SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ2/12(日)ほぼ日メモ

 

今日ダーリンより

【・上野の国立科学博物館でやってる『世界遺産 ラスコー展』に行ってきた。絵の書かれた洞窟をそのまま運んでくるわけはないから、洞窟の壁面の精密な模型をつくって、それを展示するというしくみだ。展覧会は、その大きな洞窟の模型と、絵の具やら彫刻やら石器やらという実物の資料、そして、それらの制作者であるクロマニヨン人たちのリアルな人体模型が展示してある。むろん、解説のための文章や写真、図、動画なども、あちこちにたくさん用意されている。洞窟絵画は、化石や隕石などと同じように、もともとのぼくの大好物だったから、なんだか、そういうものを見ているだけで気分がいい。今回、想像とちがったのは、土っぽい地味な展覧会のわりに満員だったことと、こういうものに興味がないと思っていた家人が、「見たい」と言い出して同行したことだった。あんがい、大昔に起った物語を見せる「ラスコー展」はおおぜいの人に受け容れられる企画だったんだ、と、それまでのじぶんの勝手な常識を更新することになった。これも、人びとが「ひまつぶし」以上の「いい時間」を求めているということになるのだろうと思う。

展示の石器などは実物(東京の場合)なのだけれど、目玉になる展示である大きな洞窟絵画や、クロマニヨン人の原寸フィギュアはレプリカである。ぼくらは、リアルな複製物を見るために行列している。これでいいのだ、と思うし、それはそれで満足なのだが、ずっとその「たのしみの構造」について考えていた。‥‥そうか、これは「ディズニーランド」なのだ。「ジャングルクルーズ」や「カリブの海賊」のような、景色や道具、動物たちのレプリカを見て回るしくみ。「ラスコー展」と「ジャングルクルーズ」のいちばんの違いは、監修者の設定する「基準」である。学問として正確である必要のある「ラスコー展」と、情報資料を娯楽のために使う「ジャングルクルーズ」は、情報の編集のし方がちがうだけで、そっくりなのだ。人びとが集って、情報の実体化したものを眺める愉しみ。パソコンの画面や、本じゃ、だめなんだよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「ラスコー展」は、この後は、宮城、福岡に行くらしいよ。】

Twitterログ2/11(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・仕事がらなのか、好奇心もあって、
 ほんとうにいろんな人に会ってきた。
 農業に関わる人だとか、工業的な技術を持ってる人、
 すばらしい料理をつくる人などなど、
 いわゆる象牙の塔の外にいる達人たちは、たくさんいる。
 その人が、まさしく心血を注いでつくってきたもの、
 じっくり考えてきたことは、ほんとうにすばらしい。
 
 ただ、けっこうな割合で、すばらしい街の専門家たちは、
 妙な方向に関心を向けはじめてしまうのだ。
 まじめな顔で、「宇宙の真理」を発見したとか言い出す。
 世界をつらぬく法則が見えたというようなことで、
 それについて熱心に説明をしてくれる。
 ぼくにも、ぜひ理解してほしいと、語ってくれるのだ。
 正直に言うが、もう、そういう次元に入っちゃったら、
 その人の話は、まったくおもしろくなくなる。
 ぼくは、「またか、残念だなぁ」という思いで、
 なるべくそういう話題に触れないようにして、
 やがては、専門分野にも行き詰まっていくその人と、
 だんだんと疎遠になっていく。
 
 「宇宙の真理」だの「世界の真実」だの、
 わかりたい気持ちは、わからないわけじゃない。
 だけど、そっちに行っちゃうのはだめなんだよね。
 物語のなかのゴータマシッタルダじゃないんだから。
 じぶんのずっと見つめてきた関心事の向こうに、
 なにかが見えるのはいいかもしれないけれど、
 宇宙やら世界やらを、俯瞰したくなっちゃいけねぇや。
 
 ただ、これの縮小版みたいな「全能のオレ」的気持ちは、
 タクシーの運転士さんから、街の酔っぱらいから、
 夕食のテレビの前のおとうさんから‥‥みんなにある。
 「それ、前から知ってたの?」と聞き返したくなるけど、
 人が、唐突に、なんだかすごいコメンテーターに
 変身してしまう現象は、わりにありふれた風景だ。
 もっとも、ま、本職の「コメンテーター」にしたって、
 あんまり知りもしないことについて、
 もっともらしく真剣そうに言ってるだけかもしれないし。
 「知ってることを言おう」とするには、実は理性がいる。
 人間は、本能的に「つい知ったかぶりする」動物なのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
確かなことだけ言おうとする人は、口数が少なくなりがち。

Twitterログ2/10(金)

(あれ見逃した〜という少しの残念感とともに、毎日更新して1日限りのコンテンツがあるとやっぱり見られるんだなと。というより、あのような人が、そういう文章を毎日ひねり出してるのがすごいんだけど。)

 

 

Twitterログ2/9(木)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・ずいぶん昔になるけれど、「亭主元気で留守がいい」と、
 おばちゃんたちが集って唱和しているCMがあった。
 当の亭主たちも、「えらい言われようやな」と、
 苦笑するくらいの反応で、おおむね受け容れられていた。
 
 あらためて、そのことばをいま考えると、
 亭主が、元気でしかも留守である、なんてことは、
 もう最高の家庭なのではあるまいかと思えてくる。
 「留守」であることのそれぞれの理由については、
 これはもういろいろありそうなのではあるが、
 少なくとも家の外のどこかに、亭主であるところの
 彼を必要としている場がある、ということが言えそうだ。
 家だけで必要とされている男というのも、
 なかなか哀しいものだと思いますからねぇ。
 そして、なにより「元気」なのだということがすごい。
 そうなんだよ、「元気」だというだけで、
 とってもありがたいことなんだ。
 それは、他の人たちが「目を離していられる」ことだ。
 親しさだとか、愛情だとか呼ばれているような感情が、
 ないわけじゃないのだけれど、忘れていられる。
 「ずっと見ていなければならない」という関係は、
 見ている側の人の行動をずいぶんと制限することになる。
 「目を離していられる」くらいの「元気」は、
 もうとんでもなくありがたいことなのだ。
 おまけとして言えば「留守」も、同じ意味を持ってるね。

 ただ単に「元気」であるとか、
 もっと即物的に「丈夫」であるとかいうことは、
 人をほめるときの最後の一要素みたいに思われているが、
 それが、どれほどたいしたことなのか、
 いまくらいの年齢になってしみじみわかるようになった。
 
 先日の「ほぼ日手帳ミーティング」で、
 「ほぼ日手帳って、どうして続けて使えるんだろう?」
 と、いつもの質問をしたら、こんな答えが返ってきた。
 「やっぱり、丈夫だからじゃないでしょうか」
 ‥‥名答だ、使い続けられることの前提はそれだよな。
 すごい分量の紙を挟んで、すっかりぶ厚くなろうが、
 1年間、丈夫で壊れないでいるからこそ使ってもらえる。
 こんな基本のなかの基本を、つくづく再認識したなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼく自身の基礎も、あんがい丈夫で、わりと元気、だもの。

Twitterログ2/8(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・目標の奥に、球は向かっている。

 プロ野球のキャンプ帰りだからなのか、
 どうしても、そういうことを考えがちです。
 2月9日が藤田元監督の命日だということも、
 関係あるかもしれません。
 投手でもないぼくに、藤田さんは、教えてくれました。
 投手の投げる球は、捕手のミットをめがけて投げます。
 しかし、それでは力のある球にならないというのです。
 捕手の構えるミットの、その奥に向けて投げるのだと。
 ミットに捕られてボールは止まるのだけれど、
 実は、それは通過点だったのである、と。

 P------------------------>C--->

 これが、物理の法則に照らし合わせて正しいのかどうか、
 ぼくにはわかりません。
 でも、これを教えてもらってから、
 いろんな場面で、この考え方をするようになりました。
 スポーツを見るときには、もちろんですが、
 もっと他の場面でも応用が利くんです。
 例えばの話ですけれど、ある映画を制作したとする。
 それを上映してくれるのは劇場ですよね。
 だから、劇場が、いわば捕手のミットであるわけです。
 それに向けて球を投げているのではいけない、と考える。 
 劇場に集まってくれる観客がよろこんでくれて、
 はじめて力のあるボールが投げられたということです。
 もっと欲を言えば、観客のよろこびが深かったら、
 ほんとうにいい球が決まったというわけですよね。
 
 じぶんに対して厳しく、この考えを続けていくならば、
 この文章を読んでいる人が「読んでくれただけ」だと、
 ただのストライクということですよね。
 読んでもらえて、深いうなずきを得られることが、理想。
 もっといい球だったら、話を他の人にもしてくれますね。
 そういう球を投げられたら、
 しかも、思うようにいつでも投げられるようになったら、
 ほんとうに一流の投手というわけです。
 目標に届いた、というくらいで満足してしまうのが、
 まぁ、ありふれた投手のやり方なんでしょうね。 

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
目標に奥行きを想像する。目標は通過点と考える。投げる。

Twitterログ2/7(火)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・毎年、いまの季節になるとキャンプにやってくる。
 昔は、ファンだからという理由で、
 グアムだサイパンだ宮崎だと見学ツアーしていたが、
 このところ、「スポーツ報知」と「ほぼ日」に載せる
 監督インタビューという仕事が理由になっている。
 むろん、贔屓だのファンだのという要素を、
 まったく拭い去って仕事をしているわけはないが、
 今年になってこれはひとつの「企業訪問」
 であると気づいてしまった。
 プロ野球チームも、優勝を目的とし
 観客の満足をビジネスの目標にするひとつの事業だ。
 とんでもなく大きな市場を開拓してきたし、
 それは同時に、巨大な雇用を創り出してきている。
 言ってみれば、毎年スタートしなおす会社の、
 初めの一歩のところで、監督という名のマネージャーに
 取材に行ってるようなものなのだ。
 
 去年、突然に監督に指名されて、
 プレイヤーから指揮者の仕事に変わった高橋由伸に、
 去年から今年への変化、戦力、心境、方針、
 などなどを率直に語ってもらう。
 不確定な部分、読みにくいところなどは、
 想像で補いながらことばをやりとりする。
 ある程度は、怪我やら不慮の事故なども、
 考えのなかにいれておく必要もあるし、
 流れにまかせてなにすることもない時期もあるだろう。
 話し終えてから、つくづく思ったのだった。
 野球を含めた「チームスポーツ」に、
 たくさんの働く人たちが夢中になる理由のひとつは、
 きっと、じぶんたちの日々の仕事に
 あまりにもよく似ているせいなのだ。
 
・つい最近も、ぼくはこの小文のなかで、
 「優勝がほしい。じぶんたちの優勝って、なんだろう?」
 というようなことを書いた。
 その答えは、いまでもまだ探せてない。
 むろん、ぼくらの仕事とチームスポーツが、
 同じであるわけはないのだけれど、
 「ビールかけ」できるほどの達成感を共にできる瞬間は、
 働く人たちみんながほしいものだと思うなぁ。
 
今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございました。
「優勝」という概念を発明した人って、すごいなぁ。

Twitterログ2/6(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

《・学校で、たった400文字、原稿用紙1枚分の作文を書くのにも苦しんでいた人は、おそらく日本の人口の80%以上になるのではないか。そういうぼくも、80%のひとりである。それどころか、その後、半世紀も過ぎて、曲がりなりにもことばを商売にしている現在になっても、まだ作文をするのは気が重い。こんなことで、よく生きてこられたとも思うけれど、気が重いなりに不器用に1文字ずつ書き足してきた。日本の人たちは、みんななにか書くことについては、苦手そうなので、だれもなにも書かなくなっていく‥‥かと思ったら、そういうことにもならなかった。

学校の教育の場面での作文だとか、PTAのなにかに文章を頼まれるとかは苦しくても、多くの人たちは、ことばを使ったり書いたりしている。それは、作文というかたちではなく、親しい人どうしの「おしゃべり」としてだったり、ツイッターフェイスブックに書き込む「テキスト」として表現されているのだ。そして、さらには「ことば」ばかりでなく、学校では習ってないはずの、写真や動画、イラストレーションというようなかたちで堂々とおおぜいの読者の前に表現されていく。「作文」は苦手で、苦しく悩ましいのだけれど、表現はスイスイといくらでもできるじゃん、なのである。

作文の授業がわるかったというわけではないのだけれど、その延長線上には、「むつかしさ」ばかりが残ってた。どんなふうにそれを習ったのかは忘れたけれど、作文は苦しいものだという思いが、どうしてこんなに残っているのだろうか。

人は、ほんとは、いくらでも言えるし、書けるのだ。それがどうしてなのか、ぼくにはうまく説明できない。でも、実際に、みんなが表現しているではないか。うまいか、へたか、馴れているか、不馴れか、そういうちがいもあるだろうし、表現の分量の多い人や少ない人もいるのはわかる。だけど、人は、歩けるのと同じように、表現できる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。踊りや歌で表現する人もいるし、無口な人の表現もあるし。》