SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ4/23(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・じぶんたちの長所と、短所を知って、
 長所を伸ばすようにすること。
 なににも増して、これが大事なことです。
 それしか考えなくていいくらいかもしれません。
 そう言ったのは、岩田聡さんだった。
 もう二十年近くも前のこと。

 「ほぼ日」をはじめて、間もないころだった。
 ぼくは、それまでのほとんどの時間を、
 フリーランスとしてやってきてたから、
 チームを率いていく経験はほとんどなかった。
 得意なことはなにか、不得手なことはなにか。
 それがわかっていて、得意なことをさらに得意にする。
 口で言うのはかんたんだけれど、
 それがほんとうにわかるのは、なかなかむつかしい。

 まず、なにが得意なのかがわからない。
 そんなものがあるのかどうかも、まったくわからない。
 わからないものは伸ばしようもない。
 なのに、不得意なものごとについては、
 いくらでも思いつくし、それをなんとかしたくなる。
 そうすると、いつのまにか、
 苦手なこととばかり格闘することになる。
 得意を探すことなど、さらにできなくなっていく。 
 ぼくは、いまだに、長所がなんであるのか、
 よくわからないままでいる。
 だから、いまでも、それを伸ばすことができてない。
 そんなふうに思えてならない。

 しかし、ちょっとした思いつきが生まれた。
 長所も短所も、探さないという方法もあるのではないか。
 動きやすいほうに動く、ということ。
 やっていておもしろいことをする。
 やってもやってもやっていたいことをする。
 したくないことをするなとは言わないが、
 やりたくないことには、注意深くなくてはならない。
 これは、自然に得意なことをしていくことになりそうだ。
 長所を探していくのではなくて、長所を生きる。
 それをくりかえしているうちに、得意になる。
 そういうことで、どうだろうねー、岩田さん。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
無理をしないと続けられないことは、きっと長所じゃない。

Twitterログ4/22(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

矢野顕子は、作曲、歌、ピアノの他、作詞もすばらしい。
 「つくりたいときに、つくる」「できたとき、歌にする」
 というスタイルの作詞家だものだから、
 いいものばかりになってしまうのは、しょうがないさ。
 なかでも、ぼくがとても好きなのは
 『ひとつだけ』という曲の歌詞である。
 アンダーラインを引きたいほどいいのは、
 「いちばん楽しいことは 
 あなたの口から あなたの夢 きくこと」というところ。
 若さがあって、大好きな気持ちがあって、未来があって、
 口のほうにも、耳のほうにもなりたくなる。
 
 恋愛ばかりではないとも思うのだが、
 「こっちをじっと見てやさしくしてくれる人」よりも、
 「どこか向こうをうれしそうに見ている人」のほうが、
 惚れさせちゃうんじゃないだろうか。
 なにかに真剣で、夢中になっている人はかっこいい。
 そして、その横にいっしょにいてみたいと思わせる。
 アイラブユーと何万回も言ってくれるよりも、
 黙って新しい世界への手を引いてくれるほうが、
 「いちばん楽しいこと」、というわけだ。

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、
 「ごきげんをうかがっている」より、
 「思ったことを思いっきりやってくれ」ということ。
 それは、男と女の関係だけでなく、大人とこどもでもね。
 「どこに行って、なにがしたいの?」と訊ねて、
 それを実現してくれる大人よりも、
 うれしそうに「こっちへ行こう」と
 連れていってくれる大人のほうが、
 こころの奥に思い出を残してくれるのではないだろうか。
 
 いやいや、これは、ぼく個人の考えで、
 「そんなことないよ、大反対」という意見もありそうだ。
 娘が幼いころに、プロ野球観戦やらキャンプやら、
 じぶんが真剣になる場所に連れていったことについての、
 言い訳をしているように聞こえるかもしれない。
 でもね、相手のためばかりを優先して、
 「やってあげている」なにかというのは、
 ほんとうには、どっちも楽しめてないものだと思うよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人がうれしそうにしている様子は、だいたい魅力的だよね。

Twitterログ4/21(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・「やりとり」、漢字で書くと「遣取」。
 やったりとったりすることだ。
 「交換」ということだ。
 これが、ものすごく重要なことなんだよね。

 「吸う吐く」、つまり「呼吸」も酸素の「やりとり」。
 「交通」「往来」なんて、まったくの「やりとり」。
 「貿易」、これも「やりとり」で。
 「収支」も当然「やりとり」だ。
 「交際」、もちろん「やりとり」。
 「試合」も「やりとり」だし、
 「ゲーム」やら「戦さ」も、「やりとり」だ。

 「やりとり」が停滞しているとか、止まっている場合、
 活性がなくて、眠っているとか、死んでいるとかだ。

 うちの犬を見ていると、幼いころからずっと、
 世界と意味もなく「やりとり」していたが、
 このごろは老犬になって、「やりとり」の量が少ない。
 ぼくとの関係も、むろん「つながり」はあるけれど、
 「やりとり」はすっかり少なくなってきている。
 ぼくのほうから、一方的になでているくらいのものだ。

 人間の活動も、「やりとり」から遠ざかることを、
 「充電」とか「準備」とか言ったりするけれど、
 ほんとは「やりとり」しながらの「充電」がいい。
 
 前に、ネパールのライくんと話していたときに、
 彼が、「ネパールは、海がないので貿易がやりにくい」
 というようなことを言っていた。
 そういえば、栄えている都市は、大きな港を持っている。
 なにかが来て、なにかが行く、入れて、出す。
 その「やりとり」のなかに、繁栄もあるということだ。
 ネパールは、陸地で、高地で、つまり海から遠いので、
 なにかを持ってくるにしても、持ち出すにしても、
 いちいちよいしょよいしょと運ばなきゃならない。
 売るも買うも入れるも出すも控えめにならざるを得ない。
 「これをつくって売ろう」だって、やりにくいわけだ。
 国も、人も会社も、港が活発に「やりとり」してなきゃ、
 成長することも、よろこばれることもむつかしいよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「放電」できないと「充電」もできない、ということもね。

Twitterログ4/20(木)

Twitterログ4/19(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・それにしても、昨夜の上野「東京文化会館」での
 「矢野顕子×上原ひろみ」のコンサートは、すごかった。
 音楽の激流に洗われて細胞が活性化したという感じ。
 まだ、余韻が消えそうもないです。
 そして、日記風にいえば、本日は朝から
 「伊集院光とらじおと」の収録に行きまして、
 終了次第、そのまま福岡に向かいます。
 親しくしていただいている博多の「グルーヴノーツ」に、
 ITに関わるレクチャーを授けてもらいに行くのですが、
 夜には前川清さんとお会いして、少々話をしてきます。
 ごっちゃごちゃに見えますが、そんなこともないです。

 ま、いつも以上にごちゃごちゃ動いている日に、
 「ほぼ日」にとって、けっこうな大ニュースです。
 ぼくらも、もともとおつきあいのある方々で、
 それぞれのお仕事についてずっと尊敬していた
 お二人の方々が、「ほぼ日」という船に乗り込みます。
 若い新人、とかではありません。
 早野龍五さんと、河野通和さんです。

 僥倖というか、おれたち運が強いね、というか、
 実にすばらしい出会いになりました。
 そこらへんのことについての短い経緯と、
 ぼくを含めた三人からの初めてのご挨拶と、
 どうしてこういうことになったのかという
 「動機」やら「歴史の必然?」について話をしました。
 詳しくは、そちらをゆっくりとお読みください。
 ふだんの連載の構成で、全4回としてつくりましたが、
 全4回分を、本日、いっぺんに掲載します。
 この鼎談が行われたのは、6日前のことでしたが、
 特急で仕事をして、すぐ掲載することにしました。
 正直言って、とても恵まれた流れを感じます。
 そして、とても愉快です。
 ふんばる足に、ぐっと重みを感じています。
 まさしく、夢に手足がついて動き出していくところです。
 できることが増えていく実感が、もう、あります。
 早野さんの東京大学最終講義で語られた
 「アマチュアの心で プロの仕事を 楽しそうにやる」
 こういうことが、もう「ほぼ日」で始まっています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
しばらく「さん付け」が直らないのですが、ま、いいかな。

Twitterログ4/18(火)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・昨日、この場で、以下のようなことを書きました。

 「かわいい」と感じたり言ったりすることは、
 2歳の女の子でもできて、しかも、すべて正しいのだ。
 「かわいくない!」と言われる筋合いはないのだ。
 なんてすばらしい概念、なんという万能で平等なことば。
 あらゆる「かわいい」は、ぜんぶ肯定されるのだ。

 お金に換算したらいくらだとか、
 どれだけ多くの他の人が認めるかとか、
 そういうことは、まったく関係なくていいのです。

 今日から、「TOBICHI2」で展覧会もはじまる
 ヒグチユウコさんとの対談で語っていたことも、
 「かわいい」に関わるんじゃないかと思っています。
 いわゆる、おおぜいの人が「かわいい」と思うことと、
 ヒグチさんが「かわいい」と感じることの間には、
 それなりの距離があります。
 その距離のせいで、ひょっとすると多くの人が、
 ヒグチさんにとっての「かわいい」を描く世界を、
 「キモチワルイ」と感じる可能性もあります。
 さらに言えば、ヒグチユウコさんは、
 ぼく個人からしたらもっと「キモチワルイ」ものを、
 それを好きだと宣言しています。
 
 ぼくもそうだったけれど、人びとは、
 そのあたりのことを理解したいと考えるようになったり、
 彼女の「かわいい」の豊潤さを、
 だんだん、うらやましいと思うようになったりします。
 やがて、ヒグチユウコの「かわいい」世界は、
 だれともちがっているのだけれど、とても説得力のある、
 しかもずいぶんと魅力的なものに思えてきます。
 「芸術に人がつかまる」というのは、こういうことかな。
 つかまってしまったその人は、どうなるかと言えば、
 いつのまにか自由と豊かさを得ているのです。
 豊かに「かわいい」を発見し育てることのできる人は、
 その「かわいい」の世界を、人びとに伝えられる。
 親をやってきた人なら、娘や息子の影響を受けて、
 新しい「かわいい」を覚えたこともあるでしょう?
 こうやって人類の「かわいい」総量が増えていくのです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「かわいい」は争わず、「かわいい」は対立してはならぬ。

Twitterログ4/16(日)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・喘息をやった人は、空気に敏感になるという。
 ぼくも、そういえばそうだ。
 精神的なことの比喩にしても、
 息苦しい感じとか、空気がよどんでいるとか言いたがる。
 呼吸することで苦しんだ経験があるから、
 吸うこと吐くことに意識がいきやすいのだろう。
 
 そういうじぶんが、最近、ふと気づいた。
 ぼくの呼吸が浅くなっている、ということだ。
 ちょっと吸ってちょっと吐いてる感覚がある。
 人間は、ものを食べることと空気を呼吸することで、
 生きて動いているわけだから、
 呼吸が少なくて浅いということは、
 食事をいいかげんにしているのと同じようなものだ。
 これはいかん、このことをしょっちゅう思い出して、
 しっかり呼吸をすることにしようと考えた。
 
・花粉症の人たちにとって、深く呼吸するなんてことは、
 とんでもなく怖いことなのだろうな。
 じぶんを痛めつけることになる花粉が、
 空気のなかにたっぷり混じっているのだから、
 そんなものは吸いたくないに決まっている。
 しかし、だからといって呼吸を浅くしていたら、
 生きるということのパフォーマンスは落ちるだろう。
 逆に、きれいな空気の山や海なんかにいると、
 周囲の空気がごちそうのように思えて、
 思いっきり吸いこんだり吐き出したりをしたくなる。
 そんなふうに深く深呼吸をしていれば、
 他になにがなくたって元気になるというものだ。
 
・この世を悲観的に考えたくなるきっかけには、
 空気が汚れていくという認識があるような気がする。
 「未来は、どんどん空気がきれいになっていきます」
 などという発明ができれば、そうとうに
 人びとのこころをつかめるのではないだろうか。
 2011年3月のある日「換気扇を回さないように」と、
 行政からの指示が聞こえてきたとき、
 ぼくは、とてもたくさん悲劇的な道筋を覚悟した。
 部屋のなかより、外の空気のほうが汚いということは、
 世界に絶望していくには、なによりの近道になる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
大きな静かな深い呼吸をしましょう。快眠快食快便快息。