」として
 いちばんすごいと思ってきました。
 いわゆる「詩的」に見えやすいことばを上手によけて、
 みごとな世界をつくるんです。
 「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」
 「遠くへ行きたい」‥‥これらの歌が、
 人のこころのありようまで生み出したと言えます。

 「帰ろかな 帰るのよそうかな」
 (北島三郎さんが歌った曲『帰ろかな』より)
 もうこれだけで完成されてる。
 
 「こんにちは赤ちゃん わたしがママよ」
 (梓みちよさんが歌った『こんにちは赤ちゃん』より)
 というシチュエーションは、
 ずっと前からあったんだけど、その場面に、
 「こんにちは赤ちゃん わたしがママよ」
 というタイトルができちゃった。
 以降、赤ちゃんを生んだママは、その場面を、
 そのタイトルで見るようになった。

 「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」
 (坂本九さんが歌った『上を向いて歩こう』より)
 悲しみのなかで、どんな態度をとるのか?
 永六輔さんのアイディアは、これだった。
 たくさんの人が、それをまねしようと思うのだった。
 上を向くんだぜ、悲しいときに!

 「知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」
 (ジェリー藤尾さんが歌った『遠くへ行きたい』より)
 そんなふうに思うことさえも、
 永六輔さんのアイディアだったとわかる。
 
 「いい湯だな(アハハン)いい湯だな」
 (デュークエイセスの歌った『いい湯だな』より)
 それ以上、なにが言えようという大きな容れ物。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
アハハンのかけ声は、ドリフターズ版だけだったんですね。