SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ12/29(木)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・なんども考えたことというものがある。
 いちいち言わないけれど、いっぱいある。

 いちいち言わないと言いつつ、ひとつあげるとしたら、
 「遠く」と「近く」ってどういうことなんだろう、
 というようなことがある。

 「宇宙の果てはどうなっているんだろう」と、
 そういう問題は、みんながなんども考えてきたと言う。
 でも、その問題の立て方は、ちょっとおかしい気がする。
 「宇宙」というものを知っているかのように考えている。
 もともと「宇宙」という概念を知ったとしても、
 映画のなかで見た暗闇のやたらに広い空間、
 というくらいのイメージでしかないわけで、
 その果てがどうのこうの考える前に、
 「宇宙」というものが、ほんとうには感じられてない。
 地球ってやつにしたって、見たことなんかないし、
 そのまるくて大きなものを感じたことだってないと思う。
 わからないもの(宇宙)の「果て」が、
 どうなっているんだろうなんて、もう、
 問題そのものがよくわからないとさえ言える。
 「こどものころから、ずっと考えてきたんだよ、
 宇宙の果てはどうなっているんだろうってね」
 とか、言っていることはうそじゃないのだろうけれど、
 ほんとうに感じていたことは、それじゃないように思う。
 ぼくは、そのことに、いまごろ気づいた。
 ほんとうは「遠くってもののわからなさ」を、
 こどものころからずっと考えていたのではないか、と。
 
 「遠く」って、どこまでなのか。
 「遠く」になにがあるのだろう、「遠く」ってなに?
 その「遠く」の延長にあるのが、宇宙という概念なのだ。
 「遠く」に行きたいのか、行けるのか、行っていいのか。
 どこまでも「遠く」に行っていいのか、行けないのか。
 「遠く」の人たちと、つきあうのか、戦うのか。
 「遠く」は、そもそも、じぶんにやさしくできるのか。
 わたしは「遠く」を受け容れられるのか。
 そのことについて、いろんな角度からずっと考えてきた。
 男が女を考えるとき、生きている人が死を考えるとき、
 実は「遠く」の秘密と、「遠く」への憧憬を思っている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「思えば遠く来たもんだ」とは、だれもが感じることだ。

Twitter貼り付け曲まとめ21

Twitterログ12/28(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・2016年があと何日というところにきて、
 「がらっとちがった考え方」を思いついてしまった。
 もちろん、あと数日では考えはまとまりっこない。
 
 おかげで、今年と来年ががらっとちがったものじゃなく、
 じわじわとつながって続けていくものになった。
 ともすれば、ぼくも、おおくの人たちも、
 日や週や月や、年の区切りを通過することで、
 ちょっと生まれかわったような気になりやすい。
 しかし、ほんとうはつながっているもので、
 一晩寝て起きたからといって巨大な虫になっていたり、
 年が明けたからといって、ほんとうは、
 世の中が目出度くなっていることもない。
 気分が変わるのは、いいのだけれど、
 つながっているものを、つながったまま続けること。
 この年末年始は、それをやるのに実にいい機会になった。
 なんか、がんばりたい気分。
 
・家に、猫だとか犬だとかが参加してくれて、
 運命が変化した人を、ぼくは何人も知っている。
 犬や猫は、基本的に「その日ぐらし」である。
 明日になにが待っているか、ほとんど心配したりしない。
 昨日にどんなことがあったか、あんまり憶えてもいない。
 とにかく、今日、とにかくいま。
 そういうやつと暮らしていると、
 ついつい、そのようすを見ていることになる。
 じっと見ていると、うつるんだね。
 ちょっとそういう心持ちになっていく。
 くよくよしたり心配したりが、いつのまにか少なくなる。
 そうすると、ほんとに運命が変わってくるんだよね。
 くよくよする犬がやってきたら、どうなるかって?
 そういう犬を励ましているうちに、人間が大らかになる。

・「ほぼ日」は、今日からお休みになっています。
 それでも、まるまる休みにはいっている乗組員と、
 「いやぁ、そうもいかないんすよ」の乗組員がいます。
 ぼく自身は、頭の中の活動はお休みはないのですが、
 いちおう、お休みのほうのメンバーです。
 「ほぼ日」のみんな、今年はよくやったなぁと思います。
 できることが、ずいぶん増えた1年だったと感じてます。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
1年前と比べて、けっこうましになったと思えるならよし。

Twitterログ12/27(火)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・「金のないやつぁ俺んとこへこい」
 で始まる歌があるんだけど、知ってるかい。
 「ほんとか、行くよ行くよ」と思うやつもいるだろう。
 そうすると、「俺もないけど心配するな」と言うんだ。
 んで、青い空やら白い雲やらを見ろと言うね。
 そして「そのうちなんとかなるだろう」と結論づけるの。 
 東京オリンピックのあった1964年の歌だ。
 「だまって俺について来い」っていうタイトルだよ。
 青島幸男作詞、萩原哲晶作曲、
 もちろん植木等が明るく笑いながら歌ってた。

 これ、いまつくったとしても、
 こういう展開で完成しきれないと思うんだよね。
 「金のないやつぁ俺んとこへこい」と呼びかけられたら、
 もっと本気にさせちゃうと思うんだよ。
 「あんたはサラ金か?」って言われるだろうね。
 「来いというだけの根拠はあるのか?」とか、
 「どんなブラック企業に誘おうとしてるんだ?」とか、
 笑えない方向に話は転がっちゃうんじゃないかなぁ。
 しかも「俺もないけど心配するな」のところで、
 「ふざけるな!」だよ、「交通費払え!」だよ。
 マジにさせちゃうと思うんだよね。
 青い空やら白い雲を指差して見せても、
 「笑えない!」「ごまかすな!」だよ、きっと。

 なんで、当時、この歌が成立していたか。
 どうして、みんなでこの歌で笑っていられたのか。
 それは、1964年という時代のせいだと思うんだよね。
 なんでだか知らないけど「そのうちなんとかなるだろう」
 と、言えちゃうのが「高度成長」の時代ってものだよね。
 この時代には、たいていの商売が、事業が、暮らしが、
 あんまり考えなくても、うまく行ってたんだよ。
 「高度成長」って、そういうことだったんだよねー。

 いまの時代の豊かさと、比べてみたら、
 そのころのほうがずっと貧しかったんだけれど、
 右肩上がりに「もっとよくなる感じ」があったんだね。
 多少、困ったことがあっても、
 「そのうちなんとかなるだろう」って笑えたんだなぁ。
 ‥‥世の中全体が成長してる時代なんて、もうないよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「なにかがきっと待っている」のほうが、不安そうだなぁ。

Twitterログ12/26(月)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・「世の中に明るいだけの人間なんかいない。
 もしそういう人が、実際にいるとしたら、
 その人の存在は他の人たちを暗くしているんじゃない?」
 これは、どこの偉人が言ったわけでもなく、
 あんがい若いときのぼくが言ったことばであります。
 
 自然な状態として、人間には明るさと暗さがある。
 ものすごくあたりまえのことですよね。
 で、ちょっとバランスをくずしたら、 
 ずるずるずるっと暗いほうに引きずられることもあるし、
 捨て鉢なくらいの明るさに、
 苦しいほどの騒がしさに至ることもあるでしょう。
 
 人からすべての光が消えてしまうのは、
 いのちを失うときですから、ほっといたら、
 人は暗くなるようにできてると思うんです。
 ほんのりとでも、明るい方向に
 顔を向けていようと思うのは、
 生きようとすることそのものなのかもしれない。
 明るくあるということは、
 人が生きる過程で選んだ態度なのかもしれません。
 
 人は、明るさと暗さがあるのだけれど、
 あえて、明るさのほうを選んでいる。
 そういうことなんじゃないかなぁ。
 「こんなに真っ暗な時代に、これほど暗い場所で、
 明るくしていることなんかできるはずがない」と、
 さかんに言いたがる人もいますが。
 そう言ってる人が、どういうことになら
 明るさを見つけていけるのか、
 そっちを探すほうがいいのになぁと思うのです。

 新しい年を前にして、なんとなくですが、
 こころのすす払いみたいなことをしたいなぁと、
 ぼくも、ちょっと意識しているようです。

 明るさも暗さもある人間が、明るさを選ぶということ。
 忘れられるはずのない、暗さについては、置いといて、
 明るさのほうを選ぶという意志が、
 生きることそのものなんじゃないかと思います。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
犬とか猫って、いつも(!)生きるつもりでいますよね。

Twitterログ12/25(日)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・若いとき、いつぐらいまでだったかなぁ。
 クリスマスイブは、ほんとうにいやだった。

 そういう気持ちは、日本中の、
 かなりたくさんの人たちが持っているはずなのだけれど、
 「苦しいほどさみしい」とか感じている当人にとっては、
 じぶん以外ほとんどの人のことが、幸せに見えてしまう。
 ふだんの日には、あんまり感じてなかった
 「じぶんのさみしさ」というやつが、
 他人たちみんなの幸せそうな明るさによって、
 格別に暗く重く目立ちはじめるわけだ。
 
 人の心持ちが明るく見えるだけではなく、
 街も道も、音楽も、すべてが明るく騒がしい。
 「じぶんのさみしさ」は、どこにもいられない。
 こんな、クリスマスなんてものがなければ、
 こんなにさみしくならなかったのに。
 というようなことを思う。
 幸せそうに見える人びとのことも、
 どこかで無理をしているにちがいないと想像する。
 こんな日があったから、その日のための演技をしている。
 そして、空から星が降ってくるかのように、
 じぶんのさみしさを溶かしてくれるような人が、
 ここに来てくれないものかと虚空に向かって願う。

 いつのまにか、その「さみしさ」は、
 クリスマスのせいではなくて、
 あらゆる人間が根源的に持っているものだと知る。
 その「さみしさ」と面と向かわざるをえない日が、
 たまに、たとえばクリスマスイブの夜にある。
 そんなことを知るようになる、じょじょにだけれど。
 そして、明るくまぶしく見えていた人びとのことが、
 そういうものでもないんだ、と知ることにもなる。
 
 じぶんが、たくさんの「さみしさ」を持っていると、
 あきらめるように知ってしまってからが、
 大人としての日々なんだろうと思う。
 クリスマスを憎んだことのある人は、幸いである。
 そのときに見つけた「じぶんのさみしさ」こそが、
 すべての素敵なものを入れる宝箱なのだと思うから。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
若くもないはずなのに、なにを書いているんだ、おれは。

Twitterログ12/24(土)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

矢野顕子のドキュメンタリー映画『SuperFolkSong』
 ついている「ピアノが愛した女」というサブタイトルは、
 当時のぼくのやった仕事だ。
 「だれよりもピアノを愛した女」という言い方なら、
 そのまま素直にわかってもらえるのだろうけれど、
 楽器であるピアノが、人間の女を愛するというのは、
 ちょっと違和感を感じる表現だったかもしれない。
 しかし、うれしいことに、
 「逆でしょ?」とか「わかりにくい」とかいうご意見は、
 ぼくの耳にはまったく聞こえてこなかった。
 おそらく、ややこしいことを説明しなくても、
 矢野顕子ファンなら、すっとわかっちゃうのだろう。
 それほどに、矢野顕子がピアノで、
 ピアノが矢野顕子という関係になっていたのだ。
  
 人が、なにかを対象として、
 そこに向けて強く働きかけ続けていると、
 作用に対する反作用として、
 対象からの影響を受けていくという。

 こう、マンガ的な例を出すとね、
 熊撃ちの名人なんていう猟師さんが、
 なんだかすっごく熊に似ていたりするだろう。
 熊のほうからの影響を受けているんだよ、あれは。
 昨日、ここで「環境まで含めてじぶん」と言ったけど、
 熊なしに猟師はいない、ということが固定されていく。
 そういうことは、たしかにあるんだよ。
 誤解されるといけないけど、映画なんかで見てると、
 警察と犯罪者が、雰囲気だけならよく似てたりね。
 
 そういうふうに考えていくと、
 「あんまり夢中になったら、それになっちゃうぞ!」
 ということは、いい意味でもわるい意味でも、
 はじめから覚悟しておいたほうがいいよね。
 「そんなに夢中になってピアノをやってると、
 あっこちゃんみたいにピアノに愛されちゃいますよ!」。
 それは、ま、いいほうの例かもしれないな。
 悪口ばっかり言ってると、悪口人間になっちゃうよとか、
 人のアラばかり探しているとアラ人間になるぞとか、
 そこらのことも教えておいたほうがいいかもしれないね。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
まぁ、気持ちのいいことに、夢中でいたいものだけどねー。