SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitter貼り付け曲まとめ25

Twitterログ4/11(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・四月の、いまごろ。
 新しい環境にある人は、戸惑ったりしやすい。
 新しい場所でなにをしていいのか、
 なにをするべきなのか。
 そうそうわかるものじゃない。あれれれ、である。
 じぶんの力が、どこでどうやって発揮できるのか。
 まったくわからないし、力なんて、あったっけ?
 戸惑ったりもするし、悩みやすくもなる。
 もっと、ずっと、たのしみにしていた四月なのに。
 どきどきわくわくしていたはずなのに。
 たった三日で疲れちゃった、かもしれない。
 いや、たのしいことだって、なくもないかな。
 だけど、わたしはどうなっていくのかな。
 このままでよかったんだろうか。
 夢を見過ぎていたのだろうか。
 もっと、つまらないと覚悟してればよかったのか。

 ‥‥というようなところにいても、
 それでいいのだと思う。
 そんなもんだと思う。
 もし、戸惑ってなくて、
 とても元気でやれている人がいたなら、
 そりゃもう、とても運がいいってことだ。
 
 四月のいまごろは、戸惑いの時間。
 急いでどうにかしようとしなくてもいい。
 小さくてもたのしいことを、
 ひとつでもふたつでも見つけられたらいいんじゃない。
 近所に、おいしいパン屋さんがあったとか、
 通い道ですれちがうかわいい人がいたとか、
 それくらいのことを、見つけただけで大当たりだ。

 うまくても、へたでも、「そこに一所懸命にいる」。
 いることだけが大事だと思っていい。
 「いる」って、どういうことか?
 あえて助言をするならば、「いる」というのはね、
 「耳でよく聞いていること」と、
 「目でよく見ていること」そして
 「足でよく歩いていること」だよ。
 それをちゃんとやっていることが「いる」ということ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あと、むだ吠えしないこと、拾い食いをしないこと(笑)。

Twitter貼り付け曲まとめ24

Twitterログ4/10(月)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

・例えば、どこかの運動場だとか、学校だとかの辺りで、
 野球部の連中かなと思われる若い人たちが、
 笑いあったりしゃべりあったりしていたら、
 「おお、野球少年たちか、がんばれよ」と、
 好意的に見ながら通り過ぎることであろう。

 それは、サッカーの格好をした若い人たちであっても、
 ラグビーでもテニスでも卓球でも、みんな同じことだ。
 スポーツをやっている青少年たちが、
 わいわいとたむろしている景色を、
 ぼくは、決して嫌がったりしないで見ているはずだ。
 勉強してるわけでも、仕事してるわけでもないけれどね。
 楽器を持った若い人たちにしても、同じだ。
 古典的な音楽を演奏するための楽器を持った青年たち、
 ドラムスティックやらギターとかを持った若い人たち、
 それが、ユニーク過ぎるくらいの姿だったとしても、
 おおやってるなと思って、静かに眺めていると思う。

 マンガのことを夢中になって研究している若い人たち、
 フィギュアを真剣に集めている青年たち、
 お笑いに命懸けてるかもしれない若い男女たち、
 どれも、みんな行けるところまで走れって思ってるよ。

 さて、どうして、ぼくはこんな例をいくつも出して、
 そういう若い人たちを好もしく見てるなどと言ったか?

 それは、青山のファッションブランドの店の辺りを、
 うれしそうにはしゃいで回遊している青少年たちを、
 ぼくが、ちょっと冷たい目で見ていたと気づいたからだ。
 野球に夢中になってる若い人たちと、
 音楽をたのしくやっている人たちと、
 ファッションに興味を持ってる人たちと、
 ほんとは、みんな同じなんじゃないかい、オレよ!
 ということが、いまさらわかったのだ。
 いままで一度も文句を言ったことはないけれど、
 ファッションブランド聖地巡りをしている
 国内や海外の若いみんなに、謝るよ。
 どうして、いろんなことに夢中になっている若者たちに、
 好意の序列をつけていたのか、これから考えてみるよ。
 やっぱり貧しい時代に育ったせいも、あるのかなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんの無意識って、気づいたときにハッとするよなぁ。

Twitterログ4/9(日)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

・いろんな場所で、しばらくぶりに出会った人たちが、
 「おめでとうございます」と声をかけてくれます。
 それは、3月中旬の「ほぼ日がジャスダック上場」
 というニュースのおかげなんですよね。
 たしかに、それは簡単な道のりではなかったし、
 社会のなかの「会社」として認識されたということで、
 祝われるのはうれしいものなのですが、
 ぼくの、ほんとの気持ちは、もうちょっと複雑です。
 「ありがとうございます」という気持ちの他に、
 なんとなく、初めてこどもを持った父親みたいな、
 「目が笑ってない」硬い笑顔になっているんです。
 新車を受取ってガソリン入れに行くときだとか、
 入学式や入社の式に向かう駅からの道だとか、
 やっぱりちょっとぎこちなくなるじゃないですか。
 ぼくは、じぶんのことを、
 けっこういろんなことに馴れた人であると、
 じぶんにも言い聞かせて、そうふるまってきましたが、
 そういうものでもないんだなぁと、よくわかりました。
 
 「ほんとうに問われていることは、なんなのか?」
 それを、真剣に自問自答してきたはずです。
 根本的とは言いにくいような現象や思惑にとらわれて、
 ほんとうに大事なことを見失わないようにしようと、
 こころを引き締めてきたのですが、
 考えがやっぱりまだ、のびのびできてない感じです。
 このへんのある意味で初々しい感覚は、
 やがて馴れてから忘れてしまいそうなので、
 あえて記しておこうと思いました。
 
 実際に考え中だったりやり出していることは、
 いままで以上に真剣だったり大胆だったりしています。
 どうやら、というか、けっこう確信的に、なのですが、
 「ほぼ日」は、変わります。
 政治家がよく「チェンジ!」と言いたがりますが、
 あんまりそういう感じじゃないような気がします。
 でも、起承転結でいえば、おもしろく「転」します。
 少しずつわかってもらえるようになると思いますが、
 「やさしく、つよく、おもしろく」の精神はそのままで、
 できることをひと回り大きくしていくような変化です。
 19周年の記念日である6月6日に向けて、動いています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。

Twitterログ4/8(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・ドーナツの穴というものについて、
 それはなんなのかと考えた人はたくさんいるでしょう。
 けっこう多くの人が、その話をしたことがありそう。
 だから、それは、平凡な話題ではあるのでしょうが、
 会話がころころ転がるおもしろさがありますよね。
 よく言われてそうな「ドーナツ買ったら、穴をやるよ」
 というくらいのふつうの冗談でも、
 「ありがとう、でもかじりかけの穴だろ」とか、
 「前にもらったやつがあるから、いらない」とか、
 なにかしら、言い返せそうなところがあります。
 おもしろいかどうか以上に、キャッチボールができる。
 ドーナツの穴、という「ない」ものが「ある」。
 こういう世界について、あれこれやりとりするのは、
 意味も意義も考えずに遊べるものです。
 だいたい、はじめからでたらめで、
 正解も不正解も、まったくどっちでもいいんですから。
 ことばや考えがころころ転がって、
 その転がり方そのものをたのしんでいればいい。
 ネットで調べても、まったく意味がないわけです
 ‥‥と、ここまで書いて、
 ネットで「ドーナツの穴」と検索したら、
 なにが出てくるのかをたしかめてみようと思いましてね。

 そしたら、ああ、なにも言うまい、やらなきゃよかった。
 ぼくが世間知らずだった、遅れてました。
 いいとかわるいとかを超えて、いまの時代、
 検索したらなんでも出てくるわけです。
 「ここまでは考え終わっている」というところから、
 いまの時代を生きるものは始めなきゃならないんですね。
 じぶんが、これから言うかもしれないことが、
 じぶんよりうまくまとめてあって、いつでも読める。
 こんな状況のなかにいると知っていたら、
 たしかに、じぶんからなにかを言い出しづらくなります。
 そういえば、ツイッターなんかで、
 いま思いついた冗談を落書きのように書いたりすると、
 「それ、とっくに、ありますよね」とか注意を受けます。
 めんどくせぇ時代だなぁと思ってはいましたよ。

 南伸坊さんとやってた『黄昏』のたのしさって、
 あれは、いったいどういうものだったんでしょうかねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
また『黄昏』で遊びたいなぁ。伸坊、時間空けられるかな。

Twitterログ4/7(金)ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日メモ

・散歩から帰ってきた犬が、足を洗うバスルームまで、
 家人に抱っこされて行く姿が、とても好きだ。
 ぼくに、いろんな好きなものはあるけれど、
 犬が抱っこされて廊下を行く光景は、かなり上位に入る。

 仔犬のときから、犬は自由で生意気で、
 じぶんだけでなんでもできるようなつもりで、
 家中をわがもの顔で走り回っている。
 なにか欲しければ催促をするし、
 おしっこをすれば、ほれ早く片づけろと命令をする。
 王さまのようなふるまいで生きている。
 しかし、抱っこされている犬というのは、
 純朴で小さくてなにもできない赤ん坊のようである。
 「ふだんは威張ってるくせに、抱っこされてらぁ」
 という目で、ぼくは犬を見てしまう。
 ちょっとわるいかなとも思いつつ、
 好きなコをからかうような気持ちで、
 抱っこされて運ばれていく犬を見て微笑んでしまう。
 
 犬としてみれば、弱みを見せてしまって、
 「少々、残念である」というところかもしれないが、
 抱っこされている犬の、その弱さというものは、
 犬たちの強さの何十倍もの力になっているように思う。
 その弱さは、ぼくらの親しさをたしかめさせてくれる。
 ぼくら人間がいないと、生きていけないという事実を、
 素敵におもしろいかたちで思い出させてくれる。
 大丈夫だよ、ちゃんとぼくらが守るからと、
 ややオトナな気持ちになって、ぼくは犬を見る。

 そういえば、と、いっしょにしては申しわけないのだが、
 魅力のある人間たちというのは、
 こんなふうな、「抱っこされている犬」みたいな、
 愛嬌のある弱さを持っているような気がする。
 あの人、この人、ぼくにとってかっこいい人、
 尊敬している人、魅力的な人たちはいっぱいいるけれど、
 みんな、意外な弱さのようなものを合わせ持っている。
 意図してそう振る舞っているのではなさそうなのだが、
 どうしても顕れてしまう「純朴な弱さ」のようなものが、
 その人の強さ以上に、人を惹きつけるのだ。
 勉強とか、努力では身につかない賜物のように思える。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
完全な人になんかなれっこないし、魅力もないってことね。