SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ2/21(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

(どひゃーっでした。
 書いた原稿をさぁ送ろうと思ったら、
 どっかに消えていました。
 ちょっと重めのことを思って、書いて、
 ちょっと重たい気分で、迷いもあったから、
 無くなったと気づいたときに、
 ちょっと、よかったかもしれないと思いました。
 しかたがないので、前に書きかけてやめて、
 そのままそこらへんに浮いてた原稿を、
 少し調整して送ることにします。
 こういうこともあるのが、毎日の仕事ってやつです。)


・なにか重いものをうんせうんせと運んでいるときさぁ、
 「だいじょうぶ? 重い? 心配よ」
 なんて言ってくれる人がいても、なんにもならないよね。
 それよりは、「手を貸すよ」ってさ、
 持ってくれる人がありがたいよね。
 
 いや、いつごろからかさ、
 「だいじょうぶ? 心配です」ということばが、
 ものすごく増えているような気がしてさ。
 たぶん、インターネット以後だと思うんだ。
 いや、SNS以後になってさらにという感じかな。
 
 「だいじょうぶ? 心配です」という場合に、
 アンパンマンだったら、あたまを食べさせちゃうよね。
 でも、ことばだけで「心配です」ばかりが飛び交ってて、
 それを口に出さないと、へたをすると
 「心配じゃないんですか!」なんて人を責めたりする。
 そんな傾向があるよね、いまって。
 
 よく「案ずるより産むが易し」って言うけどさ。
 それは、「産もうとしている人」を
 励ます意味で言われることなんだろうと思うんだよ。
 実際のところ、「案ずる」と「産む」とでは、
 比べようがないくらい「産む」のが大変だよ。
 「案ずる」だけじゃ、なんの意味もないよね。
 だけど、あちこち「案ずる」だらけって感じだよね。
 「言う」より「やる」の集積が、その人なのにねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
このところ、ぼくはとても「充実人間しげちゃん」です。

Twitterログ2/20(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・なにかについて詳しい人ってのがいるよね。
 話してると、なんでも知ってそうに思えたりする。

 たとえば、電気掃除機について質問したら、
 たぶんすべてを知っているかのように答えるだろうな。
 そして、「ぼくが買うなら、どれがいいでしょう」とか、
 質問したとしたら、きっと丁寧に教えてくれると思うよ。
 それは、家電売り場の店員さんなんかでもそうだよね。
 掃除機の売り場にいる店員さんは掃除機について詳しい。
 詳しいに決まってると、本人も、他人も思ってるさ。
 
 でもさ、ほんとにたくさんのメーカーから、
 すごい数の電気掃除機が発売されているわけで、
 それを、ほんとにすべてについて詳しく語れると思う?
 しかも、半年くらい家で使ってからわかることもあるし、
 仮に10種の掃除機を、それぞれ一週間ずつでも、
 試しに使うなんてことやってる人、いると思う?
 「モーター部分は、日立は強いですからね」とか、
 「二番煎じのほうが後出しで有利になるんですよ」とか、
 「二番煎じは、所詮二番煎じで、まがい物です」とか、
 専門家っぽいことは言えると思うんだよね。
 だけど、そんなに決めつけができるほどの批評性は、
 持てるはずがないと思うんだよなぁ。
 
 映画とか、小説とかで、あるジャンルに詳しい
 というようなことならあり得ると思うんだけどさ、
 そのジャンルすべてを知ってるかのような売り文句は、
 怪しいと思うんだよねー。
 ぼく自身のことで言っても、昔は、
 広告の世界にいたから、「いまの広告とは?」なんてね、
 よく質問されたりしたものだけれど、
 なんとなく、じぶんの知ってることがすべてだ
 みたいな図々しい思いこみでしゃべってましたよ。
 
 ある時期から、ぼくはなんにも詳しくないと決めて、
 目の前に流れてきた桃だけ拾うおばあさんになったのよ。
 だから、ぼくの驚いてることや感心してることは、
 「いまさら、それですか?」みたいなものばかりなのよ。
 いまのいまは、望月ミネタロウ『ちいさこべえ』に夢中。
 ぼくの知ってるマンガは、その世界のほんの一部分です。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「いまさら」のすごみや深みに、やっと気づいたんだよね。

Twitterログ2/19(日)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

・昨日は、「ほぼ日の塾」第3期のはじまりでした。
 朝の9時半に受付をして、そこから全体のミーティング、
 お昼ごはん、分科会をぐるぐる回って、
 また全員で集まって話を聞いてもらって、
 晩ごはんを食べて、一部の帰らなきゃの人は下校。
 ここから、ぼくへの質問と答えの猛練習みたいな時間、
 終了は11時前になったようです。
 ぼく自身は、夕方6時からの参加でしたが、
 それでも約5時間、今回もなかなかハードな夜でした。

 生徒さんというか、受講生の方々は、
 むろん現役の学生さんとかもいるけれど、
 実社会でとっくにがんがん仕事している人が多くて、
 ひょっとするとベテランの域の人まで混じっているので、
 講師役のぼくらよりも、先輩だったりする可能性もある。
 「ほぼ日」のメンバーのほうが、
 逆に教えていただきたいことがあるような顔ぶれでした。
 でも、みんな、なにかを「ほぼ日の塾」で吸収しようと、
 身を低くしてしっかりと目を見開いているのがわかる。
 いいなぁ、真剣というのは、それだけでいい場をつくる。
 学ぼうという姿勢は、ものごとを受けとめやすくする。
 それに対応する「ほぼ日」乗組員の講師陣も、
 (あんまり緊張しているようには見えなかったけど)
 いつも以上に真剣で一所懸命なようすでした。
 
 手前みそな言い方にはなるけれど、
 こういう相手が真剣なときの「ほぼ日」の乗組員は、
 ほんとうに真剣に誠実にまっすぐ向き合ってくれる。
 どうしても仲間ぼめになるけれど、
 設営、案内、誘導やら食事づくりなども含めて、
 「ほぼ日」の人たちの姿勢は、誇れるものだと思います。
 13時間は、生徒さんたちにも大変だったでしょうが、
 裏方や講師役の人たちにとっても、大ハードですものね。
 
 そして、第3回の「ほぼ日の塾」も、初回、2回と同じく、
 やってよかったぁのすばらしい時間になりましたね。
 いちおう年長さんのぼくも、うれしくてたまらないよ。
 世の中をほんとうに動かすのは、真剣さだと思う。
 相手への敬意さえ失わなければ、上も下もない。
 真剣な相手には、人は真剣に対応するものだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
千歳まで長生きするつもりだったけど、百でもいいかもな。

Twitterログ2/18(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・考えがまとまらないときには、
 なんでも思ったことの切れ端を書いておく。
 そういうことを、いつだったかに発明した。
 
・たとえばね、
 カモノハシは哺乳類だけれど、卵をうむ。
 そして、くちばしがある。
 そして、水かきがある。
 だけど、汗のような母乳がおなかから滲み出てきて、
 こどもはそれをなめて育つ。
 なんじゃそれ!
 と思うのは、ぼくらの勝手なのだけれど、
 カモノハシにとっては、別に、なんにもおかしくない。
 ‥‥なんてことを書いても、数行が埋められる。

・昨日「こっちから先に好きになる」は、いいねと書いた。
 「相手が好きになってくれたならば、
 こっちも好きになってやらないわけでもない」
 というような態度でいる人は、とても多いと思う。
 でも、それは相手も、そう思ってる可能性が高いから、
 なかなかうまくいくものじゃない。
 「こっちから先に好きになる」ことなんだ、とにかく。
 ぼくは、これをいまごろわかって、残念でしかたない。
 もっと若いときから、知って、そうしていればよかった。

・真剣に相手をしてくれる人と、真剣に話すのはたのしい。
 たいていの悪口とか、半端な批判とかがいやなのは、
 そういうことを言うものが、真剣じゃないからだと思う。
 じぶんと意見がちがっても、
 それが真剣だったら耳に入るものだ。

・土曜日は、家でパソコンを開かない人が多いから、
 「ほぼ日」も、あんまり新しいコンテンツを
 入れないようにしよう、と言ってた時代があった。
 このごろは、スマートフォンで見る人も多いし、
 もう土曜日をもっと盛りあげてもいいかもしれない。
 
・間食用に用意してもらった「いなりずし」を、
 五時半くらいに食べた。
 大当たりだ!と叫びたいくらいうまかったぜ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
真剣にぼくにつきあってくれてる人びとに、感謝してます。

Twitterログ2/17(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・人のことばで、とても助けられるということがある。
 いかにも見事な名言もいいのだけれど、
 もっと、すっとこころに届くようなことばがありがたい。
 ぼくは、いま矢沢永吉のことばに助けられている最中だ。

 なかなかのハードワークを目の前にして、
 周囲の人だとか、経験者だとかが、
 それがどれほどつらいことなのかを教えてくれて、
 「がんばってください」とリハビリ担当者のように言う。
 そうか、そんなに恐ろしいことなのかと、ぼくも思う。
 どうしてもむつかしいようなら、
 多少の予定を変更してもいいのではないか、
 というような提案さえもあった。
 こどものころの、「きもだめし」のようではある。
 だんだんそうやって言われているうちに、
 これまでもよく、じぶんに言い聞かせてきた
 おまじないのようなことばを思い出したわけだ。
 「たのしめ!」である。
 これは、矢沢永吉がじぶん自身に言うことばだそうだ。
 うねって波打つような大観衆を前にして、
 たったひとりでステージに出て行くときには、
 矢沢でも特別な緊張感に襲われるのだという。
 そのとき、「いいぞ、矢沢、たのしめ!」と、
 もうひとりのじぶんから声をかけるのだという。
 
 そんなおまじないのようなことばが効くのかと言えば、
 まちがいない、「たしかに効く」のである。
 緊張や恐怖から逃げようとすると、ますます怖くなる。
 それよりは、緊張も恐怖も「よく来たな」と迎え入れる。
 それが「たのしめ!」なのだと思う。
 たった4文字で、これほどありがたい呪文はないよ。
 
 いまの時期、受験生なんかもそうだろうけれど、
 逃げ出したくなるような状況を前にしている人は、
 たくさんいると思う。
 そういう人たち、「たのしめ!」だよ。
 それで結果もうまく行くのかと問われれば、
 「それはわからない」としか答えられないのだけれど、
 つらくて逃げ出そうとしているじぶんよりも、
 「たのしむ」じぶんに会えるほうが、いいと思わない?

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あと、「こっちから先に好きになる」ってのも、いいねー。

Twitterログ2/16(木)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・ぼくはじぶんのことを
 特に「はたらきもの」だとは考えていない。
 人の目を盗んではさぼり、
 じぶんにいいわけをしては遊び、
 すきあらば眠り、機嫌がよければなにもしない。
 そういうふうに生きてきたと思っている。

 「ほぼ日」の創刊からしばらくの間は、
 ぼくも「はたらきもの」だったと思う。
 じぶんのなかで、はたらくのが流行っていた。
 あのときに、とてもたくさんはたらいたせいで、
 その後に、とぼけたことをやっていられる土台ができた。

 しかしまぁ、長く生きているというのはたいしたことで、
 あれやこれやと、じぶんのやった仕事を、
 ひとつずつ足し算していくと、それなりの分量になる。
 この『今日のダーリン』の連載にしたって、
 もし、毎日書いた18年分をまとめて本にする、
 というようなことを企んだとしたら、
 内容はともかく、形式だけは大全集のようになるだろう。
 これじゃ「はたらきもの」にも見えてしまう。
 だけど、ぼくはほんとうに「はたらきもの」じゃない。

 と、これまでの約20行とまったく関係ないのだけれど、
 いままた、ぼくは「はたらきものの旅」に出ている。
 スケジュール表を見ていると、頭がくらくらしてくる。
 ほんとうに帰港できる航海なのだろうか、とか、
 冗談のように言っても、だれも笑いやしない。
 しばらくは、ぼくに会えないと思っててください、
 というのも冗談ではあるのだけれど、
 さまざまな不義理もたくさんしなきゃならないと思う。
 なにせ「はたらきものの旅」の空の下にいるのだから。 
 つらそうに書いているようだけれど、
 実はおもしろがってもいるので、ややこしい。

 たぶん、この一週間の航海が終わったら、
 人として一皮むけてるかもしれないよ。
 そういう緊張感のある日々が、
 こんな年齢になってもあるということに感謝さえしてる。
 さ、これ書いたら風呂に入ってすぐ寝るぞー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくの元気を確かめるためにだけでも、毎日来てくらさい。

Twitterログ2/15(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

【・じぶん自身が、「人生の先輩」の役をしなきゃならない場面もたまにはあるもので、それらしい顔で、それらしいことを言ったりする。ただ、もともとが頼りない人間だから、あんまり肚の据わったことも言えない先輩なのである。

ぼくが「人生の後輩」として、先輩に言われて、すごいもんだなぁと感心したことも、何度かある。故藤田元司監督が、満面の笑みで「いのちまでとられるわけじゃなし!」と言って、ぼくのおしりを叩いたのは、そのうちの一度だった。忘れもしない1989年の秋のことだった。日本シリーズの真っ最中、相手は近鉄、巨人が3連敗して迎える4戦目の試合前。藤田監督の姿を見つけて、がんばってくださいというのも申しわけない感じで、静かに会釈したぼくのところに、その笑顔が歩いて来た。「いのちまでとられるわけじゃなし!」の前に、なにか言ったのか言わなかったのか、憶えていない。時代劇以外で、聞いたことのないことばだったけれど、いちばんの当事者である監督から、逆に励まされてしまって、ぼくも笑うしかなかった。

あんな先輩のようになりたいものだ、と思うけれど、なかなかそうもいかない。いまになって思うのだけれど、あのときの藤田さんのすごみは、ことばではなくて、満面の笑顔のほうに表れていたのだ。ことばは、「よし、ここから4つ勝ってくるよ」でも、「さぁ、本気にさせられちゃったね」でもなんでもいい。先に笑って、その気持ちを伝えるようにしりを叩く。その、顔や身体の表現のほうがかっこよかったのだ。

1989年のことだったから、藤田さん58歳のときだ。監督を引退したのが61歳、いまのぼくよりずいぶん若い。しかし、先輩とはああいうものだと、ぼくは思っている。同じことはできないのだけれど、苦しいときに笑えるものでありたいし、うまくいっているときに、黙せるものでありたい。亡くなっていても、先輩は教えてくれるものだなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。ほんとうは、まだ後輩役を続けているのが、好きなんだよ。】