SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ3/23(木)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・「ほぼ日」社内は、なかなかすごいことになっています。
 金曜日からはじまる『生活のたのしみ展』の準備です。
 ずっと、このひと月くらいは、
 社内全体が忙しい雰囲気のなかにいたのですが、
 もう、そういう次元じゃなくなっています。
 ほんとうに直前の準備ということです。
 段ボール1000個をどう運ぶであるとか、
 大型トラックが荷捌き場に着いたとか、
 店と店のあいだを仕切る壁面の組立がどうだとか、
 いわゆる男手が必要な、なまなましい現場仕事になって、
 いつもとちがう野性的な「ほぼ日」が湯気を立ててます。
 それでも、荒んだ感じになったりする者もなく、
 働いている乗組員同士を気づかいながら、
 ことは進行しているようです。ナイスガイたち。

 インターネットだとか、クリエイティブだとか、
 どこかしら「現実感」から離れた場所で、
 キイボードの前が仕事場みたいな環境にいると、
 なんとなくだれにも備わっていたはずの「身体感」が、
 薄まっていってしまうようです。
 でも、「ほぼ日」って、なにかしらのイベントのたびに、
 身体をつかった「どろくさい」仕事を組み入れて、
 なにかを取り戻しているような気がしてます。
 身体を使わなきゃできない「どろくさい」ことと、
 「やさしく、つよく、おもしろく」は、両立します。
 たぶん、金曜日からは、
 たのしくておいしくておしゃれな場所が、
 六本木ヒルズの「大屋根プラザ」に誕生しています。

 よく「リーダーが背中を見せて率先して働いているから、
 みんながついてくる」みたいな言い方ってあるけど、
 うちはちょっとちがうけんのう。
 乗組員たちが(一見のんびりしているようだけど)、
 にっこり笑ってがんがんやっちゃうから、
 社長が「おれもがんばろ‥‥」とやる気になるんじゃよ。
 3月16日の「ほぼ日」上場のときもそうだったし、
 こんどの『生活のたのしみ展』も、もちろんそうなのよ。
 これだけ知恵と手をかけた大きなイベントは、
 いままでになかったものですが、きっとたのしめます。
 ひやかし半分にでも、本気でも、見に来てくださーい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくもちょこちょこ、役に立たないけど顔を出しています。

Twitterログ3/22(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

【・たとえば、である。「昨日、とうちゃんが死んだ。1年前にシロが死んだときのほうが悲しかった。」と書いてあったとしたら、それは「詩のことば」である。これが「社会のことば」であったとしたら、とうちゃんが亡くなったことを、悲しくないように言ってはいけないのである。しかも、それを犬だか猫だかの死とくらべているのは、ますますいけないことであろう。

世の中には「詩のことば」と「社会のことば」がある。アクション映画で、悪いやつがタバコを吸っていて、その吸い殻をそこらへんに投げ捨てる。それは「詩のことば」で描かれたものである。そして、クルマに乗って走り去るのだけれど、もちろんシートベルトはしない。この行為も「詩のことば」で語られているのだ。でも、悪いやつだからといって、映画だからといって、シートベルトをしないで運転するのはいけないからと、その悪い男がシートベルトをするなら、それは、「社会のことば」で語られたものになる。

「詩のことば」は、自由なのである。ほんとうは、自由であるはずだけれど、やや、そうでもないかもしれないという気もする。だから、思うだけで発せられない「詩のことば」もある。

「ぼくらは自由だ」というのは、「詩のことば」だ。「ぼくらは自由だ」という「社会のことば」もある。「あいつを傷つけたい」という「詩のことば」もあるし、「あいつを傷つけたい」という「社会のことば」もある。泣きながら語られる「社会のことば」もあったりする。冷静に、鬼のように語る「詩のことば」もある。

世界から、どんどん減っているのは「詩のことば」だ。すべてが「社会のことば」であっても、世界は成立する。だけれど「詩のことば」がなくなっていくと、それは、ただ「世界」ではあるのだろうけれど、「人間の世界」じゃなくなるようにも思う。それはいやだな、人間だものな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。詩の材料になるのは「沈黙」なのではないだろうかと思う。】

Twitterログ3/21(火)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

【・これから書くことは、恥ずかしいほどこどもっぽい。もともと、いろんな面で大人げないワタクシですが、こんなことを、いまごろ言ってるのかと、大笑いされるのを覚悟で書いてみます。

あちこちで、改装だとか建築だとかがあります。5万円だの10万円だのの修理もあり、100万円だの500万円だのも、もちろんあります。さらには、1000万円以上の工事だってありますし、ときには、億という金額になることだってあります。「お金って、かかるよねぇ」と苦笑いしながら、でもしょうがないよと捻出しているわけです。それくらいの金銭感覚が、ぼくらの頭にあるんですよね。

で、ふと、街を歩いているとき、目の前にある片側3車線くらいの道路って、もーのすごく広いなと思ったんです。キミやボクの部屋がどれくらいとれるだろう、ってね。6畳だ、8畳だ、12畳じゃ広いなとか話している単位で、ふだんの人間の住む場所の広さを語ってますが、横断歩道のゼブラ柄のところだけでも、キミやボクの家一軒ぶんより広いぞ、と気づいたのです。広さでも驚くけど、これ建設費って、いくらくらい?1メートルつくるだけでも、いっぱいお金かかります。5まんえんとかじゃないでしょうからね。しかも、道なんだから1メートルじゃないんです。仮にですよ、仮に5まんえんだとしたって、たった1キロの距離で5000まんえんですよ。あらためて、びっくりしちゃうわけです。しかも土中にはガス管とか電気や電話のケーブルだとか、水道管だとか埋めまくってあるんですから。インフラって、ものすごくお金がかかるんだと、いまさら驚いてしまったのです。そういう目で見てみたら、ごく当たり前の景色みたいなにょきにょきそそり立ってるビルの街にしたって、一棟ごとに巨大なお金がかかってるわけでしょう。

ほんと、じぶんの頭のなかには、大都市の経済を想像する力がないんだなぁ、と。お恥ずかしいのですが、気づいた次第です。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。国民総生産って、あの道路やビルまで含んでるんだよねー。】

Twitterログ3/20(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・わかる人なら、すぐわかっちゃうクイズです。

 さくらんぼ、いちご、りんご、なし、うめ、もも
 びわ、プルーン、あんず、洋なし、プラム。
 あなたの好きな果物はどれ? 
 っていうことじゃなくて、この植物の共通点は?
 まだわからない人には、ちょっと追加しましょう。
 アーモンド、さくら、バラ。
 
 もうわかりましたか、すべて「バラ科」なんです。
 いちごだけ、草だからちがうんじゃないかと思いますか?
 実はぼくもそう思っていたのですが、
 草か木かは、「どうってことない」らしいです。
 すべて「バラ科」なのだということです。
 香り、味、見た目、バラ科はすごいものですね~。

 あえて、バラ科じゃない果物を探してみたら、
 みかんやレモンなどのかんきつ類ぐらいかな。
 あとは、バナナとかマンゴーとかの熱帯系のものか。
 あ、スイカやメロンは「ウリ科」でしたね。
 そっか、「バラ科」ばかりじゃないこともわかったけど、
 でもやっぱり「バラ科」の勢いは圧倒的だと思います。
 
・なんで「バラ科」のことを書いてるかといえば、
 ぼく自身が「バラ科」を好きだ、という理由です。
 なんというか、その、
 バラだとか、さくらだとか、いちごだとか、
 うめ、ももさくらんぼ‥‥かわいいものばかりで、
 だれもが好きそうな、ポピュラリティそのものみたいな、
 いかにもふつうの好みなのですが‥‥しょうがないです!
 わしは、好きなものを好きと言ってるだけじゃけん!
 
 というようなことを、若いうちは言えませんでした。
 虚栄心の一種だったと思うのですが、
 「いかにもふつうの好み」が恥ずかしかったのかな。
 あるいは、バラだのさくらんぼだのが女の子っぽいのか。
 ぼくは、わりとそういう見栄から遠いつもりでしたが、
 なんとなく言い出しにくかったなぁとは思います。
 年をとると、自由になれるものですよね。
 さて、これからまた、いちごをいただきまーっす。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
思えば酒を飲めないことさえ、肩身が狭い時代もあったね。

Twitterログ3/19(日)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

イチロー選手は、打率よりもヒット数を大切に考えた。
 打率のいちばん高い選手は、
 首位打者としての栄誉を得ることができるのだけれど、
 率を下げないために出場をしないという選択もありうる。
 しかし、ヒット数というのは、
 機会が増えるたびに、ただただ足し算で増えていくから、
 続けて何本も打てることだってあるし、
 打席に立っているかぎりは減ることはない。 
 いつでも、頭のなかの割り算を忘れて、
 具体的に「ヒット」を打つというシンプルな方法は、
 じぶんが「なにをするべきか」を明確にしてくれる。
 
 他のことでも、同じようなことは言えると思うのだ。
 いわゆる、よくモテる男などは、
 ふられることを怖れずに、女性にアプローチする。
 何人口説いて、何人にふられたとしても、
 ひとりでもふたりでも相手にしてくれる人がいるなら、
 それは、望みが叶ったということだからね。

 逆のケースは「参加しない、つまり口説かない」だ。
 アウトになるのがいやだから、打席に立たない。
 実際に打席に立ってはいないのに、
 「あわよくば」という期待があるのが図々しい(笑)。
 「興味なかったんだけど、口説かれちゃって」とかね。
 そんなの、一等の宝くじが風で飛んでくるような話だぞ。
 打席に立たないけれど「ああでもないこうでもない」と、
 知ったような評論をしたり、試合中の選手に対して、
 欠点を指摘したりするようなことも、よくあるしねー。
 
・積み重ねるヒットを打つために、いまなにをしたらいい?
 それしかないんじゃないかと思うんだよね。
 他の人が打ったヒットの資料をゴマンと読んだところで、
 打席に立たなきゃ、ボールを投げてももらえない。
 
 ぼくも、それなりに長く生きているうちには、
 たくさんの別れも経験してきて、強く思うことがある。
 「人の一生っていうのはさぁ、なにを言ったかじゃない。
 なにをしたか、それに尽きるんだよ。
 いいこと、親切、冒険、人騒がせ、仕事‥‥」
 なにを言ったかは、やったことの索引にしか過ぎない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
評価とか評判なんてものも、打率に似てるかもしれないね。

Twitterログ3/18(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・人間の男って、なんとなく中学や高校の
 「部活」で表現できるような気がするんですよね。

 ラグビー部だとか野球部みたいな、
 やや厳しい運動部系の部活動をしている男。
 もうちょっと筋肉量や身長体重の少ない
 卓球部だとかテニス部だとかの部活をしていた男。
 運動じゃなくて、音楽の部活をしていた男。
 政治やら、主張の強い文化系の部活をしていた男。
 写真だとか文学やら映画やらの関係の部活をしていた男。
 それぞれ、似たような部活をしていたような人種が、
 大人になってからも、似た者同士で集うものです。
 
 厳しい運動部系の男と、絵や音楽の部活の男とは、
 ときには重なっていることもあるけれど、
 おおむね、別の種族として遠い距離にいたりします。
 ぼく自身は、基本的に、どこの部にも属してなくて、
 そのわりには、いろんな部活の部屋にたむろしてました。
 応援部もラグビー部も社会科学研究会も映画研究会も、
 どこのメンバーでもないくせに、
 だいたいの部に友人がいて、それぞれに遊んでいました。
 部活と関係なくいわゆる不良にも友だちがいて、
 どういうわけか、けっこうワルな連中とも、
 ワルじゃない部分でつきあっていたものでした。
 
 どうしても、性格的になのかなぁ、
 ひと色の種族で集まっているのが、つまらないんですね。
 美意識も趣味も、いろいろあるものじゃないですか。
 こっち側から見たら、あっち側がださく見えるし、
 また別の方面からしたら、どっちもかっこわるいとかね。
 ほんとにまったくちがったりするんだけど、
 それぞれ、よく知ると納得できるところがあるんです。
 あえて言えば、ある種の倫理観さえあれば、
 趣味思考なんて、どれでもいいって気がします。
 こういう性格のぼくからすると、なにかにつけて
 他人のことを「わぁ、信じられない」と言いたがる人は、
 世間を狭くしてて気の毒だなぁという感じです。
 
 「ほぼ日」の成り立ちを考えると、やっぱり、
 起点になっているのは、ぼくの性格だなぁと思ってます。 

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
おもしろい映画や小説も、いろんな人間が出てくるでしょ?

Twitterログ3/17(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・3月16日は、「株式会社 ほぼ日」の
 東証ジャスダックへの上場の日でした。
 だれかが、「結婚式みたいな一日ですね」と言いました。
 そうかぁ、そうかもしれないなと思いました。
 この日のことを、
 ボストンの「ハブスポット」社の社長
 ブライアン・ハリガンさんが、
 株式取引所の建物を見上げたとき「泣きだしてしまった」
 と語ってくれていました。
 ぼくも、そうなるのかとたのしみにしていたのですが、
 じぶんのこころというのは、なかなか謎です、
 まさしく身の引き締まる思いになってしまって、
 個人的な感情が奥にひっこんでしまったのです。
 しょうがないですね、「社長さん」だからね。

 上場の過程では、たくさんの思いがありましたし、
 多くの人の努力も、悲喜こもごもの物語もありましたが、
 やっとゴールテープを切った、と思ったら大まちがい、
 そのテープは、スタートの印だったのでした~。
 ほんとに、これにはじぶんでも驚きました。
 前の日の早野龍五さんの最終講義にあった
 「アマチュアの心で始めて、プロの仕事でまとめる。
 そしてそれを、たのしそうにやる。」ことが、
 ぼくや、ぼくらに求められていることだと思います。
 
 フリーのコピーライターとして認識されていたぼくが、
 まじめに会社をやっているということも、
 あんがい知られてなかったようなのですが、
 もうそろそろ、わかられるようになったかもしれません。
 社長をやるにあたって、カギになったのは、
 ドラッカーの「顧客の創造」ということばでした。
 なかったところに生み出すのが「創造」で、
 支持して、よろこんでくれるのが「顧客」と思うと、
 じぶんのやれること、やれそうなことが、
 おもしろそうに見えてきたのです。
 つまりは、もともと考えてたクリエイティブの定義
 「あ、いいこと考えた!」に根を付けるようなことです。
 実業の「実」は、実であり根だと思えたのでした。
 ある時期から、この考え方の延長で仕事をしてます。
 これからも、どうぞ、よろしくお願いします。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
感謝するべき相手が、たくさんいます。心から感謝します。