SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ1/10(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・こどもに向けた物語の「ちょっと怖いところ」。
 ぼくは、そういうものに惹かれる傾向がある。
 童話と呼ばれるジャンルのなかにある
 「恐ろしさ」については、研究書などもあるけれど、
 こども用の歌のなかにある「ちょっと怖いところ」は、
 あんまり語られてなかったように思う。
 ちょっとひっかかるところがあっても、
 歌であるがゆえの「詩的な跳躍」として、
 「ま、いいんじゃないか」と見逃されやすいのだろうか。

 「かごめかごめ」も、「シャボン玉」も、
 「赤とんぼ」も「夕焼け小焼け」も、
 どれも、メロディのさみしさもあることながら、
 やっぱり歌詞で描いている世界が怖いのだ。
 「かごめかごめ」の「夜明けの晩」ってなんだ。
 こどもは起きてちゃいけない時間だろう。
 「シャボン玉」は、「こわれて消えた」と歌われる。
 「赤とんぼ」、十五で嫁に行った「ねぇや」って、
 さみしすぎるだろう、「便りも絶えはてた」らしいし。
 「夕焼け小焼け」だって、遊びが終わって帰る歌だ。
 あとはもう星の見える夜が歌われるんだよ。
 終わりやら、暗さや闇やらばかりが歌われていた。
 ランララランランラララン たのしく遊びましょ
 ‥‥みたいな歌は、ぜんぜんなかったよ。
 幼いときに聞いた歌の影響というのは、
 かなりこどものこころにしみついていると思う。

 そういうなかでも、西條八十の作詞した歌には、
 格別な雰囲気をまとった怖さがある。
 「唄を忘れた金糸雀カナリア)は
 後の山に 棄てましょか」とはじまるんだよ。
 「背戸(せど)の小薮に 埋(い)けましょか」
 「柳の鞭(むち)で ぶちましょか」と続くんだよ。
 「いえいえ それはなりませぬ」と否定したところで、
 その前の提案が怖すぎるだろう。
 結局、「象牙の船に 銀の櫂(かい)
 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を おもいだす」と
 終わるんだけれど、異国情緒と怖さの螺鈿細工みたいだ。
 このひとつの詩だけでも、すごいなぁと思うけれど、
 西條八十という人は、たくさんの歌をつくっている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
書きかけのままみたいになりましたが、また、いつかね。