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SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

Twitterログ 7/20(水)メモ大量、ほぼ日メモあり

 

  

ほぼ日、今日のダーリンより

・昨日、海のことについてちょっと書いた。
 いちばん最後のところに、しみじみ思って書いたのは、
 「海って、あのさみしさが怖いんだよなぁ」だった。

 しばらく経ってから、これは海だけでもないなと思った。
 いろんなものごとには、さみしさが隠れている。
 そして、そのさみしさというやつのことを、
 ぼくは嫌がっているのではなくて、おそらく、
 そこに浸ってじわぁっと快感を感じているのだ。
 
 なつかしいものや、あたたかいものについても、
 これは言えるような気がしてきた。
 ずっと昔に聴いた歌やら、人にやさしくされたこと、
 多くの人が好きだろうとは思うけれど、
 それは、どうも、なつかしさやあたたかさ
 そのものを求めているのではなくて、
 その奥に隠れている、
 いちばん根源的なさみしさを探しているのだ。
 
 ぼくらは、人の味覚がさまざま食べものの奥に、
 「甘み」を探しているように、
 あらゆる好きなもの、好きなことのなかに、
 「さみしさ」を発見しては、
 それに浸かってじわぁっとしている。
 これが、快感というものなのかもしれない。
 
 「さみしさ」が、いちばんの価値なのではないか。
 こう言うとずいぶん被虐的に聞こえるかもしれないが、
 うれしいだとか、よろこんでるだとか、たのしいだとか、
 みんな、そのことそのままの状態では続かないよ。
 かならず、「さみしさ」の影とともにあるものだ。

 この「さみしさ」というのが、
 すべての生きものの生きる動機であるような気さえする。
 脳細胞のさきっぽのシナプスが、
 もうひとつのシナプスに向かって「手」を伸ばす。
 そういう動画映像を見せてもらったことがあるのだが、
 あのたがいに伸びる手と手というのは、
 「さみしさ」がつなげているのではないだろうか。
 それを「あはれ」と言ってもいいんだけれど。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
夏は、たくさんの人が「花火」のさみしさに会いに行くね。