SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ3/10(金)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・今日が3月10日、ということは、明日が3月11日。
 昨年は10日に気仙沼に入って、そのあとは、
 閖上に臨時でつくったテレビのスタジオで過ごしました。
 今年は、気仙沼から福島の相馬に向かいます。
 しばらく顔を見てない人たちの顔を見ることと、
 秋に予定しているイベントの大事な打ち合せがあります。
 もうじき、詳しいことをお知らせしますが、
 あらためて、全国のみなさんと東北がつながる企画です。

・このひと月ほどは、実に目まぐるしかったです。
 あれこれとやることが多いのは覚悟していましたが、
 思わぬこともいくつか重なり、
 しかも悲しいこともあったりしたために、
 かなりハードな日々になりました。
 昨日、ひとつ仕事の予定をサボらせてもらって、
 家事やら昼寝やらに勤しんだおかげで、
 ちょっとなにかしらが、楽になりました。
 情熱も冷静も持ち合わせていたつもりでしたが、
 無意識の部分がかなりくたびれていた感じです。
 でもね、気仙沼で温泉につかってくるから大丈夫です。

・みんなに、まだ、本格的には相談してないけど、
 じぶんなりに熟成させてる企画があります。
 コンセプトとしては「Get Back」と呼んでいて、
 ビートルズの歌のタイトルのままなのですが、
 意味は、彼らの歌詞とはちがうところにあります。

 あえて言えば「うしろにあるぞ」というようなことかな。
 歴史というか、古典への敬意がテーマです。
 「古典の素養」、というものは、
 かつては大事にされてきたらしいのですが、
 このごろになると、そんなものは不要とばかりに、
 新しいもの新しいものに人びとの関心が向かっています。
 ぼくも、教養を押し売りされるのは嫌いですが、
 いまごろになって、自身の「古典の素養」の貧弱さに、
 これはなんだか根っこの弱い木みたいだなぁと、
 思い直しはじめているところです。
 会社の仕事が終わった後に「シェークスピア」やら、
 「ダーウィン」「万葉集」やら「源氏物語」を学ぶ場。
 そういう場を、つくってみようと思っています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくらの後、足跡のさらに後に、たからものが隠れている。

Twitterログ3/9(木)ほぼ日メモ

今日のダーリンより

・外国語の得意な人にはわからないと思うけれど、
 日本語しかわからない人間にとって、
 外国語の文化圏というのは、無音の空間なのである。
 
 近くに「日本語しゃべり」がいれば別だけれど、
 そうでないかぎりは、空港に着いたときから、
 ずっと耳には「音楽」だけが流れている。
 つまりその、どういう意味のことを言ってるのか、
 まったくわからない会話は、ぼくには「音楽」なのだ。
 英語の文化圏だろうが、中国語圏だろうが、
 欧州のさまざまな言語圏だろうが、ほとんど同じだ。
 ああ、これは怒ってるんだろうな、とか、
 たのしそうに笑いあってるなぁということはわかる
 (ときには、笑いながら脅かしてる人だとかも
 いないとも限らないから、気をつけたほうがいいね)。
 じぶんのいる環境から、意味のあることばのやりとりが、
 ほとんどなくなってしまっているのだ。
 これは、ふだん、いつでも過敏なほど
 意味を発見したり解釈したりしてて生きてる身としては、
 たいへんな変化にさらされているということなのだ。
 
 必死で語りかけてくる猫や犬のことばでも、
 わかってやりたいと思って聞くと、
 こっちの心が苦しくなったりもするものだ。
 人と人とが、せっかく交換しあっている言語なのに、
 すべてが「音楽」として聞こえてくるという環境は、
 お気楽なのではなく、なかなか苦しいものなのだ。

 外国へ、ことばがわからないままひとり旅する人がいる。
 こういうのって、すごいものだと思う。
 好意的に言えば、意味にとらわれない自由さが素敵だ。
 しかし、ぼくは、じぶんが意味から遠ざけられた孤独は、
 どうにも苦しくてだめみたいだ。
 
 「そのつもりになってみる」というシリーズで、
 しばらく、「日本語のわからない人」になって、
 暮らしてみるということをやってみようかな。
 そしたらもう、ここに連なっている文字だって、
 なにかの模様にしか見えなくなるということだぜ。
 「犬になったつもりで、1時間」とか、やってみよう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
(昨日、この一行を書くのを忘れていました。あしからず)

Twitterログ3/8(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・カップに入った、インスタントの味噌汁には熱湯を注ぐ。
 ふと思い立って、このお湯を、熱い牛乳にしてみた。
 意外にもまずくなることだってないことじゃない。
 ただ、ぼくには勝算があった。
 味噌バターラーメンの存在である。
 味噌ラーメンにバターを入れるとうまい。
 そこからのヒントで、味噌汁にバターを入れてもうまい。
 これは、すでに試し済みなのだから、
 牛乳で溶いたインスタント味噌汁は、
 十分にうまいだろうと想像できた。
 答えは簡単に出てしまった、やっぱりうまい。
 同じことをこれからも必ずやるかと問われたら、
 やるときもあるし、やらないときもあるだろうと答える。

 ぼくは、「ふつうはそうしない」と思われがちな
 料理素材の組み合わせを、けっこう好きだ。
 たとえばバターは、洋食のものだから
 日本の料理では使わないと思われがちだけれど、
 けっこう使い道はたくさんある。
 じゃがいもの煮っころがしの隠し味にもバターは使う。
 だいたい、油脂と炭水化物の組み合わせはうまいものだ。
 つまり、バタートーストはとてもうまいのだけれど、
 これはつまりバターライスもうまいということになる。
 そしてそれは、たまごかけごはんのように、
 バターとかしごはんもうまいに決まってると想像できる。
 意外に思えるのは、人の勝手なジャンル分けのせいだ。
 バターにはパンだと、思いこんでいる人には、
 「バターごはん」は邪道に見えるにちがいないが、
 それはバターのせいでも、ごはんのせいでもないはずだ。

 バターとごはんがうまいとわかったら、
 ごま油とごはんの組み合わせも肯定できるだろう。
 塩か、しょうゆで味をつけるのもいいし、
 焼きのりや、ごま、柚子こしょうなど加えてもいい。
 さらには、すき焼きなどのときに利用する
 牛肉の脂身を熱で溶かして、ごはんに混ぜるのもうまい。
 なんなら、すき焼きのたれで味付けしてもよいだろう。
 どれもこれも、あぶらと炭水化物のコンビネーションだ。
 あえて冒険をしているというわけではない。
 ヨーグルトに塩コショウなんかも、わるくないんだよ~。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。

Twitterログ3/7(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・人はみんな変人だと、だれかが言ったっけ。
 そういうものかもしれないなぁ、と思う。
 自慢じゃないけど、ぼくは変人じゃない。
 平凡を重ねて生きてきたつもりだ。
 そりゃぁ若気の至りで、ヘンを気取ったこともあるさ。
 人とちがってナンボという世界も知らないわけじゃない。
 だけど、だんだんと、ふつうの強さを知るようになる。
 いっそふつうを極めてみたいものだ、と思うことになる。 
 ただ、ふつうのつもりでいても、
 どうしても滲み出てしまうナニカというものがあるのよ。

 ずいぶん昔のことだけれど、
 上岡龍太郎さん司会の謎解き番組に参加したことがある。
 こういう企画の番組をやろうよと、
 仕事でもないのに言い出したのは、ぼくだったから、
 その行きがかり上という感じで出演することになった。
 
 スタジオのなかで、物語ははじまる、
 事件が起こるのを、テレビモニターでぼくらは見ている。
 その後、スタジオに残ったさまざまな証拠や状況を、
 ぼくたちゲストが調査していって犯人を推理するのだ。
 参加したぼくは、その役割をとてもたのしんだ。
 だれが犯人で、犯行はどういう方法で行われたか?
 ぼくも、解答者のひとりとして得意気に語った。
 そして、たしか3つの事件の推理に、すべて惨敗した。
 ぼくは、「いい考えだと思ったんだけどなぁ」と、
 悔しがりながらもたのしく番組を終え、ゴキゲンだった。
 
 それから何ヶ月の後、家人でもあるヒグチカナコさんが、
 上岡さんの関西のテレビ番組に出演したとき、
 休憩時間に、質問されたのだそうだ。
 「おたくの、あのご主人、あれは天然なんですか?
 わざとのような気もするのですが、わからんのです」
 家人は、「わざとはできませんから、天然です」と、
 「イトイシゲサト専門家」として断言したらしい。
 ぼく自身はただの「まちがい」だと思っていた解答が、
 上岡さんには「とてもアホ」に思えたのかもしれない。
 あんまりアホなので、確かめたくなったらしい。
 ふつうを極めようとしても、漏れでてしまうアホ成分。
 そっか、それはもう、個性として愛でていくことにした。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
スタジオで現場検証する推理番組、またやらないかなぁ。

Twitterログ3/6(月)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

「ななつ星」の周遊の旅から帰ってきました。
 ずっと列車のなかにいるだけだから、
 歩数計も進まないと思っていたら大まちがいでした。
 食事だけでなく、なにかとイベントのある1号車と、
 じぶんの部屋のある7号車を何度も往復するだけで、
 けっこうな距離を歩くことになるのです。
 そして、昨日は湯布院の散策があったものだから、
 トータルで、13,259歩になっていました。
 これは、東京で積極的に歩いた日よりも、ずっと多い。

 いま、東京の家に戻ってきて、
 あらためて『ななつ星』のクルーのことを考えてます。
 いまごろですが、つまりこのクルーの方たちって、
 「ほぼ日」で言う「乗組員」でしたよね。
 たった二日間、いっしょに過ごしただけですから、
 その人たちのことを、たくさん知っているわけじゃない。
 だけど、どんな顔をして働いているのか、
 いや、どんな気持ちで仕事をしているのかさえ、
 ぼくは見せてもらったような気がしています。
 「ホスピタリティ」とか「おもてなし」とか、
 正解っぽいことばで言うことも言えますが、
 そういうものともちがうように思えたのです。
 なんだか、いい意味で「アマチュアっぽい」のです。
 もともと、『ななつ星』のクルーは、
 各界からのプロ中のプロが集まったのだそうです。
 そして、そのプロたちが、ここでは、
 プロじゃないみたいになっていくらしいのです。
 ぼくらの旅の終わりのとき、クルーの代表からの挨拶、
 ほんとうに見事なまでに上手じゃなかったな。
 その場で語るべきじぶんのことばを、 
 探しながらしゃべっているから、そうなるのです。
 どちらかと言えば、ぼくもそうだから、よくわかります。
 そして、短い時間をいっしょに過ごしたクルーは、
 お客さまたちとの別れのときに、ちょっと、
 泣いてしまったりしているんですよね。
 これも、とてもよくわかる気がします。
 そして、ぼくは、それを見ていて思ったんです。
 「こんなふうに生きている人は、おまけのようにだけど、
 ぐるっとまわって、じぶんを幸せにしてしまうな」と。
 「情けは人の為ならず」、これ、ぼくは信じています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こころから人の幸せを願える人は、幸せになっちゃうぞ~。

Twitterログ3/5(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

「ななつ星」は、不思議な列車だ。
 博多の駅を出発して、一泊二日、あるいは三泊四日で
 博多の駅に帰ってくる。
 それほど広くはない九州を、ゆっくり走ったり、
 ときには長い時間停車したりしながら、
 「旅という時間」を過ごす。
 この列車に乗り合わせた人たちは、みな、
 同じ場所を出て、同じ場所に戻ってくる。
 あわて者ならば、それを、
 「なにもしなかったのと同じ」と言うかもしれない。
 帰ってくるために、ぐるっと廻っている。

 揺られながら、外の景色を見ながら、
 身に余るほど贅沢な料理をたのしみながら、
 音楽を聴いたり、集った人びととおしゃべりをしながら、
 そういえば、と、ふと思い出すのだった。
 いつだって、ぼくらは帰るための旅をしていたんだ、と。
 じぶんたちのホームから出発して、ホームに帰ってくる。
 出て帰る、その間にどんなことがあったのか、
 それを続けていたんじゃないか
 目的地も、目的も、それほど大事なものじゃない。
 出て帰る、その間にある時間がどんなだったのか、
 それが、ほんとうに大事なことなのかもしれない。

 さらに、揺られながら流れていく景色の中で、
 ぼくは考えることになる。
 「私たちは何処から来て何処へ行くのか?」と、
 昔から人は問いたがるけれど、ほんとうは、
 そんなことはどうでもいいのかもしれないな、と。
 ひとり生まれて、ひとり逝くのはみな同じ。
 短くも長いその間が、その人の一生というものだ。
 願わくは、その、「その間」というものが、
  生き生きとうれしいものでありますように。
 線路の上にいて、ぼくはちょっと願ったりもする。

 ずいぶんはっきりした夢を見ているようだ。
 ぼくは「ななつ星」に夢を見にきたのだろうか。
 だとしたら、なかなか悪くない夢だぞ。
 上手にベッドメイクしてもらったベッドに横になり、
 ぼくは機嫌よくうとうとしながら、夜を走っている。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ほんとに半分眠りながら、ぼくはこれを書いています。

Twitterログ3/4(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・かつて、ぼくは、ピラミッド型組織を横に倒して、
 船のように見立てるのがいいと考えた。
 てっぺんにえらい人がいるというより、
 責任を持って船の進路を決める人が、前にいる。
 食事係でじゃがいもの皮をむいている人も、
 動力をコントロールしている人も、
 次の港での交易を計画している人も、
 それぞれ、互いにいのちを預けあった乗組員だ。
 この考え方、なにかといろいろおもしろくしてくれる。

 博多にきて、もう一度「ララ・ランド」を観たくなって、
 映画館で考えていたのが、また横に倒すことだった。
 なにを横に倒してみるのか?
 「トーナメント表」である。
 頂点の1人を、横にしてみたら出発点に思えるだろう。
 つまり、ひとりの人間がいま生まれた状態。
 この段階では、まずすべての人が参加している。

 少し生きると、選択肢2つのどちらかになる。
 もう少し生きていくと、選択肢4つの1つになる。
 少し生きることが進行するごとに、8、16、32、と、
 どんどん生きてきた道筋と、いる場所は変化する。
 まったく別の道を歩いてきた人と出合ったり、
 近い人と、ちょっとしたことで離れることになったり、
 横に倒したトーナメント表は、
 無数の運命を、無数の未来を、無数の交流を生み出し、
 複雑のうねうねと生きもののように成長する。

 目の前には、意味のわかりにくい選択肢が、
 次々に現れて、人は次々ににどちらかを選び続ける。
 「そっちを選ぶと、いままで避けてきた方向に
 導かれてしまうぞ」なんてこともあるだろうし、
 沈む方へ沈む方へと向かっていた人が、
 なにかの選択の場面で浮かぶようになることもある。

 たったひとりの勝者を決めるはずのトーナメント表が、
 ずいぶんと豊かな「人生表」に見えてくるものだ。
 これはおもしろいや!
 映画の主人公たちの、その都度の選択のドラマが、
 ぼくに、ちょっと別の考え方を与えてくれた。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
さて、「ななつ星」の乗客になって、明日に向かいます。