SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

単語の意味あいをちょっと聞いてみたい。「Quiet Life」

英語できない僕だけど、「quiet」ってこういう感じの単語なの?って聞いてみたい感じ。LAのSupremeで取り扱われてるらしく、そういうブランドだからこそ、なおさら。

まず、パッと見チャーミングな絵柄が多くていいなと思っております。メモ。

thequietlife.com

 

Twitterログ 8/10(水)メモ貼り

Twitterログ 8/9(火)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・「やさしく。つよく。おもしろく」
 ということばを説明するときに、こんなことを言う。

 まず、「やさしくは前提なんだよ。
 やさしくないチームでありたいとは思わないだろ」
 だから、このことばが最初に置かれている。
 「つよくなかったら、実現できない。
 あれいいな、これやりたいなと思ってても、
 やさしいだけのままじゃ、だれの力にもなれないよね」
 ふつう、企業はこの「つよく」を磨いて成長する。
 最後になるけれど、問題は、「おもしろく」だ。
 「おもしろくないと、人もじぶんもうれしくなれない。
 実は、いちばんのメシの種は、このおもしろくなんだよ」

 「やさしく」も「つよく」も、とてもわかりやすい。
 しかし、「おもしろく」というのが、むつかしい。
 しかも、「おもしろく」が稼ぎのもとだっていうのだ。
 ぼく自身には、言わずもがなというくらいに、
 身にしみてわかっていることなのだが、説明がしにくい。
 「おもしろく」って、なんなんだ?

 おもしろくない企画だとか、おもしろくないデザインを、
 「おもしろくない」と判断するのは、できるようになる。
 それは、ユーザーの一人一人が自然にやってることだ。
 しかし、「おもしろい」を出していくのが簡単じゃない。
 いつでも、ぼくは「おもしろい」のことを考えている。
 
 そんなある日、録画しておいた
 「シンガポール動物園」の番組を観ていたら、
 この動物園の考えていることとして、
 「環境エンリッチメント」ということばが出てきた。
 誤解を怖れずに、ぼくなりの翻訳をさせてもらえば、
 人間の管理する機能的な食事を確実に与えられていると、
 動物たちにとっては、「つまんなくなっちゃう」ので、
 豊かに生きられる変化のある環境を、つくっていく。
 つまり、動物にとっての苦労や工夫を必要とするけれど、
 「おもしろい」をつくるんだと、ぼくは受取った。
 そういうことだよ、「おもしろく」っていうのは。
 足りていて過不足ないだけでは、人にとって苦しいのだ。
 「おもしろく」がメシの種になるとはそういうことかも。 

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
生まれたての赤ちゃんだって、おもちゃを必要としてるよ。

Twitterログ 8/8(月)メモ貼り

Twitterログ 8/7(日)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

うちの犬のことを、ぼくは冗談めかして
 「こころの狭い犬」と紹介している。
 とにかく、他の犬や、他のどうぶつたちのことを、
 なんだか知らないけど「許さない」のだ。
 強そうな犬のことは無視して見ないようにするし、
 強いとも思えないどうぶつには怒って見せる。
 テレビの画面の生きものたちに対しても、因縁をつける。
 家族を守ろうとする、忠実な犬とも言えるかもしれないが
 寛容さというものがまったくない。
 「偏狭」とか「狭量」と言うとちょっと気の毒なので、
 「こころの狭い」という表現でまとめている。
 
 「こころの狭い」という大きな欠点のある犬のことを、
 ぼくは嫌っているのかといえば、嫌ってはいない。
 むしろ、「こころが狭い」ことも含めて、好きなのだ。
 
 そのことについて、ふと思った。
 「こころが狭い」は、犬を嫌う理由にならないのか。
 では「こころの狭い人」の場合はどうなのだろうか?
 なかなかほめられない性格だとは思うけれど、
 「こころの狭い人」という理由で嫌うこともなさそうだ。
 そういうところがイヤだね、とか言いつつ、
 ぼくは、きっと彼(彼女)とつきあっていることだろう。
 そう気づいて、実はびっくりした。
 「こころが狭い」ことは、あんまり大事じゃないのか。
 「こころの広い」は、とても尊敬できることではあるが、
 偏狭や狭量と言われるようなことは、ま、いいのか‥‥。
 そう思ってさらに考えてみると、ぼくの友人や知人に、
 「こころの狭い人」も、けっこういる。
 そうか、「こころが狭い」のもオッケーなんだ、ぼくは。
 へーえ、とさらに考える。

 じゃ、なにがダメなのだろうか。
 盗癖があるとか、人を殴るとか、平気でウソをつくとか、
 そんな悪いことでも、もしかしたら場合によっては、
 「だけど嫌いじゃない」になる可能性もなくはなさそう。
 ドラマのなかには、そういう友人とかも、出てくるよね。
 なんだか、問題はそういうことでもないのかもしれない。
 じゃ、ほんとに、なんなんだろうなぁと、
 まだ「考え中」のままなのであります。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「いいやつだけど、性格がわるい」という人もいるよね~。

Twitterログ 8/6(土)メモ貼り

Twitterログ 8/5(金)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・「身を粉にして」だとか「寝食を忘れて」だとか、
 「人の何倍も」だとか、「我が身を省みず」だとか、
 過剰なまでの努力をする人が成功する、という物語は、
 みんなが大好きです。

 正直に言いますが、ぼくも好きです。
 努力をする選手の話などを知っては尊敬しています。
 友人や知人が、一所懸命努力をしていることを、
 じぶんのことのように誇らしく思ったりします。
 
 異常だと思われるくらいにやることや、
 別世界にいるかのように夢中になることが、
 なにかを成し遂げるためには、
 とても大事なのではないかと、いまでも感じています。
 
 ただ、そういう人の、そういう物語が、
 どうしてこころに響くのかといえば、
 それは、やっぱり「めずらしい」からだと思うのです。
 あんまりたくさんはないことだから、
 たいていの人にはできないことだから、めずらしい。
 そして、そういうめずらしいことを、
 じぶんはしてなかったから、
 このあたりのところをうろうろしているのかなぁ、と、
 苦笑いしながら思えるのかもしれません。

 ほとんどの人間は、めずらしいわけでもなく、
 平々凡々に生まれて生きて死んでいきます。
 これは、ありがたいことでもあるし、
 ちょっと残念なことかもしれませんが、いいことです。
 この平凡が否定されるようなことがあったら、
 人間の歴史も存在も、みんな否定されてしまいます。
 
 だけど、過剰なまでの努力が「めずらしい人」をつくり、
 それを見上げながら生きることって、
 平々凡々の人間にとって、励みになったりします。
 励みというか、娯楽というか、憧れというか‥‥ね。
 だけど、実際に「身を粉にして」だとかは、ダメです。
 人の何倍も努力したら、その反作用を受けるはずです。
 いのちを削るようなことをすると、いのちを削ります。
 そのことを、忘れないようにしていたいものです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「バランスをとる」ということにこそ、努力しなきゃね。