SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ 11/21(月)ほぼ日メモ

(この頃爆睡しちゃうことが増えてきたので、空き時間と普通に起きることを心がけたい。。遅刻はしてないよ)

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・「落ち着け」について、先日も書いた。
 年に一度のペースで、これからも書くのではないか。
 そう思っていたけれど、翌年を待たずに、
 またすぐに言いたくなった。

 短気は損気とは言うけれど、
 落語などでも「愛すべき人物」は、
 たいてい「あわてもの」「短気」「思いこみが激しい」
 というような性格で描かれる。
 だからかなのか、ぼく自身もこどものころから、
 好人物というものは
 「短気であわてもので思いこみが激しい」という、
 それこそ「思いこみ」を持っていた。
 ついでに言うと、熱い風呂を好むとかも、ね。
 じぶんも、そういう人間でありたいと、
 なんとなく思っていたように思う。

 いつごろからか、ずいぶん甲羅を経てからだろうなぁ、
 「落ち着いた人」、「じっくりと考えられる人」、
 「思いこみをなるべくなくそうとする人」を、
 かっこいいなぁと思えるようになった。
 どうしてだろうか、ひとつは、
 「短気で、あわてもので、思いこみの激しい」人が、
 落語のなかにいるかぎりはいいのだけれど、
 実は無責任だったり、その場限りの正義感みたいなもので
 事の収拾を着かなくさせてしまうのを、見てきたこと。
 もうひとつは、ほんとうになにかをどうにかしたいとき、
 「落ち着いた、じっくりと考えられる、
 じぶんの思いこみにとらわれないようにする」人に、
 相談したり解決の筋道を教えてもらった経験のおかげだ。

 長い時間をかけてなろうとしてきた
 落語のなかの「好人物」を見本にしないで、
 人間らしいおもしろみがないと言われそうな
 「落ち着いた人」になりたいと思ったのだから、
 この方向転換はなかなか困難であるとも言える。
 いまでも落語は大好きなのだけれど、
 愛すべき登場人物たちを、生き方のモデルにはできない。
 それはカギカッコ付きの「不良」や「ロック」にも
 言えることなんだけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ほんとうに「落ち着け」の額を発売してもいいんじゃない?

Twitterログ 11/20(日)ほぼ日メモ

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・「ほぼ日」がはじまって以来、
 毎日、この『今日のダーリン』を書いていることは、
 わりと知られていて、同情やら感心やらされている。
 もともと、毎日書いてみようと思ったのが、
 「日曜日にでも開いてる食堂」は好かれるぞ、という、
 努力賞ねらいの意図があってのことだった。
 「ほぼ日」に、なんの取り柄があるかもわからないので、
 「休まずに毎日更新してえらいね~」と言われようと、
 そういう小さな動機があっただけなのだ。
 その後、あまりにも辛抱よく続いたものだから、
 皆勤賞が手放せなくなってしまった。

 土曜と日曜、そして休日の更新については、
 在宅仕事としてやってくれるPさんという人がいて、
 ほとんどお会いしてないままに、
 ずっとこの仕事を続けてもらっている。
 (今日も日曜だからPさんの更新。ありがとう!)
 とにかく、ぼくがちゃんと原稿を書いていれば、
 休まず更新という記録も更新されていくわけで、
 この皆勤賞って、いつまで続けてもゴールがないから、
 来年あたりに、ぷっつり止めようかとも思っている。

 しかし、「ほぼ日」がはじまって以来という記録で、
 毎日の原稿を書くことよりも、もっとスゴイことがある。
 毎日のぼくのスケジュールが、「ほぼ日」乗組員たちに、
 まるまる把握されていることである。
 マネージャーが知っているだけでなく、全員が、
 イトイシゲサトの毎日のスケジュールを知っている。
 「どこにいて、だれと会って、なにをしているのか?」
 ほぼすべてを知られながら18年以上も生きているのです。
 毎日原稿を書いているよりも、こっちのほうがスゴイ。
 さらに、そのスケジュール表は家人にも渡っている。
 行動についての秘密が、まったくないままに18年間、
 「だれだって、秘密なんかない」と建て前を言うなかれ。
 よいことか悪いことかは別として、
 毎日のスケジュールがぜんぶ知られている人って、
 ちょっといないんじゃないかと思うよ。
 これを、これだけ続けられるっていうことのほうが、
 ほんとうは、むつかしいことなんじゃないかな?
 (人知れず予定が変更された土曜日に書きました)

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
予定では京都にいるはずでしたが、東京にいる週末です。

Twitterログ 11/19(土)ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・「真剣である」ことは、簡単なようでむつかしい。
 人は、あんがい真剣じゃないものです。
 真剣そうに見えていても、真剣そうに見せていても、
 ほんとうに真剣だということは、
 あんまりなかったりするものです。
 涙ながらに語ったとしても、怒声をあげて叫んでいても、
 そういうことは、あんまり関係ないのです。
 感情を激しく表現していても、真剣とはちがいます。 
 「真剣である」ということが、
 人にしっかり届いたときには、
 意見を異にする人たちの間にあっても、
 こころが通じます。
 そんなことを言うぼくが、
 「真剣である」がどれほどあるかと問い返されたら、
 ときどきある、くらいしか答えられません。
 でも、なくはないです。
 さらに言えば、真剣が通じなかったこともあります。
 
・昨日、「東京電力福島第1原発」に、
 はじめて福島の高校生たちが見学に入りました。
 両親と話し合って許可を得て、
 校長先生ともしっかり討論をしてきています。
 あらかじめ書面にもつくってあった質問の数々は、
 メディアの人たちも真っ青の、核心をついた内容でした。
 東電福島復興本社の石崎芳行代表や、
 廃炉推進カンパニー最高責任者の増田尚宏さんに、
 見学バスのなかで静かに質問し続ける女子高生たちを、
 ぼくも、たぶん取材の記者たちも、
 じぶんたちの若いころと比べて見ていたと思います。
 福島の高校生たちの真剣さが、美しく見えたのでした。
 重くもないし、感情をぶつけているのでもない。
 でも、「真剣である」ことが、空気をつくるんですよね。
 むろん、その真剣さに、石崎さんや増田さんも、
 迫力を感じるほどの真剣さで、静かに答えていました。

 大きな事故、不幸からはじまったことなのですが、
 この人たちが、次の時代を拓いていくのだなぁと、
 なんだかわくわくするような気持ちになりました。
 絶望は愚か者の結論、未来はあの人たちの時代ですよね。
 軽やかに、そして真剣に、どうかたのしくね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
大人たちは、種蒔く人たちに、どんな畑を贈れるのだろう。

Twitterログ 11/18(金)ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

『・「落ち着け!」と大書された掛け軸が『さんまのまんま』という番組で、明石家さんまさんの部屋のセットに飾ってあった。

と書き出して、「落ち着け」は漢字だったかなぁ、それとも「おちつけ」とひらがなだったかなぁと迷い、もしかしたらわかるかもしれないと検索してみた。「落ち着け さんまのまんま」と入力したら、掛け軸の画像は見つからなかったのだけれど、ぼくとほとんど同じような考えの人の文章があった。

明石家さんまという人のためのことばではあるけれど、これは、実は全人類に向けて発したいよね‥‥とまで力説している。

‥‥?? おれだよおれおれ、おれおれサギじゃないよ、おれが書いたんだったよ!イトイでしたよ。

今日、いま書こうとした「落ち着け!」のことを、すでに、ぼくは書いていたのだった。今回、それについて書こうと思った理由は、犬が「チーン」というベルを鳴らす芸をするときに、あまりにもあわてて失敗してしまうのを見ていて、「人間にもこういうことがあるよなぁ」と思ったからだ。あわてさえしなければ、できるのに。あわてなければ、あんなことにならなかったのに。そういうことが、多いんだよなぁ、と。ぼく自身は、あの『さんまのまんま』という番組のあの「落ち着け!」という書のおかげで、ずいぶんと助けられてきたような気がするよ、と。そういうことを書こうとしていたのだった。おれは、多少はましになったんだよ、とね。「落ち着け!」について、前に書いたときから、ぼくはちゃんと学んでいたのかもしれないぜ、と。

すごいな、これは、ありがたい学びだったなと思い、前に書いたのはいつだったのだろうと日付を見たら、2015年11月9日(月曜)、あっ、ちょうど一年前だった。誕生日のあたり、冬の入口あたりで思うことなのかなぁ。そうか、すばらしいじゃないか、なんだかとにかく。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。みなさまもね、落ち着いて、よき日々をお過ごしください。』

Twitterログ 11/17(木)ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・日本、といってもずいぶん広いのだけれど、
 おおざっぱに言って、この日本では、
 ほんとの「迷子」になることは、ほとんどなさそうだ。
 道に迷って、行き先がわからなくなることや、
 どこかで記憶を失ったりすることも、なくはないかな。
 しかし、多少でもことばをしゃべれたら、
 あるいはいちおう歩くことができたとしたら、
 「迷子」状態から脱するための、次のステップに行ける
 (深い山の奥だとかは、ちょっと別にしてだけど)。
 のどが渇いたとしても、水の流れや水道に類するものに、
 どこかでぶつかるだろうし、
 食べものについても、木の実だとか食べられる草が、
 どうしてもいうときには、ないわけじゃなさそうだ。
 もちろん、都市における「迷子」状態だったら、
 もっと生きる術は見つかりやすいだろうし、
 親切な通行人や、交番のお巡りさんのような人たちが、
 あれこれ苦心して、「迷子」の家を探してくれそうだ。
 
 ぼくは、飛行機の窓から、たまに見る
 砂漠というやつが怖くてたまらなくてさ。
 行けども行けども砂ばかりって、
 想像するだけで恐ろしい景色に思えるのだ。
 しかも、それは想像の世界じゃなくて現実にそこにある。
 砂漠を行く人びとについても、絵や写真では見る。
 人と、らくだと、荷物が、延々と続く砂漠を行く。
 ここで、「おまえを置いていくぞ」と言われたら、
 生きていけないかもしれない「迷子」になるのだろう。
 なにかと道に迷ったりうっかりしたりしがちな、
 「ほぼ日」乗組員のYさんやらNさんなんか、
 砂漠の民として生まれていたら、とっくに死んでるね。
 若くして干からびているだろうよ、大変だよ。
 
 平気で「迷子」になれる土地で生まれ育った人間と、
 隊から離れたら死に直面する砂漠で生まれ育った人間と、
 どちらもこの世界に生きて暮らしている。
 しかし、生きることへの意志だとか技術みたいなものは、
 まったくちがってくるのだろうなと思う。
 砂漠で生きていく人たちや、氷原で暮らす人たちが、
 どういう心持ちで生きているんだろうと、
 たまに考えはじめると、気が遠くなってしまう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
でも、世界には日本みたいな土地のほうが少ないんだよね。

Twitterログ 11/16(水)ほぼ日メモ

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・クルマを使っての旅をすると、
 サービスエリアというところに寄ることになる。
 なにか、ちょっとしたものを食べたいとか、
 飲みものを買おうとか、運転の疲れがでたからとか、
 いろんな理由があるけれど、
 なによりたくさんの人にとって重要なのは、
 「トイレに寄っていこう」ということだろう。

 サービスエリアのトイレを利用するたびに、 
 ぼくは、ちょっと感動に近い思いになる。
 使っていて、つくづくきれいだなぁと感じるのだ。
 汚れや不衛生について、ほぼ気にしなくていい。
 これは、昔から生きている人間にとっては、
 まさしく感動に近いよろこびなのである。
 昔の「公衆便所」と呼ばれた公共のトイレのことを、
 詳しく教えておこうか‥‥いや、やめておく。
 さらっと言えば、汚かったのだ。
 そして、壁には下品より下品な落書きがあり、
 できることなら、そこを利用したくない場所だった。
 ぼくは、いくつかのパターンの悪夢を見るのだけれど、
 そのうちのいちばんいやなテーマというのが、
 「汚れたトイレを見て、人間に絶望している」
 というものなのだ、ああいやだ。
 しかし、いまの公共のトイレのほとんどは、
 きれいに掃除されていて、安心して使えるのだ。

 世の中がよくなったとか、わるくなったとか、
 便利になったとか格差が広がったとか、
 いろんな考え方があるのは、よくわかるのだけれど、
 みんなが使うためにあるトイレが、
 気持ちよく使えるようになったということについては、
 ぼくは、しみじみよかったなぁと思うものである。
 「そんなことぐらい、なんだ」と
 思っている人がいることも知っているけれど、
 ぼくには、その「そんなこと」が大事に思えるのです。
 サービスエリアのトイレが、きれいで安心して使えて、
 しかも怪しい人たちが襲いかかるようなこともない。
 こんな場所が日本中にできていくまでに、
 どんな道のりがあったのかをたどることも、
 日本の歴史研究なのではないか、と思ったりしている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
師走は、もうとっくにはじまっているなぁとか思いつつ。

Twitterログ 11/15(火)