SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ4/19(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・それにしても、昨夜の上野「東京文化会館」での
 「矢野顕子×上原ひろみ」のコンサートは、すごかった。
 音楽の激流に洗われて細胞が活性化したという感じ。
 まだ、余韻が消えそうもないです。
 そして、日記風にいえば、本日は朝から
 「伊集院光とらじおと」の収録に行きまして、
 終了次第、そのまま福岡に向かいます。
 親しくしていただいている博多の「グルーヴノーツ」に、
 ITに関わるレクチャーを授けてもらいに行くのですが、
 夜には前川清さんとお会いして、少々話をしてきます。
 ごっちゃごちゃに見えますが、そんなこともないです。

 ま、いつも以上にごちゃごちゃ動いている日に、
 「ほぼ日」にとって、けっこうな大ニュースです。
 ぼくらも、もともとおつきあいのある方々で、
 それぞれのお仕事についてずっと尊敬していた
 お二人の方々が、「ほぼ日」という船に乗り込みます。
 若い新人、とかではありません。
 早野龍五さんと、河野通和さんです。

 僥倖というか、おれたち運が強いね、というか、
 実にすばらしい出会いになりました。
 そこらへんのことについての短い経緯と、
 ぼくを含めた三人からの初めてのご挨拶と、
 どうしてこういうことになったのかという
 「動機」やら「歴史の必然?」について話をしました。
 詳しくは、そちらをゆっくりとお読みください。
 ふだんの連載の構成で、全4回としてつくりましたが、
 全4回分を、本日、いっぺんに掲載します。
 この鼎談が行われたのは、6日前のことでしたが、
 特急で仕事をして、すぐ掲載することにしました。
 正直言って、とても恵まれた流れを感じます。
 そして、とても愉快です。
 ふんばる足に、ぐっと重みを感じています。
 まさしく、夢に手足がついて動き出していくところです。
 できることが増えていく実感が、もう、あります。
 早野さんの東京大学最終講義で語られた
 「アマチュアの心で プロの仕事を 楽しそうにやる」
 こういうことが、もう「ほぼ日」で始まっています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
しばらく「さん付け」が直らないのですが、ま、いいかな。

Twitterログ4/18(火)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・昨日、この場で、以下のようなことを書きました。

 「かわいい」と感じたり言ったりすることは、
 2歳の女の子でもできて、しかも、すべて正しいのだ。
 「かわいくない!」と言われる筋合いはないのだ。
 なんてすばらしい概念、なんという万能で平等なことば。
 あらゆる「かわいい」は、ぜんぶ肯定されるのだ。

 お金に換算したらいくらだとか、
 どれだけ多くの他の人が認めるかとか、
 そういうことは、まったく関係なくていいのです。

 今日から、「TOBICHI2」で展覧会もはじまる
 ヒグチユウコさんとの対談で語っていたことも、
 「かわいい」に関わるんじゃないかと思っています。
 いわゆる、おおぜいの人が「かわいい」と思うことと、
 ヒグチさんが「かわいい」と感じることの間には、
 それなりの距離があります。
 その距離のせいで、ひょっとすると多くの人が、
 ヒグチさんにとっての「かわいい」を描く世界を、
 「キモチワルイ」と感じる可能性もあります。
 さらに言えば、ヒグチユウコさんは、
 ぼく個人からしたらもっと「キモチワルイ」ものを、
 それを好きだと宣言しています。
 
 ぼくもそうだったけれど、人びとは、
 そのあたりのことを理解したいと考えるようになったり、
 彼女の「かわいい」の豊潤さを、
 だんだん、うらやましいと思うようになったりします。
 やがて、ヒグチユウコの「かわいい」世界は、
 だれともちがっているのだけれど、とても説得力のある、
 しかもずいぶんと魅力的なものに思えてきます。
 「芸術に人がつかまる」というのは、こういうことかな。
 つかまってしまったその人は、どうなるかと言えば、
 いつのまにか自由と豊かさを得ているのです。
 豊かに「かわいい」を発見し育てることのできる人は、
 その「かわいい」の世界を、人びとに伝えられる。
 親をやってきた人なら、娘や息子の影響を受けて、
 新しい「かわいい」を覚えたこともあるでしょう?
 こうやって人類の「かわいい」総量が増えていくのです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「かわいい」は争わず、「かわいい」は対立してはならぬ。

Twitterログ4/16(日)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・喘息をやった人は、空気に敏感になるという。
 ぼくも、そういえばそうだ。
 精神的なことの比喩にしても、
 息苦しい感じとか、空気がよどんでいるとか言いたがる。
 呼吸することで苦しんだ経験があるから、
 吸うこと吐くことに意識がいきやすいのだろう。
 
 そういうじぶんが、最近、ふと気づいた。
 ぼくの呼吸が浅くなっている、ということだ。
 ちょっと吸ってちょっと吐いてる感覚がある。
 人間は、ものを食べることと空気を呼吸することで、
 生きて動いているわけだから、
 呼吸が少なくて浅いということは、
 食事をいいかげんにしているのと同じようなものだ。
 これはいかん、このことをしょっちゅう思い出して、
 しっかり呼吸をすることにしようと考えた。
 
・花粉症の人たちにとって、深く呼吸するなんてことは、
 とんでもなく怖いことなのだろうな。
 じぶんを痛めつけることになる花粉が、
 空気のなかにたっぷり混じっているのだから、
 そんなものは吸いたくないに決まっている。
 しかし、だからといって呼吸を浅くしていたら、
 生きるということのパフォーマンスは落ちるだろう。
 逆に、きれいな空気の山や海なんかにいると、
 周囲の空気がごちそうのように思えて、
 思いっきり吸いこんだり吐き出したりをしたくなる。
 そんなふうに深く深呼吸をしていれば、
 他になにがなくたって元気になるというものだ。
 
・この世を悲観的に考えたくなるきっかけには、
 空気が汚れていくという認識があるような気がする。
 「未来は、どんどん空気がきれいになっていきます」
 などという発明ができれば、そうとうに
 人びとのこころをつかめるのではないだろうか。
 2011年3月のある日「換気扇を回さないように」と、
 行政からの指示が聞こえてきたとき、
 ぼくは、とてもたくさん悲劇的な道筋を覚悟した。
 部屋のなかより、外の空気のほうが汚いということは、
 世界に絶望していくには、なによりの近道になる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
大きな静かな深い呼吸をしましょう。快眠快食快便快息。

Twitterログ4/15(土)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・「ほぼ日」で「東京特集」というものがはじまった。
 藤森照信さんとの対談を皮切りに、
 じっくりと、「ほぼ日」ならではの「東京」を遊ぶ。
 やっぱり、次のオリンピックが2020年にある、
 ということが、こんな特集をやるときの背景にはある。
 それと「東京糸井重里事務所」という社名が無くなって、
 あれほどなじんできた「東京」を、じっと見ようか、と。
 そんな気持ちも、ちょっとはある。
 
 さっそくのアンケートに、じぶんでも答えてみた。
 自由になにかを記すところがあって、ぼくも書いた。
 「東京にはなんでもありそうで、
 たしかに、なんでもあるような気がする。
 でも、なにもないようにも思える。
 ただ、そこに、ぼくも、友だちも住んでいる」
 あんまり考えずに、思いつくままに書いたら、
 そんなふうに文字が並んでいた。
 「東京」は、ある時代には、裏番長のように見えた。
 これからは、東京が世界をリードするんじゃないか?
 そんなふうに思いあがりかけていた。
 でも、いま、そうはとても思えない。
 前を走っているがゆえの顔に当たる風を感じない。
 だからダメなのかといえば、そんなことはない。

 東京だけのことではないけれど、
 いまいる場所をおもしろく生きていくためには、
 いままで追いかけてきたものと、
 ちがったものを、よくよく探してみることだ。
 そういうことをしている時間そのものが、おもしろい。

 東京に、なにがあって、なにがない。
 どこに行きたい、どこにいたい。
 どんな人がいて、どんなことをしている。
 世界をリードしているんじゃないかという感覚より、
 もっとおもしろくて、やさしさのあるゲームが、
 これからはできるんじゃないだろうかとも思っている。
 ぼくが思うには、ヒントは「時間」のとらえ方にある。
 たいていのものごとを考えるのに、
 「そこにこめられている時間」を味わうということ‥‥。
 散歩中の犬の運子拾いだって、いい時間に数えられる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
2020オリンピックという目盛りは、なかなかでかいです。

Twitterログ4/14(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・毎日「ほぼ日」を読んでるし、書いてるし、
 それどころか「ほぼ日」に通っているものだから、
 この場所がひとつの「世界」みたいになっています。
 家と、道と、「ほぼ日」があれば、
 他になんにもなかったとしても、一日が過ごせますし、
 なにひとつ問題なんかありませんという感じになります。
 19年近く、やってきたのだから、ここが、
 「世界のすべて」みたいになるのも当然かもしれません。 
 でも、ほんとうは事実を知っているわけですよ、
 世界ってものは、もっとずっと広いってね。
 それは知ってるけれど、じぶんたちの世界が、
 それなりに広いような気になっちゃってるんですよね。
 注意しているんですけど、そういうことになっちゃう。
 日々、「ほぼ日」だとか、ほぼ日刊イトイ新聞だとか、
 すでに知ってる人とばかり会ってますから、
 ぼくらの住んでいる狭い「世界」を基準にして、
 みんなが「ほぼ日」を知っていると錯覚したりします。
 そんなことあるはずもないのに、錯覚しやすいのです。

 でも、「じぶんの世界」を出て「世界」を眺めたら、
 「ほぼ日」を知らない人のほうが、
 何千万倍も多いということがわかったりするんです。
 これを読んでいるあなたも知っているはずですが、
 隣りの人に「ほぼ日って知ってる?」と訊ねたら、
 かなり多くの人たちが「知らない」と答えるでしょう。
 「ほぼ日手帳」を使っている人にしたって、
 実際のところ、けっこう少なくないとは思います。
 とても愛されていることもよくわかるし、
 一年を通じて付きあってもらえるうれしさもあります。
 でも、同時に「なにそれ?」という人はいくらでもいる。
 嫌ってるとか無視しているのではなくて、
 「それを知らない」人がほとんどかもしれません。

 いまさら、どうしてこんなことを言ってるかというと、
 「ほぼ日」や「ほぼ日手帳」を知らなかったという人が、
 知ってる人よりずっと多いんだということを、
 知ってたけれど、いまさらまた知ったからです(笑)
 いまさらですが、もうちょっと、なんとかします。
 今日は、「ぼくらの世界の狭さ」について
 全員で考えるミーティングをやる一日です。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「立候補しない人は当選しない」の法則を思い出したです。

Twitterログ4/13(木)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

・血気盛んで売り出し中って人は、
 じぶんや、じぶんたちがどれほど強くて、
 どれだけ先見性があって、どれくらい情熱的かを語る。
 よく考えれば、じぶんにも、そういう役割を
 求められている場面が何度となくあったように思う。
 ただ、そんなに強い人の話は、聞いてておもしろくない。

 なにかで有名になった人なんかだと、
 じぶんがどういうふうに戦って勝ってきたかを語る。
 政治家だろうが実業家だろうが、
 タレント、スポーツ選手、デザイナーであろうが、
 講演みたいな場所では「勝ってきた記憶」を紹介する。
 勝ったのなかに、失ったものがある‥‥なんてことは、
 たいていは言わないけれど、あるんだろうなと思う。

 ほんとうは、うまくいった話、失敗した話、
 勝った話、負けた話のどれよりも、
 いちばん聞きたいのは「後退戦」の話なんじゃないかな。
 負けたとき、あるいは負けそうになったときに、
 どういうことを考えたか、どうじたばたしたか、
 なんなら、どう逃げたか、どう誤魔化したかでもいい。
 負け戦のなかに、小さくてもいいから手がかりを探して、
 転じて攻撃に向かうのか、被害を少なくして退くのか。
 無数にいろんなことが考えられる。

 いや、ね、ここまでの話は後から考えたこと。
 ‥‥プロ野球が開幕したでしょ。
 そしてね、勝ちが続いているときよりも、
 無残に、あるいは惜しくも負けているときのほうが、
 身を入れて真剣に試合をたのしんでいるんですよ。
 むろん、贔屓のチームが勝ってれば気分がいいし、
 勝って勝って優勝をめざしているに決まっているのだが、
 いちばん凝視していたいところは、
 負け戦のなかの、意志やら、希望、戦略などなどなのだ。
 ぼくが、ちょっとマゾなんですかね。
 こころがひりひりしているときのほうが、
 生きている実感がある、とか言うつもりなのか、オレよ。
 そこらへんの性質については、よくわからないのですが、
 「負け戦」のほうが高度なおもしろさがあるというのは、
 「やがて勝ちたい気持ち」が、底にあるからでしょうね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あと、負けているときの態度で、人のかっこよさが見える。

Twitterログ4/12(水)ほぼ日メモ、メモ

今日は、ある書籍の一部分が引っかかったので、そこをメモっておきたい。

 

題名:考えの整頓

著者:佐藤雅彦

 

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「たくらみ」の共有

〜〜〜

「謀」つまり企みが、一体感を生むこの独特の感じは、何か他にも自分の『記憶の棚』のどこかにもあった気がして、内省し、探索してみた。すると、果たしてあるひとつの出来事が見つかった。

中学生の時の事である。父兄参観日の前日のホームルームでこんな意見が出た。

「先生、明日、これわかる人って問題だすの、やめてほしい。俺、絶対手を挙げられないから、母親が恥をかく」

それに対して、先生は、ちょっと考え込んで、こんな策を提案した。

「じゃあ、わからなくてもわかっても手を挙げろ、ただし本当にわかる人はパーを、わからない人はグーを出せ」

 

かくして、父兄や見廻りの校長・教頭が目を見張るほどの活気あるクラスが当日できあがった。そこで父兄が見たものは、なぜか、いきいきとした楽しいクラスの様子だったと思う。先生の機智に富んだ企みの下、私たちは何か愉快だった。答えがわかる者もわからぬ者も平等に愉快だった。あの一体感は幸せに溢れるものだった。いつもは、授業に斜に構えて臨む不良も思いきり手を挙げた。

〜〜〜

==========

 

この先生、天才。

・答えがわかる者もわからぬ者も平等に愉快だった。

・いつもは、授業に斜に構えて臨む不良も思いきり手を挙げた。

この雰囲気が、なぜか、手に取るようにわかる気がします。頭のいい悪い・声の大小に関わらず、クラス内の個人・グループが「それぞれに楽しみつつ一体感を感じられた」、それがパッと想像できるんです。「それぞれ・全体が両立できる」、良い企みの大事な要素じゃないかな、と。

そしてきっとこの企みが、この授業だけでなく、その後の授業やそれに臨む生徒にも大いに影響したんじゃないか、と強く思います。

 

またひとつ面白いのは、この良い企みは、父兄参観といういわゆる「めんどくさいタイミング」に「図々しくモノを言える生徒」がいたからなり得た、ということ。

普通の生活の中で、生徒が「これわかる人って問題だすの、やめてほしい。」と先生に言っても、なんでやねんとつっこまれて終わりだったと思う、当然だけど。それを、親(校長・教頭含め)の第三者の目を意識させ(責任転嫁?笑)、良い意味で先生も生徒も一丸と「ならざるを得ない」タイミングだったことで、なんとまあ面白くて優しい企みが出て、一体となることができたんじゃなかろうか。ある種の「図々しさ」とも取れることを素直に言えるということも、その人の良さのひとつだよなとつくづく思う。

 

 

今回この文章からの感触に、とても大事なものがある気がしてならなかったので、忘れないようにメモらせてもらいました。忘れません。

 

 

 

 

今日のダーリンより

・たぶん、いまの若い人たちは
 「殺し屋」というぶっそうな単語を聞いても、
 ちょっと古いけど一般的なことばだと思っているだろう。
 しかし、このことばが、ひとつの流行語のように
 ふつうの人びとの前に登場してきたのは、
 おそらく戦後の高度成長期のいつごろかだったと思う。
 それほど古くからあったわけじゃないのだ、おそらく。
 ある時期から、「職業として人を殺す人間」のことが、
 語られるようになっていった。
 「そんなことまで、職業にできるのか」という驚きと、
 「そんな職業が現れる時代になったのか」という嘆きが、
 世間の人びとの興味を引いたのだろう。
 「殺し屋」は、ドラマの重要な登場人物に育っていった。

 他人の生命を奪おうとするには相当の覚悟と決意が要る。
 そういう事件があったときに、警察などが、
 「殺害するにいたる動機」を調べるのは、
 理由もなしに人を殺す者などは、なかなかいないからだ。
 ところが、「殺し屋」という職業の「代理人」だと、
 その動機の部分が、見えにくくなるはずだ。

 「殺し屋」というものが、うまく仕事をできるのは、
 当事者でなくて、「代理人」だからである。
 なにかの問題の当事者だとうまくできないことも、
 「代理人」を間に入れて距離をとると、
 うまくいくことがとても多くある。
 問題を解決しやすくするためには、
 当事者が持っている「感情」がじゃまなのだ。
 さらに言えば、代理人がその道の熟練者だったら、
 本人がじたばたするより、ずっとうまくいくことが多い。
 それは、冒頭から極端な例を出したけれど、
 「殺人」みたいなものでさえ、そうだし、
 弁護士も、引っ越しも、医者も、教師も、
 ほとんどは当事者の「代理」で仕事をしている。
 分業というのは、「代理のしくみ」でもある。

 代理で、なにかをやってもらう、やってあげる。
 代理でなにかするというのは、
 人が、いったん「使える道具」となることだ。
 代理人が勇み足をするのは、代理だからなのである。


今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「殺」という文字を、10年分以上使ってしまったかもねー。