SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ2/14(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・うちの犬は、もうおばあちゃんになっているけれど、
 ずっと、犬のともだちがいない。
 小さいころから、他の犬に対してのふるまいがよくない。
 けんか腰というか排他的というか、なかよくできない。
 相手が小さくても大きくても、いんねんをつけていた。
 やがて、年をとっていくと、
 けんかはしないけれど、犬を無視をするようになった。
 遠くに別の犬を見つけると、そっちを見ないようにして、
 足早になって、さっさと通り過ぎようとする。
 ドッグランという場所には、二度ほど行った。
 とてもうれしそうには見えなかったのと、
 なにか争いでも起ってはいけないと、
 人間のぼくらのほうが遠慮して、行かなくなった。
 
 そんなこんなで、うちの犬は、
 犬のともだちのいないまま、老犬になってしまった。
 保護者としては、ちょっとさみしい思いもあるけれど、
 それはそれでそういう人生だったんだと、納得している。
 うちの犬は、人間とはなかよしなので、
 犬のともだちがいないことを残念がってもいない。
 ぼくがもっと教育パパみたいな気持ちでいたら、
 犬となかよくできない犬のことを、
 あんまり「いいこ」じゃないという理由で
 矯正しようとしたかもしれない。
 しかし、そうする必要も感じなかったので、そのままだ。

 人間となかがいいとは言っても、
 このごろはもう、あんまり甘えたりもしてくれない。
 独立独歩と言えば聞こえはいいけれど、
 特に人間に媚びなくても、やっていけると覚った感じ。
 愛想がなくなったということでもある。
 そして、かつては興味のうすかった
 「食べもの」への執着は10倍にもなってきている。
 
 そんなふうな、ぜんぶ、まるごとが、うちの犬で、
 もっといいこになる必要もないし、
 この先も、ずっとこのままでいいと思う。
 あとどれくらいの時間、いっしょに過ごせるのか。
 ずっとそんなことも考えてきたけれど、
 今日も、それなりに元気で寝たり食ったりしています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なにかできるから愛されるわけじゃない、っていいことだ。

Twitterログ2/13(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

【・ものすごく茫洋とした言い方をすれば、会社は、「あったほうがいい会社」になりたいものだ。「あってもいい会社」と言われるだけでも、なかなか簡単なことじゃないのだけれど、それなりの人数の人に、「あったほうがいい会社」と思われるというのは、なかなかたいへんなことだと思う。「ぜひ、あってほしい会社」とまで言われようとすると、ちょっと余計な勇み足をしそうな気もするので、そこまでは望まないほうが身の丈に合ってる感じだ。

「ほぼ日」ってのは「あったほうがいい会社」かなぁと、何度も問いかけてきたつもりだ。胸を張って「あったほうがいいだろう、わははは」とは、どうも言いにくいものではある。「なかったら、さみしいよ〜」とかね、言われたら、ほろりとしてしまうな。この、乗組員や関係者だけでなく、比喩的に100万人の支えてくれる人たちをも含めた「ほぼ日」っていうものがなかったら、ぼく自身が、いちばんさみしがるのではないかな。

・もともと、こんな話を書いているのは、会社のことを言おうとしたからではなかった。

「いてもいい人」、さらには「いたほうがいい人」であるかどうかについて、人間はとても真剣に悩むと思ったからだった。他人が「いてもいい人」と認めてくれるのか、「いたほうがいい人」として歓迎してくれるのか。そして、じぶん自身が、じぶんのことを「いてもいい人」「いたほうがいい人」と思えるのか。そのことが、とてつもなく大きい問題なのだ。そこから、そうだ、会社についても、そんなふうに考えてきたんだっけなぁと思い出したのだ。

ほんとは、すべての人間が、あらゆるものが、「いてもいいんだよ」とか「あってもいいんだよ」と、無条件で肯定されている世界が理想なんだけどねー。なんだか、いまって、あらゆるものを「裁きすぎる」よ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「いてもいい」「あってもいい」「あったほうがいい」。】

Twitterログ2/12(日)ほぼ日メモ

 

今日ダーリンより

【・上野の国立科学博物館でやってる『世界遺産 ラスコー展』に行ってきた。絵の書かれた洞窟をそのまま運んでくるわけはないから、洞窟の壁面の精密な模型をつくって、それを展示するというしくみだ。展覧会は、その大きな洞窟の模型と、絵の具やら彫刻やら石器やらという実物の資料、そして、それらの制作者であるクロマニヨン人たちのリアルな人体模型が展示してある。むろん、解説のための文章や写真、図、動画なども、あちこちにたくさん用意されている。洞窟絵画は、化石や隕石などと同じように、もともとのぼくの大好物だったから、なんだか、そういうものを見ているだけで気分がいい。今回、想像とちがったのは、土っぽい地味な展覧会のわりに満員だったことと、こういうものに興味がないと思っていた家人が、「見たい」と言い出して同行したことだった。あんがい、大昔に起った物語を見せる「ラスコー展」はおおぜいの人に受け容れられる企画だったんだ、と、それまでのじぶんの勝手な常識を更新することになった。これも、人びとが「ひまつぶし」以上の「いい時間」を求めているということになるのだろうと思う。

展示の石器などは実物(東京の場合)なのだけれど、目玉になる展示である大きな洞窟絵画や、クロマニヨン人の原寸フィギュアはレプリカである。ぼくらは、リアルな複製物を見るために行列している。これでいいのだ、と思うし、それはそれで満足なのだが、ずっとその「たのしみの構造」について考えていた。‥‥そうか、これは「ディズニーランド」なのだ。「ジャングルクルーズ」や「カリブの海賊」のような、景色や道具、動物たちのレプリカを見て回るしくみ。「ラスコー展」と「ジャングルクルーズ」のいちばんの違いは、監修者の設定する「基準」である。学問として正確である必要のある「ラスコー展」と、情報資料を娯楽のために使う「ジャングルクルーズ」は、情報の編集のし方がちがうだけで、そっくりなのだ。人びとが集って、情報の実体化したものを眺める愉しみ。パソコンの画面や、本じゃ、だめなんだよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「ラスコー展」は、この後は、宮城、福岡に行くらしいよ。】

Twitterログ2/11(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・仕事がらなのか、好奇心もあって、
 ほんとうにいろんな人に会ってきた。
 農業に関わる人だとか、工業的な技術を持ってる人、
 すばらしい料理をつくる人などなど、
 いわゆる象牙の塔の外にいる達人たちは、たくさんいる。
 その人が、まさしく心血を注いでつくってきたもの、
 じっくり考えてきたことは、ほんとうにすばらしい。
 
 ただ、けっこうな割合で、すばらしい街の専門家たちは、
 妙な方向に関心を向けはじめてしまうのだ。
 まじめな顔で、「宇宙の真理」を発見したとか言い出す。
 世界をつらぬく法則が見えたというようなことで、
 それについて熱心に説明をしてくれる。
 ぼくにも、ぜひ理解してほしいと、語ってくれるのだ。
 正直に言うが、もう、そういう次元に入っちゃったら、
 その人の話は、まったくおもしろくなくなる。
 ぼくは、「またか、残念だなぁ」という思いで、
 なるべくそういう話題に触れないようにして、
 やがては、専門分野にも行き詰まっていくその人と、
 だんだんと疎遠になっていく。
 
 「宇宙の真理」だの「世界の真実」だの、
 わかりたい気持ちは、わからないわけじゃない。
 だけど、そっちに行っちゃうのはだめなんだよね。
 物語のなかのゴータマシッタルダじゃないんだから。
 じぶんのずっと見つめてきた関心事の向こうに、
 なにかが見えるのはいいかもしれないけれど、
 宇宙やら世界やらを、俯瞰したくなっちゃいけねぇや。
 
 ただ、これの縮小版みたいな「全能のオレ」的気持ちは、
 タクシーの運転士さんから、街の酔っぱらいから、
 夕食のテレビの前のおとうさんから‥‥みんなにある。
 「それ、前から知ってたの?」と聞き返したくなるけど、
 人が、唐突に、なんだかすごいコメンテーターに
 変身してしまう現象は、わりにありふれた風景だ。
 もっとも、ま、本職の「コメンテーター」にしたって、
 あんまり知りもしないことについて、
 もっともらしく真剣そうに言ってるだけかもしれないし。
 「知ってることを言おう」とするには、実は理性がいる。
 人間は、本能的に「つい知ったかぶりする」動物なのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
確かなことだけ言おうとする人は、口数が少なくなりがち。

Twitterログ2/10(金)

(あれ見逃した〜という少しの残念感とともに、毎日更新して1日限りのコンテンツがあるとやっぱり見られるんだなと。というより、あのような人が、そういう文章を毎日ひねり出してるのがすごいんだけど。)

 

 

Twitterログ2/9(木)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・ずいぶん昔になるけれど、「亭主元気で留守がいい」と、
 おばちゃんたちが集って唱和しているCMがあった。
 当の亭主たちも、「えらい言われようやな」と、
 苦笑するくらいの反応で、おおむね受け容れられていた。
 
 あらためて、そのことばをいま考えると、
 亭主が、元気でしかも留守である、なんてことは、
 もう最高の家庭なのではあるまいかと思えてくる。
 「留守」であることのそれぞれの理由については、
 これはもういろいろありそうなのではあるが、
 少なくとも家の外のどこかに、亭主であるところの
 彼を必要としている場がある、ということが言えそうだ。
 家だけで必要とされている男というのも、
 なかなか哀しいものだと思いますからねぇ。
 そして、なにより「元気」なのだということがすごい。
 そうなんだよ、「元気」だというだけで、
 とってもありがたいことなんだ。
 それは、他の人たちが「目を離していられる」ことだ。
 親しさだとか、愛情だとか呼ばれているような感情が、
 ないわけじゃないのだけれど、忘れていられる。
 「ずっと見ていなければならない」という関係は、
 見ている側の人の行動をずいぶんと制限することになる。
 「目を離していられる」くらいの「元気」は、
 もうとんでもなくありがたいことなのだ。
 おまけとして言えば「留守」も、同じ意味を持ってるね。

 ただ単に「元気」であるとか、
 もっと即物的に「丈夫」であるとかいうことは、
 人をほめるときの最後の一要素みたいに思われているが、
 それが、どれほどたいしたことなのか、
 いまくらいの年齢になってしみじみわかるようになった。
 
 先日の「ほぼ日手帳ミーティング」で、
 「ほぼ日手帳って、どうして続けて使えるんだろう?」
 と、いつもの質問をしたら、こんな答えが返ってきた。
 「やっぱり、丈夫だからじゃないでしょうか」
 ‥‥名答だ、使い続けられることの前提はそれだよな。
 すごい分量の紙を挟んで、すっかりぶ厚くなろうが、
 1年間、丈夫で壊れないでいるからこそ使ってもらえる。
 こんな基本のなかの基本を、つくづく再認識したなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼく自身の基礎も、あんがい丈夫で、わりと元気、だもの。

Twitterログ2/8(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・目標の奥に、球は向かっている。

 プロ野球のキャンプ帰りだからなのか、
 どうしても、そういうことを考えがちです。
 2月9日が藤田元監督の命日だということも、
 関係あるかもしれません。
 投手でもないぼくに、藤田さんは、教えてくれました。
 投手の投げる球は、捕手のミットをめがけて投げます。
 しかし、それでは力のある球にならないというのです。
 捕手の構えるミットの、その奥に向けて投げるのだと。
 ミットに捕られてボールは止まるのだけれど、
 実は、それは通過点だったのである、と。

 P------------------------>C--->

 これが、物理の法則に照らし合わせて正しいのかどうか、
 ぼくにはわかりません。
 でも、これを教えてもらってから、
 いろんな場面で、この考え方をするようになりました。
 スポーツを見るときには、もちろんですが、
 もっと他の場面でも応用が利くんです。
 例えばの話ですけれど、ある映画を制作したとする。
 それを上映してくれるのは劇場ですよね。
 だから、劇場が、いわば捕手のミットであるわけです。
 それに向けて球を投げているのではいけない、と考える。 
 劇場に集まってくれる観客がよろこんでくれて、
 はじめて力のあるボールが投げられたということです。
 もっと欲を言えば、観客のよろこびが深かったら、
 ほんとうにいい球が決まったというわけですよね。
 
 じぶんに対して厳しく、この考えを続けていくならば、
 この文章を読んでいる人が「読んでくれただけ」だと、
 ただのストライクということですよね。
 読んでもらえて、深いうなずきを得られることが、理想。
 もっといい球だったら、話を他の人にもしてくれますね。
 そういう球を投げられたら、
 しかも、思うようにいつでも投げられるようになったら、
 ほんとうに一流の投手というわけです。
 目標に届いた、というくらいで満足してしまうのが、
 まぁ、ありふれた投手のやり方なんでしょうね。 

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
目標に奥行きを想像する。目標は通過点と考える。投げる。