SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ3/15(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・昨日は、ここで「素直でいられること」について書いた。
 人びとが「そのままのわたし」を認めてくれるような、
 そんな場で仕事ができたらいいね、ということを書いた。
 それぞれのメンバーが、素直になれているチームは、
 仕事がおもしろくなる、ということを思って書いた。
 ただ、ちょっと付け加えた。
 素直だけだと疲れちゃうということも知っておこう、と。
 親しき中にも礼儀あり、の礼儀というものが、
 親しい人たちとの関係を助けてくれるんだよね。
 そして、素直まるだしのじぶんは、ときには、
 弱点だけでなく、攻撃性なんかも見せちゃうから、
 それは気をつけていなきゃねということもある。

 そのあとで思ったのは、「たのしんで」ということ。
 たのしんで、なにかと取り組む。
 たのしんで仕事をできたら、フルスイングできる。
 苦しいことも、つらいこともあるのはわかるけれど、
 たのしんでいるようにしていれば、たのしくもなる。
 ぼくは、できるだけそうやるようにしてきた。
 そのせいで、というか、そのおかげで、
 いいこともたくさんあったと思うし、
 他の人によろこばれることもいっぱいあった。
 だけど、これにも、ちょっと付け加えなきゃならない。
 「たのしんで」には、ちょっとした弱みがあるのだ。
 それは、「いい気なもんだな」という呪文だ。
 これを言われると、たのしそうにやっていることが、
 なんだか悪いことのように見えてくる。
 たしかに、だれかが「たのしんで」いるときにも、
 たのしんでいられない人がいるのは、たしかだ。
 時と所を選ばずに、ばか笑いするようなことは、
 やってはいけないことだとは、ぼくも強く思う。
 ただ、「たのしんで」いることを、
 どこのだれに遠慮しなくてはならないのか、
 実は、それは、よくわからないことなのではある。
 だれかがたのしそうにしている、というだけで、
 そのことに腹を立てる人は、たしかにいる。
 そして、「いい気なもんだな」という声は聞こえてくる。
 これを、何度も経験してきたぼくは、その対策として、
 先に「いい気なもん」かどうかを、
 じぶんで先に考えて、考え終えておくようにしている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「すでに考えてあって、決断をした」というのは、強いよ。

Twitterログ3/14(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・素直でいられるということは、とてもありがたいことだ。
 素直でいたら、ばかにされるのではないか、とか、
 素直にふるまっていると人を傷つけるのではないかとか、
 自らの素直に服を着せるようなことは、よくある。
 しかし、親しい人どうしの関係で、
 素直でいられる場面が自然に続いていたら、
 それは、じぶんにとっても、周囲にとってもなによりだ。
 
 こんなことを考えたのは、「Google」という会社が、
 「生産性を高める」ということについて調査をしたら、
 「心理的安全性」が大事だということになった、という
 インターネット上の記事を読んだからだ。
 そう、それはとても大事なことだよ、と思ったけれど、
 それは「生産性を高める」ために大事だというよりは、
 「人がチームで生きる」ために大事なことなのだと、
 ぼくは考えてきたような気がする。
 「生産性が高められる」というのは、まぁ、
 「結果としてよかったこと」なのではないだろうか。
 
・人には、わりに自然に身につけている「役割演技」だとか
 「役割思考」というようなものがあって、
 それをうまく使いこなすと、社会がうまいこと回る。
 だけれど、役割を演じているときというのは、
 どうしても素直のままでいられない。
 役と役とが、やりとりをしているのだから、
 そこでは、じぶんの気持ちは奥に引っ込んでいてもらう。
 そのほうが、たがいの役割が、うまく機能するからだ。
 だけど、それでうまく行くことと、いかないことがある。
 うまく行くのは、「目標に近づきやすくなる」こと。
 そして、うまく行かないのは‥‥
 素直になれなくてうまくいかないことは‥‥
 なんだと思う?
 それはね、「おもしろくない」ことなんだと思うよ。

 「こころ」と、「やってること」が一致すると、
 「おもしろい」んだよ、そして、その「おもしろい」は、
 それを見ている人や、その成果物に触れる人たちにも、
 どういうわけか、伝染するんだよ‥‥って、それだけ。
 そこに、さらに「生産性が高められる」なんて、
 よくばり過ぎなんじゃないかなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ただ、素直だけだと疲れちゃうということも知っておこう。

Twitterログ3/13(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

『気仙沼から相馬へ、打ち合わせと雑談の旅。』
 から戻ってきました。
 毎年3月11日は、なにがなくても気仙沼に行くと決めて、
 それを続けています。
 理由は、わりに単純なことだと思います。
 2011年の冬に、陸前高田「八木澤商店」の河野さんが、
 「正月を過ぎたら、忘れられちゃうんじゃないか」と、
 本気でさみしそうに言ってたのがきっかけでした。
 「そんなことないですよ、忘れないですよ」と、
 ぼくは言いましたが、未来のことですから、
 忘れないという自信があったわけではありませんでした。
 だから、「忘れないですよ」という約束を守るのに、
 じぶんたちに対しての、いろんな仕掛けをしたわけです。
 やりかけの仕事をつくる、というのは、
 そのためのいちばんわかりやすい方法です。
 「たとえ忘れたって、また来る」しかないのですから、
 忘れなくなっちゃうに決まってます。
 じぶんを、いいかげんな人間だと思っているぼくは、
 そんなじぶんの決意とか意志みたいなものを、
 あんまり信用できないものですからね。
 
 で、今年は、もっとわかりやすく用事がありました。
 福島県相馬市での「気仙沼さんま寄席」の打ち合わせ。
 立川志の輔師匠と、じっくり計画を進めてきて、
 場所も、日程も決められました。
 その計画を、どんなふうにふくらませるか、
 いろんな人に会って、相談してきたわけです。
 気仙沼のきっぷのいい「さんま関係」の方々、
 さらに、発想も行動力もある「おかみさん」たち、
 福島の前向きな新しいなかまたちに会ってきました。
 なんていうか、ものすごくたのしい旅になりました。
 関わるメンバーが、みんなそれぞれに、
 じぶんの力をみんなのために役立てる場面が、
 このプロジェクトでつくれるんじゃないかしらん。
 これを読んでいるみなさんも、ぜひ、
 相馬に観にくる、食べにくる、遊びにくるという感じで、
 力を貸してくださいね。
 ただ、今回の旅のたったひとつの困ったところは、
 あちこちうまいものばかりに誘惑されて、
 いつも腹いっぱいで苦しかったこと、でした。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
家にもどってから、夜中まで続いた野球中継も観ましたよ。

Twitterログ3/12(日)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・この日、この場所に、空から降りてきたのだとしたら、
 昨日、3月11日の気仙沼は、とてもいい日だった。
 お天気のいい穏やかな日を、人びとは過ごした。
 昔からある港町は静かで、そう、
 さみしいくらい静かだった。
 近所にある大人気の青果スーパーの話やら、
 どこそこの店の改装の話やら、
 複雑な編みもののちょっと苦労する部分のことや、
 ぼくの煮魚の食べ方がきれいだということや、
 ツリーハウスに集うこどもらの話ができた。

 かたちのあるものは、ずいぶん戻ったと、
 とてもあかるい顔で言った毛糸店の奥さんが、
 それに続けて、こころのことはぜんぜん戻ってないと、
 ふつうの顔になって言った。
 誰を責めるわけでもなく、じぶんの近くの、
 亡くなった何人かのことを数えるように口に出した。
 ただの天気のいい穏やかな日には、
 いろんな思い出が隠れているのだった。

気仙沼の港に着いた漁師さんたちに親しまれていた
 町の銭湯がなくなってしまうという。
 なんとか、港の関係者の手で銭湯をつくれないか、と、
 いろんな算段を始めたのだけれど、なんとも難しい。
 一億以上の金がかかるということと、
 漁船の寄港しない季節の営業はビジネスとして厳しい。
 気仙沼は、漁師さんたちの入れる銭湯のない町に、
 なってしまうということなのだろうか。
 漁師さんたちだけでなくて、
 町の人たちがみんな来たくなる銭湯ならいいのか。
 銭湯だけでない事業が組み合わさるといいのか。
 ぼくには、まだいい考えがないのだけれど、
 どうにかならないものかなぁ。
 市営の銭湯とかっていうのも、できないものなのかな。

・さて、今日もは相馬市にクルマは向かう。
 気仙沼の人たちは、相馬での「気仙沼さんま寄席」を、
 縁の下で力を発揮する役割で、参加してくれる。
 「あのときのうれしさ」を、福島でまた再現する。
 全国から、気仙沼から、秋に相馬へバスが行く。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「たのしくやっぺ」は、気仙沼でもよく聞くんだよね。

Twitterログ3/11(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・3月11日だから、ということで、
 なにかものを書く人は、それぞれに考えることになる。
 まる6年経ったということで、なにを書くのか。
 それとも、なにを書かないのか。
 いったん、たくさんのことを考えて、
 やがて、どうするのかを決めなければならない。
 
 品のない言い方をすれば、書く「ネタ」はある。
 怒り、悲しみ、やるせなさ、諦念、警鐘、
 どういう表現になるのかによって、
 いろんな文章が書かれていくことになるだろう。
 地元にいて、ふだん思ったことを書いている人たちは、
 なんとなく、この日には書かないということで、
 この日を過ごそうとしているふうにも見える。
 なんだか、とてもわかる気がする。
 現地では、震災からの日々は、ずっと日常そのものだ。
 あえて、3月11日に「書かない人」になるということは、
 日常から離れ、特別な日として黙するということだろう。

 悲しみに関わる儀式には、かならず黙祷がある。
 どんなことばを発するよりも、発することをやめる。
 それは、なにも言えない小さなものになることで、
 祷るべき相手への敬意を示すというやり方だと思う。
 
 たしかに、いろいろと思うところはある。
 あることはあるのだけれど、それは、
 根本的にたいしたことのないものだとわかっている。
 最初から、ずっとそう言ってきたけれど、
 ぼくやぼくらは、ほんとうにたいしたことのないものだ。
 たぶん、ぼくらが口を開くよりも大事なことは、
 いくらでもあるし、それはわかっている。
 
 ‥‥わたしはこう思う、わたしはこう考える、
 わたしはすばらしい、わたしは知っている‥‥。
 そんなことばが、空中で交通渋滞を起こしている。
 「いいでしょう?」というプレゼンテーションよりも、
 「よかったよ」のほうが、ほんとうなのだ。
 「こんなに思ってます」の告白ではなく、
 「思いをありがとう」の側に、ほんとのことばはある。
 なんてことを、ぼくは結局、書いているけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ともだちに会いに行くつもりで、東北に行ってきまーっす。

Twitter貼り付け曲まとめ23

https://twitter.com/s_ballkun/status/833385415482564608