SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ1/4(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・なにかするときに、目標があるとおもしろくなる。
 ぼくは野球ファンなので、
 いつも優勝っていいなと思っている。
 優勝というは、とにかく、すてきな目標になる。
 ひとつの試合では、勝つことが目的になっている。
 勝たなくてもいいというルールになったとしたら、
 試合のおもしろさのほとんどがなくなってしまう。
 ゲームというのは、そういうふうにできている。
 ババ抜きという簡単なカードゲームがあるだろう?
 あれ、勝たなくてもいい人がひとりでも混じっていたら、
 ゲームにならないということはわかるよね。
 勝つというのは、勝つことそのものが大事という以上に、
 「勝つという目的を持つことでゲームをおもしろくする」
 という意味があると思うんだ。
 で、野球における優勝なんだけど、
 そういうことって、ふつうの会社とかにもないものか。
 ずっと、それを考えてきたんだよね。
 優勝という目標があるおかげで、
 今日や明日の力や知恵を出したくなる。
 優勝という目標があるから、しぶとくねばれる。
 そして、そういうことのくり返しのおかげで、
 毎日やっていることに、おもしろさが乗っかるんだ。
 
 でも、会社にとっての優勝というのが、なんなのか、
 なかなかわからないものだから、
 競合する会社よりシェアで勝ったとか、
 売り上げがどういうレベルにたどり着いたとか、
 そのへんのところに決められてしまったりする。
 それはそれで、目標にはなっているかもしれないけれど、
 「あいつらに勝とう」とか「こんなに売り上げよう」
 というのは、優勝に比べたらおもしろくないんだなぁ
 (どれほど大変なことか、わかってはおりますけど)。
 優勝には「じぶんたちのため」を超えたなにかがある。
 金や陣地を見つめるというより、
 天の星を見上げるようなかっこよさがある。
 売り上げや利益の達成で、胴上げしたり泣いたりできる?
 いや、してもいいけど、共感されにくいと思うんだよ。
 じゃ、会社にとって優勝に匹敵するような目標ってなに?
 それこそが、会社が真剣に考えることなんだろうな。
 むつかしいけれど、優勝みたいなこと考え続けなきゃね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
オリンピックの選手たちの満面の笑顔を、我らにも(?)

Twitterログ1/3(火)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・ある日、いつものように、中古レコード屋で、
 誰からも見向かれなくなったような
 特殊な音源をさんざん見続けているうちに、
 「こんなしょうもないもの‥‥だれが買うんだ?」と、
 特殊マンガ家の根本敬さんは思ったそうだ。
 そして、間髪入れずにその答えがわかった、と。
 あ、「‥‥おれか!」。
 そんなことを『タモリ倶楽部』で語っていたのを、
 ぼくは偶然見ていて、すごい発見だなぁと思った。
 
 「‥‥おれか!」という発見。
 いろんな場面で、こういうことはいくらでもある。
 ごく単純なことで言えば、年末年始の混雑についてでも、
 「なんで、好き好んでこんな渋滞の日に移動するんだ?」
 と、いろんな人が思ったり言ったりしている。
 それも「‥‥おれか!」だろうよ。
 「おれ」がわざわざ来たから渋滞しているんだよね。
 週刊誌やらテレビの番組がゲスでくだらない、と。
 だれが見てるんだよ、そんなものと‥‥言うよね。
 でも、電車の中吊りのゲスな文字列を熟読しているのは、
 「‥‥おれか!」じゃない?
 
 そういうのとは、またちょっと別の「‥‥おれか!」を、
 今年になって、また散歩中に思いついた。
 20世紀を代表する人物とか、21世紀の最重要人物とか、
 いま決めることになったら、だれになるんだろうか?
 ぼく自身は、ある時期まで「エジソン」と決めていたが、
 どうもそれでよかったのかなぁという気にもなっている。
 じゃぁ、だれなのよ、と考えてみてもわからない。
 こういうのって、ダークホースはないからね。
 意表をつく人物が登場して、その人で決まるなんてない。
 だから、ぼくの教養が足りないということでもない。
 どの人も、帯に短したすきに長しという感じになる。
 政治家、実業家、芸術家、研究者‥‥う~ん‥‥。
 ここで、出た!冗談のように思考が逆転した。
 「‥‥おれか!」である。
 だって、おれにとっての20世紀21世紀、
 おれの生きてきた人生、おれの生きてきた世界で、
 いちばん重要で、この人がいなかったらという人は、
 「‥‥おれか!」だと思ったんだよ、ほんとにね。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あなたの重要な人生の一部を使ってくれて、感謝します。

Twitterログ1/1(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・もちろん、新しい年になったことを
 人並みに祝いたい気分はあるのですが、
 さっきが大晦日で、いまが元旦なんてことを、
 毎年繰りかえしていることに、ちょっと飽きまして、
 おそらく「ほぼ日」をはじめてから初めてでしょう、
 二日で前後編、あえて昨日からの「つづき」として、
 今日の原稿を書くことにしました。
 
 親になった人が、じぶんのこどもになにを望むか?
 そんなにあれこれ望むこともないなぁと、
 ぼくの場合は、わりに早めに気づいてしまいました。
 それでも、なにかしらを期待しているにちがいない。
 なんだろう、ほんとに遠慮がちにでも望むことって。
 そう考えていると、「やさしいこ」なんて思いつきます。
 そして、それもぜいたくな望みかなぁと考え直し、
 「あかるいこ」とか思ってみるのだけれど、
 じぶんのこどもが「あかるくないこ」でも、
 それはそれで、本人がよければかまわないことです。
 そうなると「げんきなこ」というあたりに、
 まずは期待を寄せてしまいそうでした。
 でも、「からだが弱い」ということだってありえます。
 「元気がだせない」としても、それもオッケーでしょう。
 「わるいことをしないこ」とかもあるかもしれない。
 つまり、まぁ、犯罪とかに走るのは、困ることは困る。
 でも、はからずも悪事をすることだってあるでしょう。
 それは、そのこに特有の個性というよりは、
 人間というのは、だれだってそういうもの、
 「わるいことをする」かもしれないものですからね。
 そうやって考えていくと、「どうでもいい」になります。
 ほんとうに「どうでもいい」とは思ってないのにね。
 なにか望むこともあるような気がしていたのです。
 やがて、ぼくが、じぶんのこどもに望むことは、
 「死んじゃわないでくれ」だとわかったのでした。
 だけど、人間はだれだって死ぬわけだから‥‥そうだ、
 親のぼくよりも先に死ぬのはよしなさい、としよう。
 これくらいなら、こどもに望んでもいいのではないか。
 いいよ、それ以外は、「どうでもいい」からさ。
 「親より先に死んではいかん」、これだけ言っておこう。
 そして、ぼくは『ひとつやくそく』という歌をつくって、
 ときどき、そのことを思い出したりしています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば、「生きろ。」というコピーもあったっけなぁ。

Twitterログ12/31(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・親になった人が、じぶんのこどもになにを望むか?
 あれこれ、いくらでも考えられそうです。
 ぼくも、こどもの親でもあるわけなので、
 このこに、どんなふうになってほしいのか、
 きっと何度も考えたのだと思います。
 たとえば、こどもに「勉強しなさい」とよくいう親は、
 勉強することによって、こどもに身につけさせたい
 なにかしらを望んでいるのですよね。
 ぼくは、「勉強しなさい」と言わないほうの親でした。
 でも、なぜ、「勉強しなさい」と言わないのかについて、
 それなりにずいぶん考えました。
 いろいろなことを考えたあげくに、
 わかったことがありました。
 ぼくという親は、「勉強しなさい」と言わないだけで、
 こどもが勝手に勉強することについては、
 いいことだと考えている、ということでした。
 「勉強するな」ではないのですね。
 あんまり勉強をしないでいると、
 毎日の授業の内容がわからなくなります。
 わからないことを座って聞いている時間はたいくつです。
 学校は、ほとんどが授業の時間ですから、
 そのほとんどの時間がたいくつになってしまったら、
 学校に行っている時間は、ほんとにいやなものです。
 ぼくは、高校時代、そういう授業の時間を、
 たくさん過ごしていました。
 「わからない」と「つまらない」の時間に、
 出席してなくてはいけないというのは、実に地獄でした。
 でも、ちゃんと勉強しているともだちは、
 授業の時間がわかるから、つまらなくないのです。
 「あんまり勉強しないでいると、授業がつまらなくなる」
 ということだけ、ぼくはこどもに伝えました。
 幸か不幸か、うちのこどもは、
 わからない授業だとか、つまらない授業だとかを、
 なんとかやり過ごせる人間だったようでした。
 授業以外の時間が、おもしろくてしょうがない、
 というような学校生活だったようです。
 勉強はしないけれど、学校はたのしい。
 それならそれで、まぁ、よかったような気がしてます。
 ほんとは、もっと言いたかったことがあるのですが、
 この続きは、来年にします。よいお年を~。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
さて、ぼくは大晦日に来年の「ほぼ日手帳」に替えます。

2017年に向けて。

もう2017年に向けて1時間を切った中、横で紅白が流れている中でメモっとります。

この年末年始だけ意気込んで書くのもあれなんで、パッとまず思いついてることを。

 

 

2017年は、今年よりももっとバタバタと動けるようにしよう、しなければならないと思う次第です。

 

続けているものは引き続き続け、やってないことは少しづつ始め、折れない程度にリラックスかつ集中する。

 

あと、周りの目を気にせず自分のために時間を使おうとも決心しました。(前から好き勝手してますが、意識的に割り切っていこうと)

 

特段当たり前のことしか書いてませんが、また真面目に思いついたことは随時書いて更新していこうと思うので、皆さん来年もよろしくお願いいたします。

Twitterログ12/30(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・ある時代の「SONY」とかって、
 もちろん電機製品の会社なのだけれど、
 それだけじゃ言い切れないなにかがあった。
 テレビやら、ビデオやら、音楽を聴くためのツールやら、
 つくって売っているのは、そういうものだったから、
 会社の肩書きからしたら「電機会社」なんだよね。
 でも、おそらく、ほとんどの人が
 「その言い方でいいのかなぁ?」と思ってたよね。
 「Apple」も、コンピューターの会社ということで、
 いわば「精密機器・電子機器」の会社ということだけど、
 「そういうふうに言われると、ちがわない?」と、
 思ってる人が、いっぱいいたはずだ。
 「スターバックス」は、コーヒーのチェーン店だ。
 でも、それで言えてるという気がしなかった。
 「第3の場所」とかいう言い方なんかどうでもいいけど、
 もっとなにかが「スタバ」にはあるように思えた。

 そういうことは人間にも言えてさ、
 「SMAP」は、歌って踊れてコントもできるグループ、
 にはちがいないのだけれど、
 「それだけじゃない」なにかを発散していたよね。
 イチロー選手は、メジャーですごい年棒になったとき、
 「野球だけ、というには大きすぎる金額ですよね」と、
 決意に満ちた表情で語っていた。

 企業でも、個人でも、
 「なにかのかたちで言い切れない」というときが、
 いちばん元気のあるときなんじゃないかな。
 なにかをやるために、つまり目的があって
 会社も個人も存在していることになっているけれど、
 いちばんいいときっていうのは、
 「余ってこぼれでちゃう」んだろうな。
 そして、そういう「余ってこぼれでちゃう」ときには、
 けっして本人は、あれこれ余計なことは言わない。
 本職らしいことを、のびのびしっかりやってるだけだ。

『この世界の片隅に』という映画が、いま、
 映画というだけじゃないなにかになりつつある。
 でも、いちばんしっかりやったことは、
 映画を真剣に思い残すことなくつくることだったと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「それだけじゃない」は、狙ってできるものじゃなさそう。