SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ 10/19(水)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・道半ばの その道こそが 道である

 と、妙に七五調の一行が思い浮かんでしまった。
 そのまんまのことを思ったのだから、しょうがない。

 よく、なにかのことをやっている人が、
 その完成を見ないままに場を去ったときに、
 「道半ばにして」という言い方をするのだけれど、
 世の中って「道半ば」だらけだよなぁと考えていた。
 さみしいことを言うと思われそうだけれど、
 ぼくがいま考えているいろいろなことが、
 すべて思ったとおりにどこかに着地して、
 「道よ、わたしのふり返るところに見える道よ」
 なんて言えるとは、とうてい思えない。
 前にも続く道があって、後にも道があって、
 ぼくはきっとその途中のところにいるはずだ。
 それは、口惜しいことでも残念なことでもなさそうだ。
 そういうことが、なんだか急にことばになったのである。

 道にいたい、と思う。
 道端でしゃがんでいようと、道にいるのが好きだ。
 動きのなかにいたいということかもしれない。
 いつも途中のところにいたいのかもしれない。
 そのことが、欲が深いとも思えない。
 だってね、生きているということはそういうものだろう。
 みんなが道の途中にいて、ほんとは家なんてない。
 そうそう、家も道の上にあって動いているんじゃないか?
 ぼくには、そんなふうに思える。
 
 道なき道も、道になるから、
 あらゆる場所は、道になりたい場所だ。
 宇宙の彼方にさえ、そこまでの道を見つけるのが人間だ。
 いちどでも潜り着いた海の底は、もう道の向こうだ。
 方向が見えて、向かって歩む意志さえあれば、
 それはもう道というものなのだ。
 ただ、最初に行くものと、その道を行くものがいるだけ。
 そんなの、どっちでもいいよ、
 みんな「にんげんだもの」ね。 
 
 プロ野球選手の引退を見てたから、思ったことなのかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日」も「道半ば」のところにおります、しくよろね。

Twitterログ 10/18(月)メモ貼り

Twitterログ 10/17(月)メモ貼り

Twitterログ 10/16(日)メモ貼り

『Blue Books CO.』

あるサイトではじめ見た時、てっぺん的な部分をずらしてるようなデザインのキャップが目に止まった。キャップなんて今まで買ったこともないけれども、このずらす感覚はふむふむと。

全てハンドメイドらしい。ハットもあるし、メモっとく。

www.bluebooksco.jp

Twitterログ 10/15(土)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・松茸というのは、毎年同じ場所に生えてくるらしい。
 だから、ある年に松茸のとれた場所に、
 その区画の権利を持っている人が翌年も行くことになる。
 権利は、松茸のとれる山の区画ごとに入札して決める。
 松茸というのは、どこかにひょいっと顔を出すような
 フリーなものじゃないんだということだ。
 
 それでも、すべての松茸の存在が把握できるか、
 といえば、そういうものとも限らないらしい。
 例えば、前にブータンに行ったときに、
 松茸はとれますよーという話を聞いた。
 しかし、現地の人たちはそれを好まないので、
 価値を感じてないのだという。
 ここでの松茸は、フリーに顔を出しているのだろう。
 
 いや、なんで松茸のことを思い出したかというと、
 他でもない、ノーベル賞の件でね‥‥。
 ぼくにしてはものすごく珍しい時事ネタだよ。
 ノーベル賞というのは、毎年毎年、
 だれが受賞するのだろうと、世界中で予想されている。
 誰それが今年、そうでなければ誰それが‥‥と
 専門家による、かなり信憑性の高そうな記事が出てくる。
 その予想枠のなかにいる人物が、
 受賞したりしなかったり、意外でしたとコメントしたり、
 つまり、そんなふうなことになっていたと思う。
 松茸山の入札の儀式みたいなものだったわけだ。
 
 そこにボブ・ディランだ。
 これは、まったく別の山で発見された松茸だ。
 「そっちの山の、そいつも松茸だったのかい?」
 専門家もびっくりしてしまうような松茸狩りだった。
 本人というか本松茸がどう思ってたかは知らないけれど、
 このニュースを聞いたたくさんの人が思ったろうよ、
 「こんなところにも、天然の松茸があったのか!」
 そして、されにおもしろいことになる。
 「だったら、さ、あいつも‥‥それとか、あいつも、
 ノーベル賞もらえるかもしれないな!」と思うだろうよ。
 「おれこそが松茸だ!」と思うことが自由になったのだ。
 そう、専門家が予想しないところにも松茸があるのなら、
 もういっそ、あなたが松茸なのかもしれないのよ!

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくはこれを「ノーベル賞の大発明」と呼ぼうと思います。

Twitterログ 10/14(金)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・「ほぼ日手帳」というものは、
 いまではずいぶん知られるようになって、
 さまざまな使われ方やら、誕生のストーリーやらも、
 ずいぶんたくさんの人に知られているようです。
 いかにも「ほぼ日」らしい商品コンテンツです。

 ところが、ふと思ったのですが、
 「ほぼ日手帳」以上に歴史の古い「ほぼ日ハラマキ」は、
 実際に着けたり買ったりしてくださる方はいるのですが、
 どうやって生まれたの、あんまり有名ではありません。
 ぼくら自身も、こんなふうに育ってくるなんて、
 最初は、想像だにできませんでした。

 最初の最初は、ハラマキをつくる予定じゃなかった。
 いまも「ほぼ日ハラマキ」をつくっている
 新潟の白倉ニットさんが、まずメールをくれたんです。
 いっしょにセーターをつくりませんか、と。
 いや、それだったら、ぼく自身が巻いていて
 とてもいい効果のある「ハラマキ」をつくろう、とね、
 相談がはじまったわけです。
 そのころ、ぼくは、いただきものの、
 シルクのラクダ色のハラマキをしていたのです。
 「これ、すごくいいんだけど、恥ずかしいだろ?」。
 恥ずかしくなくてあったかいものがつくれたらいいよね。
 「ボディロールとかいうネーミングにしますか?」
 「いや、逃げずにハラマキと堂々と言っていこう。
 現物がかっこわるくなければ、ハラマキという名前も、
 そんな恥ずかしがる必要はなくなると思うよ」
 そんな話もしましたし、読者アンケートもとりました。
 「あんがい、ほしいという人もいるね」となって、
 「ほぼ日ハラマキ」の第1弾が発売されたのです。
 
 いちばん重要だったのは、デザインと、糸の工夫。
 肌に触れる面はコットンで、伸縮性があって、丈夫。
 こうして、リピーターや贈答の人も増えていって、
 つまり、いまみたいなことになったのでした。
 今日から発売のページには、そんな初期の雰囲気なんて、
 まったく感じられないかもしれませんよね。
 「ふつうに言えばダサい」ものが「かわいい」になる
 ‥‥価値観をくるっとひっくり返してくれた
 実に「ほぼ日」らしいコンテンツが、これなんですよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ハラマキやしょうがで「あたためるほぼ日」ができてきた。