メモ3/7
(前もちょくちょくメモってたけど、また、たまに。)
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『ほぼ日刊イトイ新聞より』
・横尾忠則さんの大きなテーマは、
「すべては未完である」ということです。
なにからなにまで、森羅万象の一切が未完である、と。
「達成感」とか「完成」とか「目的」とかを、
頭から排除しちゃってる‥‥のだと高らかに語ります。
これ、言うのは簡単ですけど、
ほんとうにそう思えるかと言えば、なかなかむつかしい。
でも、その感覚を我がものにすることができたら、
もしかしたら「達成」とは無縁の「万能」と「自由」を
得られるんじゃないかと思うんですよね。
学校にいるときから、いつでも人は、
もうちょっとあれができたらとか、これが不得意だとか、
できるけどまだまだだとか‥‥いかにも、その先に
「ちゃんと満点」があるように思っているでしょう。
でも、仮にその満点を得た次の瞬間には、もう、
次のできないことが待っているわけですから、
達成なんて、いつも過去のものになっちゃうんです。
それは能力の面だけじゃなくて、人間としての、
性質にまでおよんでいるわけで、
経験を積めば積むほど、じぶんの弱いところだとか、
じぶんのいい加減なところだとか、汚いところだとか、
悪いように思える不完全なところが見えてきます。
幼いころ若いころにはじぶんの弱さも見えにくいので、
しっかり生きた人ほど、じぶんのダメさに気づきます。
それを、直そうとしても、なかなかそうはいかない。
でも、「未完」を前提にしたら、どうでしょうか。
どうせ「死んでも未完」なのですから、いまは、
もっとじぶんに合ったことをしようと思えてきそうです。
弱いことを強くしたり、悪いところを直したりするのも、
なにかやりたいことがあってやるのなら、いいですよね。
でも、ただ「完成」に近づくために直すくらいなら、
それは無理だから(どうせ「未完」なのだから)、
しなくてもいいということでしょうね。
それをやめただけで、どれくらい自由になれることか。
よく考えてみたら、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、
だれでも極楽往生できると言った人も、
横尾さんと同じ「未完」思想だったのでしょうか。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
おれはおれを直さない。直っていたら、それをも直さない。
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動けもしないで「目的」とか「達成感」とか、そんなところばかりどうしても、ずっとずっと考えてしまう自分にうんざりだからなのか、書いておきたいと思った。