SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ3/30(木)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

【・なにかを企画するとき、「最高にうまくいったらどんな感じになるの?」ということがちゃんとイメージできているか。これは、なにより大事なことだ。

困難な山登りにたとえるなら、山頂でにっこり笑っている場面だけでなく、のちのちその写真を見ている家族の表情だとか、それまでの苦労を酒を飲みながら話しあってる状況とか、成功したあとの「うれしいイメージ」があるか、ないか。実際には、ただただ目の前の課題を解決していって、尺取り虫のように前に進むという姿になるかもしれない。しかし、その地味な作業を続けていったら、その先にどういう景色が見えてくるのかが見えてなきゃいけない。

そして、まったくその逆に、「最もうまくいかなかったとき、どんな被害があるの?」ということについても、考えておく必要がある。こっちのほうは、イメージできなくてもいい。なにが失われるのか、どれくらい損失があるのか、痛手があるとしたらそれは回復可能な傷なのか、おもしろくもない数字や、ことばで、確認しておく。失敗は、ありえないことではないけれど、あったときに驚いて頭のなかがまっ白にならないこと。これだけは気をつけておく必要があるのだ。「失敗しても、この程度」という覚悟があれば、失敗について、いったん忘れていることができる。

ほんとうは、「最高にうまくいったときのイメージ」がまだ浮かんでないというときには、その企画は、進めてはいけないのだとも思う。最低でも、そのことに関わった人たちの笑顔くらいは、盛大にイメージできていなくてはいけない。苦虫を噛みつぶしたような会議で、消去法で出した結論で「これは決定です」というようなプランでは、まだ始めてはいけないのだと、ぼくには思える。同時に、失敗が冷静に見積もれないままで、いくらでも怖い想像が湧いてくるようなときにも、進めるのをいったん休止するほうがいい。「ほぼ日」の企画は、基本的にそんなふうに決めている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。始める前に拍手の音が聞えている状態が、いいスタートだ。】

 

Twitterログ3/29(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・昨日、永田さんが、こんなツイートをしていた。

 「こうして道中を報告するのも、
 仲間の搬入や搬出の様子をネットで中継するのも、
 根っこに同じ意味がある。
 それは、誰かに知ってもらうことが力になる、
 ということだ。
 『君が僕を知ってる』なんだ。
 インターネットができるずっと前から、
 清志郎さんはそういうことを歌ってたんだ」

 永田さんは、ミグノンの友森代表の助手として、
 そのとき、熊本から犬と猫を運んでいた。
 熊本から東京まで距離にして約1,200キロ、
 老犬1頭、成犬4頭、仔犬6匹のいるケージを積んで、
 休憩しながら15時間くらいの道のりだ。
 熊本の震災からのいきさつがあって、これが四度目かな。
 これまでの犬や猫は、東京に連れてこられてから
 ミグノンのボランティアさんのお世話になり、
 新しい家族との出合いを得て、幸せに暮らしている。

 「誰かに知ってもらっていること」の逆は、
 「誰にも知られずにいること」だ。
 知られていることで、面倒なこともあるかもしれないが、
 人が知っていてくれて、しかも理解してもらえたり、
 応援してもらえたら、思ってる以上の力が発揮できる。
 そしてもうひとつ、「知られていること」は、
 「守られること」でもあるとも思うのだ。
 東名高速を走っている永田さんや友森さん、
 そして今回の11匹の犬たちは、
 知られていることによって守られているとも言える。
 東京にやってきてからも、「ああ、あのときの犬ね」と
 言われるだけでも、また力をもらえる。

 『ドコノコ』というアプリを発表してから、
 いままで以上にたくさんの声をかけられるようになった。
 「ウチノコのアルバムみたいなつもりで始めたんだけど、 
 ドコノコも、みんなかわいくなっちゃって」と言われる。
 世界中の犬や猫が、たがいに知ってもらっている。
 それは、みんなで「守りあっている」のだとも言える。
 知る、親しくなる、守りあえる、生きやすくなる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
『ドコノコ』、犬猫のいない人にも知られたいアプリです。

Twitterログ3/28(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・受験だとか、就職だとか、人生のなかで、
 どっちに進むのか、どっちに選ばれるのかについて、
 真剣に考えることは、何度かありますよね。

 こんなふうに落ち着いて言っているぼくは、
 高校の合格発表の前の夜に、どういうわけか、
 近所の人と家族の間のひそひそ声が耳に入って、
 「落ちたのか!」と勝手に決めて、
 布団のなかでひとり泣きしていた経験があります。
 あとで思えば、なんで近所の人が、
 おれの受験の不合格を知らせにくるんだっつーの。
 どんだけか、ばかな15歳だったんですね。
 なんでしょうか、あの「生か死か」みたいな切迫感は。

 ある学校に受かったということと、落ちたということ。
 また別の学校に入れたということ、浪人すること‥‥。
 道は、いくつかに分かれています。
 いくつかに分かれていて、それについて、
 「じぶんはどうなりたい」という希望はあると思います。
 それは、会社に入ることについても同じですよね。
 そういう局面の当事者のときには
 見えなくなることがあります。
 ぼくも、ずっと人生のらせん階段をぐるぐる回ってきて、
 「ああ、そうか」と、いまごろ気づいたことです。
 それは、あっけないくらいの、ただのほんとのことです。
 「はずれくじは、ない」ということ。
 どれにしようか、どっちにしようかというような場合、
 たしかに希望したい「当たり」はあるんです。
 だけど、その「当たり」以外が、
 「はずれ」というわけでもないんだなぁ。
 これ、わりと、見えにくいし、忘れている事実です。
 
 大事な判断というと、すぐに「天国か地獄か」とか、
 「生か死か」「成功か失敗か」「プラスかマイナスか」
 なんて、一方が正解でそれでなければ最悪と
 考えやすいんだけど、それはちがうんですよ。
 「はずれ」だと思ってたものは、「ふつう」です。
 もっとくどくどと言えば、「当たり」だって怪しい。
 「当たり」を引いたおかげで、道を失うことだってある。
 わからなくても憶えておこう「はずれくじは、ない」と。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「はずれくじ」も、何枚か集めると当たりと交換になるよ。

Twitterログ3/27(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・三日間の『生活のたのしみ展』が終わりました。
 みんながたのしそうで、ほんとによかったです。

 「ほぼ日」の乗組員たちにとって、
 なかまを頼りにしたり、誇れたりする機会でした。
 そして、おつきあいくださった関係者の方々のことを、
 「かっこいいなぁ」とあらためて尊敬できた日々でした。
 さらにさらに、昔からずっと言ってますが、
 「ほぼ日は、お客さんがすばらしいんだよ」を、
 しみじみ自慢できる最高の「場」になりました。
 こんなに、いいことづくめのイベントが終わったら、
 みんな「生活のたのしみ展ロス」に陥るんじゃないかと、
 ちょっと怖いような気さえしています。
 最終日の昨夕くらいから、すでにみんなの間では、
 「終わっちゃうの、さみしいよね」と語られていました。
 さみしいから、もっとおもしろい「次」をやろうよ、と、
 ぼくはじぶんにも言い聞かせています。
 これは、第0回だと思うことにして、
 失敗を怖れるなの精神でやってきたので、
 次というのが、ほんとうの第1回かもしれません。
 欲ばるつもりじゃありませんが、もっとたのしいですよ。

 今回の、ぼく個人の感想、たくさんあるのですが、
 いちばんおもしろいと思ったのは、「家族」のことです。
 とにかく「家族」でおいでになる方々が多かったのです。
 よくある、趣味だとか美意識で集まるイベントなら、
 ひとりずつの個人でお見えになると思うのです。
 『生活のたのしみ展』だって、趣味性の高い場ですが、
 家族が連れ立ってやってきてくれた。
 これは、かなりうれしい発見になりました。
 ぼくの知っている人たちの「奥さん」や「娘さん」に、
 ぼくは、今回、この場で初めてお会いしました。
 家族で来たくなる「生活のたのしみ展」にしたい、
 とは考えていましたけれど、ここまでとは思わなかった。

 じぶんの「たのしみ」を、他の人たちと分けあいたい。
 それなら、家族とならば、うまくできそう。
 というような感じなのかなぁ。
 「親しいともだちとしての家族」という考えは、
 あんがいアリなのかもしれないとも思いました。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
イベントの制服のツナギが、妙にウケたのもよかったねー。

Twitterログ3/26(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・ぼくもその作品を持っているし、
 『アーツ&サイエンス』のソニア・パークさんも惚れた
 ぬいぐるみ作家の梅津恭子さんが、
 六本木の「生活のたのしみ展」に来てくれて、
 「凄いなー」と思ったというツイートをしてくれた。
 その後に「布博」にも行き、こんなツイートになった。
 <生活のたのしみ展も、布博も素晴しくて眩しくて、
 なんだかわからないけど、ちょっと落ち込んだ(笑)>
 それを読んで、もちろん「ほめられた」と思ったぼくは、
 梅津さんのツイートを引用して、こう書いた。
 <ぼくもそういう落ち込み経験をいっぱいしました。
 いまも、してます。
 それは、とても肯定的のことだと思ってます>

 梅津さんは、もうひとつツイートしてた。
 <落ち込むって悪い意味じゃないのです。
 そこの中の人として自分が居ない事を
 残念に思う落ち込み。つまり、
 それくらい素敵な空間だったという褒め言葉です(笑)
 その証拠にまだ余韻で何もできない~>
 ほんとにもう、よくわかります!

 なにか、じぶんにはできないというものに、
 大きな刺激を受けたときには、
 ぼくはよく、さみしい気持ちになったりします。
 それは、嫉妬にもよく似ていて、
 ひがみにも似ていましたが、そうじゃないのです。
 「くやしいけれど」という競争心もありながら、
 ものすごい敬意があるのです。
 じぶんが小さいもの、無力なものに思えてきて、
 そういうことを思わせてくれた対象が眩しいのです。
 「よーし!」という気持ちは、ここで熟成します。
 若いときのほうが、この気持ちになりやすいですが、
 年をとっても、これが無くなったらつまらないです。
 ぼくには、正直言って、まだまだ残っています。

 やがて、清水ミチコさんが、この一連のやりとりに
 <ええ話や>と、省エネなツイートをしてくれました。
 そして、矢野顕子が<私だけじゃなかったんだ>と、
 あの声が聞こえるようなツイートをかぶせてきました。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
生活のたのしみ展は雨と寒さ(予報)の本日が最終日です。

Twitterログ3/25(土)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・今年になってから、ぼくは、「ほぼ日」のことを
 大人の男の人たちに説明する機会がたくさんあって、
 どう言ったらいいのか、ずいぶん考えてきました。
 だまっていると、「手帳を中心に販売する小売業」
 というふうにまとめられます。
 これはこれで、まちがっているわけではないと思います。

 「ほぼ日手帳」は、ほんとうにすばらしいのだけれど、
 その手帳をつくり売るためにチームがあると考えるのは、
 「そういうことなんだっけなぁ?」となってしまいます。
 ただ、懸命に「あれもできますこれもできます」
 とか言っても、なんかこどもが夢を語ってるみたいです。

 大げさに語るのではなく、ただの事実なんだけど、
 「なるほどそういうことなんだな」と、
 理解してもらえるような切り口はないものか?
 で、さんざん考えて考えて、こう決めました。
 ぼく個人も、「ほぼ日」も、ずっとやってきたのは、
 「場」をつくることだったんです。
 遊び場ととらえてくれてもいいし、交流の場でもいい。
 とにかく、人やものごとの集まる「場」をつくって、
 その「場」が、すくすく育つようにはたらいていくこと。
 これがぼくらの仕事だし、そして得意なことである、と。
 「ほぼ日刊イトイ新聞」というものにしても、
 メディアとかプラットフォームというより、「場」です。

 そういうことを、たくさんの大人に説明してきましたが、
 なんとなく「ああ、そうなんですね」という感じで、
 わりと「よくある話」みたいに聞き流されていました。
 わかってもらえないものだなぁと思って、
 ちょっと残念でしたが、しょうがないかと思ってました。
 
 でもね、「生活のたのしみ展」がはじまって、これは、
 見たらわかる「場の生まれるとき」だと思いました。
 ドラッカーさんが、企業の目的について
 「市場を創造すること」だと言いましたが、
 「生活のたのしみ展」も、いま創造された市場です。
 市場(「いちば」のほうが似あうかな)とは、
 活気の交差する場、たのしみの混ざり合う場です。
 今日も、この「場」は、11時に、元気にスタートします。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「最高役に立たぬ選手」としてのぼくも、どこかにいます。

Twitterログ3/24(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・「人生は一度だけだ。やりたいことをやれ」と、
 よく人は言うものです。
 「人生は短いぞ。やりたいことをやっておけ」と、
 こういう言い方もよくあります。
 このへんの励ましだか説教だかというものって、
 だいたいは、ただ言ってるだけのことも多いと思います。
 でも、たまに、口で言ってるだけじゃなくて、
 心からほんとに、そういうふうに思ってる人もいます。
 
 命がひとつしかないということや、
 人生があんまり長いものじゃないということを、
 つくづく感じているときというのがあって、
 そういうときには、本気で、
 「やりたいことをやって生きよう」と、
 じぶんにも言い聞かせたくなるのです。
 おそらく、大事な人と別れることになるたびに、
 それを決意するようになるのだという気がします。
 
 多くの似たような他人と比べて、横ばかり見ている。
 じぶんはまちがってないのか、たしかめてばかりいる。
 人になにか言われそうなことは、しないようにしている。
 失敗の可能性のあることは、避けている。
 目立ってはいけないと感じて、静かにしている。
 空気を変えるのが怖くて、じっとがまんをしている。
 ‥‥そういうこと、だれでもがしていると思います。
 それは、とくに悪いことではないのでしょう。
 ただ、これから生きる時間に限りがあるとしたら、
 「やりたいことをやらない」でいるというのは、
 ものすごくもったいないことをしてると思いませんか。

 考え方としてはあることはあるのでしょうが、
 人間は何度もくりかえして生きたりはできません。
 そして、何世紀にもわたって生きることもありません。
 それほどたくさんの時間を配られちゃいないのです。
 わりと早めに死んじゃったりするのです。
 ぼくは、じぶんにそのことを言い聞かせます。
 そして、ぼくのともだちにも、そう伝えたいです。
 「やりたいことをやっておこうよ」と。
 やりたくてもやれなくなっちゃった人には、
 もうそれも言ってやれませんから。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
仕事のなかにやりたいことが見つかる人は、幸せ者ですね。