SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ4/7(金)ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日メモ

・散歩から帰ってきた犬が、足を洗うバスルームまで、
 家人に抱っこされて行く姿が、とても好きだ。
 ぼくに、いろんな好きなものはあるけれど、
 犬が抱っこされて廊下を行く光景は、かなり上位に入る。

 仔犬のときから、犬は自由で生意気で、
 じぶんだけでなんでもできるようなつもりで、
 家中をわがもの顔で走り回っている。
 なにか欲しければ催促をするし、
 おしっこをすれば、ほれ早く片づけろと命令をする。
 王さまのようなふるまいで生きている。
 しかし、抱っこされている犬というのは、
 純朴で小さくてなにもできない赤ん坊のようである。
 「ふだんは威張ってるくせに、抱っこされてらぁ」
 という目で、ぼくは犬を見てしまう。
 ちょっとわるいかなとも思いつつ、
 好きなコをからかうような気持ちで、
 抱っこされて運ばれていく犬を見て微笑んでしまう。
 
 犬としてみれば、弱みを見せてしまって、
 「少々、残念である」というところかもしれないが、
 抱っこされている犬の、その弱さというものは、
 犬たちの強さの何十倍もの力になっているように思う。
 その弱さは、ぼくらの親しさをたしかめさせてくれる。
 ぼくら人間がいないと、生きていけないという事実を、
 素敵におもしろいかたちで思い出させてくれる。
 大丈夫だよ、ちゃんとぼくらが守るからと、
 ややオトナな気持ちになって、ぼくは犬を見る。

 そういえば、と、いっしょにしては申しわけないのだが、
 魅力のある人間たちというのは、
 こんなふうな、「抱っこされている犬」みたいな、
 愛嬌のある弱さを持っているような気がする。
 あの人、この人、ぼくにとってかっこいい人、
 尊敬している人、魅力的な人たちはいっぱいいるけれど、
 みんな、意外な弱さのようなものを合わせ持っている。
 意図してそう振る舞っているのではなさそうなのだが、
 どうしても顕れてしまう「純朴な弱さ」のようなものが、
 その人の強さ以上に、人を惹きつけるのだ。
 勉強とか、努力では身につかない賜物のように思える。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
完全な人になんかなれっこないし、魅力もないってことね。

Twitterログ4/6(木)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・こどものいるおかあさんは、じぶんの家のこどもが、
 どういうふうにアホか、であるとか、
 どんなマヌケなことを言ったかであるとか、
 どんなふうに言うことをきかないかだとかについて、
 けっこうたくさんしゃべってくれる。

 ときによれば、こどものほうも、
 じぶんのところの親が、どんなわるいクセがあるかとか、
 しょうもないことをやっているとか、
 だれにということもなく、チクったりしている。

 もちろん似たようなことは、夫婦の間でもあって、
 じぶんとちがって妻は、このような悪癖があるとか、
 夫がどれほどロクデモナイ人間であるかなどについて、
 親しい友人などに具体的に語っていたりすることも多い。
 
 学生や生徒という立場の人たちが、
 先生のしょうもない発言や行いについて、
 あれこれと論評しながら笑いあったりしていることも、
 逆に先生が、特別な生徒についてあのバカがなどと、
 他の先生に訴えたりしていることもあるだろう。

 いわば、すべて、悪口である。
 しかし、どれも、かなりの割合で、愛情表現でもある。
 悪口を言ってる当人は、それを言われている人のことを、
 よく観察したり、親しく関わったりしているのである。
 気にかけたり、じっと見たり、違和感を感じたり、と、
 相手との関係を「しょうがない」と言える程度の距離で、
 ずっと保っているのである。
 そんなに、嫌いな人のことをよく見ていたりはしない。
 わたしたちは、あんがい人を好きで、よく見ている。
 気にかけたり、眉をひそめたりしながら、
 その人のアホなところを娯楽にして暮らしている。
 
・ぼくは、「通夜のにぎやかな人」になりたいと思う。
 あいつはアホだったろくでもなかったと、
 言いあうために集まってもらえるような人が憧れだ。
 人生の目的は、「にぎやかな通夜」だと言ってもいい。
 そういう日が来たら、それはぼくのいちばんうれしい日。
 しかし、その日のためのネタがまだまだ足りてないのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
どれだけ生きたかは、周りの人たちのこころのなかにある。

Twitterログ4/5(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・どんな人でも、たいていは「せまい世界」にいる。
 ほんとうは、世界というのは無限に広くて、
 そんな広さはとうてい把握できるわけもないので、
 業界だとか、地元だとか親戚だとか、趣味の世界だとか、
 じぶんの生きる範囲をなんとなく決めて、
 そこを中心にして、「世界」だと決めているのだと思う。

 「せまい世界」には、そこなりの秩序だとか規則がある。
 そして、知らず知らずのうちに
 「偉さの階層」とか「上下関係」というものができる。
 人の集団ができていくときには、だいたい、
 そんなふうなパターンがあるものだから、
 それは、自然な流れというものなのだろうとも思う。
 だから、ここらへんまでは、文句を言うつもりもない。

 その先に、も少し「知性」を、と考えるのだ。
 まず、じぶんたちが「せまい世界」にいるということ。
 つまり、ほんとは、世界というものはもっと広くて、
 その広いところで生きるのはむつかしいから、
 当面の適当な居心地を優先して、
 「せまい世界」にいるんだと、知っていたいものだ。
 それこそ業界だとか、地元だとか、趣味の世界だとかは、
 小さな一部分にしかすぎない「せまい世界」なんだと、
 こころに留めておかなくてはいけないと思うのだ。

 そして、その「せまい世界」での親分だの子分だの、
 上だの下だの、たいしたものだのというのも、
 広い世界から見たらなんでもない屁みたいなものだ。
 そんなことも、いつも覚えておかなきゃいけないだろう。
 「井の中の蛙」がふんぞり返っていたり、
 「コップの中の嵐」を世界の大問題のつもりでいたら、
 「せまい世界」は、貧しく惨めになっていくだけだろう。

 ぼく自身も、いつだって「せまい世界」の住民だと思う。
 だけれど、「せまい世界」の居心地よさと同時に、
 その硬直しやすさと、息苦しさについて、
 いつでも感じていなきゃいけないなぁと思ってきた。
 「開こう」であるとか「風を入れよう」ということが、
 どれだけ大事なことか、忘れちゃならねぇと思っている。
 田舎芝居の座長は、小屋の換気が大きな仕事だよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「せまい世界」に馴れきればこころのせまさを得られるね。

Twitterログ4/4(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・ずいぶん昔、映画評論家の淀川長治さんが、
 『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』
 というエッセイ集を出した。
 まだ二十代半ばだったぼくは、そのタイトルについて、
 「そんなの無理だ、なに言ってるんだ」と思っていたが、
 それを読むこともなく、なんとなく題名だけ憶えていた。
 著者の淀川さんという人をメディアで見ていると、
 口調はやわらかいが、思ったことをはっきり言う人で、
 どちらかといえば、けっこうな毒舌おじさんに思えた。
 この人が「嫌いな人に逢ったことがない」と言うのは、
 きっと、じぶんにそういうことを教えているのだろう。
 嫌いな人ばかりだと思って生きることと、
 嫌いな人なんかいないと思って生きることと、
 どちらでも、自由にじぶんで選べるのだ。
 それは、だって、じぶんの思いなのだから。
 淀川長治さんは、そう考えたことがあるのではないか。
 ぼくは、勝手にそういうふうに想像した。

 それは、同時にじぶんの気持ちのありようでもあった。
 「嫌いな人に逢ったことがない」と言うためには、
 まずは、ほんとうに
 「嫌いな人に逢わない」ようにするという方法がある。
 ぼく自身は、できるだけそうしようと思った。
 運よく、それはあんがいできるものだった。
 嫌いな人に逢わなくてもいいように生きるというのは、
 事情や都合を考えると、なかなかむつかしいが、
 真剣にやったらできないこととも言えない。
 実際、ぼくは嫌いな人にあんまり逢わずに済んでいる。
 そして、もうひとつの方法は、
 なんとか「こちらから好きになってしまう」。
 これはこれで、真剣にやったらできるものだったりする。
 「相手よりも、ぼくのほうが、相手を好きだ」
 という場面を、知恵と工夫とまごころでつくること。
 人間というのは、あんがいいいところがあるものなのだ。
 好きになってもらおうとするのは、こちらではなく、
 相手が決めることだからどうにもならない。
 こちらにできるかもしれないのは、
 じぶんで決められる「相手を好きになる」ことなのだ。

 あんがい、ぼくも「嫌いな人に逢ったこと」、少ないぞ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「私を嫌いな人に逢ったことがない」ってのは、どう(笑)

Twitterログ4/3(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・なにかの用事をするわけでなく「ひとりでいる時間」を、
 みんなどんなふうに持っているのだろうか。
 たとえば、漠然とネットのなかをうろうろしていたり、
 テレビを点けっぱなしにしてながめていたりの、
 「ひまつぶし」をしている時間は、
 勘定に入れないとしての話だ。
 たぶん「ひまつぶし」とは「ひとりの時間つぶし」だ。

 家事をしている時間は「ひまつぶし」ではないけれど、
 洗濯なり掃除なりに真剣に取り組んでいる場合は、
 やっぱり「ひとりでいる時間」とはちがう。
 散歩をしながら、なにか考えたりしている状態は、
 これは「ひとりでいる時間」と言えるのではないか。
 その散歩に、動きの激しい犬がいたりする場合は、
 用事のある時間ということになってしまいそうだ。

 なにをしているということでなく、
 広い海に浮かんでいるように、「ひとりでいる時間」。
 人には、それが必要なのではないかと思う。
 人間の身体に食物から摂る栄養が必要であるように、
 人のこころにも、喜怒哀楽の感情を呼び起こすような、
 出来事やら物語やらが必要であろう。
 そして、それだけでなく、こころには、
 ただの「ひとりでいる(だけの)時間」が要るのだ。
 それは「ひま」と言い換えてもいいのかもしれない。

 眠っているわけでもなく、寝ころんで天井を見ている。
 窓の外に目をやって、なにかわからぬものを見ている。
 風呂につかって、ゆらゆらするなにかを眺めている。
 そんなときに感じている、じぶんのなかの「からっぽ」。
 忙しくて考えそこなっていたようなことを思い、
 過去のちょっとした考えをほじくりだし、
 なんのことかわからずに「どうしようかなぁ」と感じる。
 こういう「ひとりでいる時間」は、
 他の用事や、他のわかりやすい感情で埋めてはいけない。
 大事に、そこにいるじぶんと、ゆっくり話しあうのだ。
 そういう時間を、みなさま、ちゃんと持っていますか。
 ぼくは、持ってない方じゃないけど、減ってきてます。
 その「ひとりでいる時間」がたっぷりあるから、
 ひとり旅に出たくなったりするんだろうなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なにかと、すきまをぜんぶ埋めようとするのはいけないね。

Twitterログ4/2(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・さて、まずは名前をならべてみます。
 
 石坂浩二浅丘ルリ子加賀まりこ有馬稲子
 五月みどり野際陽子藤竜也
 ミッキー・カーチス八千草薫山本圭
 ‥‥なにかわかりましたか? 続けます。
 常盤貴子松岡茉優草刈民代
 風吹ジュン名高達男近藤正臣小松政夫‥‥。
 
 ずいぶんとビッグネームが続きます。
 この人たちが、ひとつところに集まることなど、
 あるのだろうか、と、だれもが思いますよね。
 では、もうひとりの名を加えます。

 倉本聰
 これでわかったと思います。

 作・倉本聰
 『やすらぎの郷』というドラマが始まります。
 夜のいい時間に重々しく120分とかではなくて、
 月曜から金曜、昼の12時30分からの帯ドラマとしてです。

 どんな物語になるのかは、もう発表されています。
 設定は無料の老人ホーム。
 テレビ界に功績のあった者だけが入れる施設です。
 主要な出演者たちのほとんどは、高齢です。
 しかも、物語の設定どおりにテレビ界に貢献した人たち。
 ついでのように言えば、かつて、
 石坂浩二さんと浅丘ルリ子さんはご夫婦でした、
 石坂さんと加賀まりこさんは、恋人同士でした。
 そういうところももう超越したキャスティングです。
 
 以上、ただの事実を記しただけですし、
 ほとんど番組宣伝そのままという内容なのですが、
 凄くないですか、この企画、この陣容、この実現。
 おまけとして中島みゆきの書き下ろし主題歌もあります。
 ぼくは、このキャストやスタッフを、
 テレビ界の冒険団としてくっきりと記憶しておきます。
 失敗とか成功とか視聴率とか、どうだっていい。
 この番組に集ったそれぞれが、お見事だと思っています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あと、石坂浩二さんには、たくさんご馳走になりました。

Twitterログ4/1(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・毎年、せっかくの四月一日なのに、
 成すすべもなく、ほんとのことばかり言っている。
 格別にまじめだから、ということではない。
 どうしてもうそをつけない事情があるからだ。
 
 知っている人は知っていると思うが、
 ぼくは、実にめんどくさい宿命のなかにいる。
 そのせいで、残念ながらうそをつくことができないのだ。
 若気の至りで、うそをつこうとしたこともあった。
 しかし、あの、うそを考えついた瞬間から聞こえてきた
 「みしっみしっ」と皮膚が裂けはじめるような音は、
 どうにも忘れることができない。
 結局、その気味の悪い音に怖れをなして、
 軽率にうそをつこうなど試みたことを反省し中止した。
 以来、ぼくは、うそをつくことはおろか、
 うそをつこうと試みることさえもしなくなった。
 弱虫毛虫と謗られてもいい、ぼくは命が惜しいのだ。
 
 言い伝えによれば、ぼくがもしうそをついたならば、
 ぼくの身体は、頭のてっぺんから、
 縦に真二つに裂けてしまうのだという。
 横じゃなく、縦であるらしい。
 想像するだに恐ろしいが、その恐怖を感じる脳までも
 真二つに裂けてしまうのだから、
 ある意味もう怖さも半分であるけれど、その二つ分だな。

 幸か不幸か、ぼくと血縁のある父親も母親も、
 縦に真二つにならずに他界した。
 もし、ぼくと同じように、
 「うそをつくと縦に真二つに裂ける」
 という体質であったのだとしたら、
 彼らは、生まれてから一切うそをつかずに
 この世を生き抜いたということになる。
 あるいは、ぼくとは別の体質であったということだろう。

 ぼくは、毎年、四月一日がくるのが恐ろしい。
 だれもかれもが礼儀としてうそをついたりしている日、
 平気でうそをついている人びとを羨んで、
 ついつい我もと、うそをついてしまうことはないか‥‥。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
明日からは、みんながうそをつかなくなるのでしょうけど。