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SuperBall のように。

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

Twitterログ3/7(火)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

 

今日のダーリンより

・人はみんな変人だと、だれかが言ったっけ。
 そういうものかもしれないなぁ、と思う。
 自慢じゃないけど、ぼくは変人じゃない。
 平凡を重ねて生きてきたつもりだ。
 そりゃぁ若気の至りで、ヘンを気取ったこともあるさ。
 人とちがってナンボという世界も知らないわけじゃない。
 だけど、だんだんと、ふつうの強さを知るようになる。
 いっそふつうを極めてみたいものだ、と思うことになる。 
 ただ、ふつうのつもりでいても、
 どうしても滲み出てしまうナニカというものがあるのよ。

 ずいぶん昔のことだけれど、
 上岡龍太郎さん司会の謎解き番組に参加したことがある。
 こういう企画の番組をやろうよと、
 仕事でもないのに言い出したのは、ぼくだったから、
 その行きがかり上という感じで出演することになった。
 
 スタジオのなかで、物語ははじまる、
 事件が起こるのを、テレビモニターでぼくらは見ている。
 その後、スタジオに残ったさまざまな証拠や状況を、
 ぼくたちゲストが調査していって犯人を推理するのだ。
 参加したぼくは、その役割をとてもたのしんだ。
 だれが犯人で、犯行はどういう方法で行われたか?
 ぼくも、解答者のひとりとして得意気に語った。
 そして、たしか3つの事件の推理に、すべて惨敗した。
 ぼくは、「いい考えだと思ったんだけどなぁ」と、
 悔しがりながらもたのしく番組を終え、ゴキゲンだった。
 
 それから何ヶ月の後、家人でもあるヒグチカナコさんが、
 上岡さんの関西のテレビ番組に出演したとき、
 休憩時間に、質問されたのだそうだ。
 「おたくの、あのご主人、あれは天然なんですか?
 わざとのような気もするのですが、わからんのです」
 家人は、「わざとはできませんから、天然です」と、
 「イトイシゲサト専門家」として断言したらしい。
 ぼく自身はただの「まちがい」だと思っていた解答が、
 上岡さんには「とてもアホ」に思えたのかもしれない。
 あんまりアホなので、確かめたくなったらしい。
 ふつうを極めようとしても、漏れでてしまうアホ成分。
 そっか、それはもう、個性として愛でていくことにした。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
スタジオで現場検証する推理番組、またやらないかなぁ。

Twitterログ3/6(月)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

「ななつ星」の周遊の旅から帰ってきました。
 ずっと列車のなかにいるだけだから、
 歩数計も進まないと思っていたら大まちがいでした。
 食事だけでなく、なにかとイベントのある1号車と、
 じぶんの部屋のある7号車を何度も往復するだけで、
 けっこうな距離を歩くことになるのです。
 そして、昨日は湯布院の散策があったものだから、
 トータルで、13,259歩になっていました。
 これは、東京で積極的に歩いた日よりも、ずっと多い。

 いま、東京の家に戻ってきて、
 あらためて『ななつ星』のクルーのことを考えてます。
 いまごろですが、つまりこのクルーの方たちって、
 「ほぼ日」で言う「乗組員」でしたよね。
 たった二日間、いっしょに過ごしただけですから、
 その人たちのことを、たくさん知っているわけじゃない。
 だけど、どんな顔をして働いているのか、
 いや、どんな気持ちで仕事をしているのかさえ、
 ぼくは見せてもらったような気がしています。
 「ホスピタリティ」とか「おもてなし」とか、
 正解っぽいことばで言うことも言えますが、
 そういうものともちがうように思えたのです。
 なんだか、いい意味で「アマチュアっぽい」のです。
 もともと、『ななつ星』のクルーは、
 各界からのプロ中のプロが集まったのだそうです。
 そして、そのプロたちが、ここでは、
 プロじゃないみたいになっていくらしいのです。
 ぼくらの旅の終わりのとき、クルーの代表からの挨拶、
 ほんとうに見事なまでに上手じゃなかったな。
 その場で語るべきじぶんのことばを、 
 探しながらしゃべっているから、そうなるのです。
 どちらかと言えば、ぼくもそうだから、よくわかります。
 そして、短い時間をいっしょに過ごしたクルーは、
 お客さまたちとの別れのときに、ちょっと、
 泣いてしまったりしているんですよね。
 これも、とてもよくわかる気がします。
 そして、ぼくは、それを見ていて思ったんです。
 「こんなふうに生きている人は、おまけのようにだけど、
 ぐるっとまわって、じぶんを幸せにしてしまうな」と。
 「情けは人の為ならず」、これ、ぼくは信じています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こころから人の幸せを願える人は、幸せになっちゃうぞ~。

Twitterログ3/5(土)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

 

今日のダーリンより

「ななつ星」は、不思議な列車だ。
 博多の駅を出発して、一泊二日、あるいは三泊四日で
 博多の駅に帰ってくる。
 それほど広くはない九州を、ゆっくり走ったり、
 ときには長い時間停車したりしながら、
 「旅という時間」を過ごす。
 この列車に乗り合わせた人たちは、みな、
 同じ場所を出て、同じ場所に戻ってくる。
 あわて者ならば、それを、
 「なにもしなかったのと同じ」と言うかもしれない。
 帰ってくるために、ぐるっと廻っている。

 揺られながら、外の景色を見ながら、
 身に余るほど贅沢な料理をたのしみながら、
 音楽を聴いたり、集った人びととおしゃべりをしながら、
 そういえば、と、ふと思い出すのだった。
 いつだって、ぼくらは帰るための旅をしていたんだ、と。
 じぶんたちのホームから出発して、ホームに帰ってくる。
 出て帰る、その間にどんなことがあったのか、
 それを続けていたんじゃないか
 目的地も、目的も、それほど大事なものじゃない。
 出て帰る、その間にある時間がどんなだったのか、
 それが、ほんとうに大事なことなのかもしれない。

 さらに、揺られながら流れていく景色の中で、
 ぼくは考えることになる。
 「私たちは何処から来て何処へ行くのか?」と、
 昔から人は問いたがるけれど、ほんとうは、
 そんなことはどうでもいいのかもしれないな、と。
 ひとり生まれて、ひとり逝くのはみな同じ。
 短くも長いその間が、その人の一生というものだ。
 願わくは、その、「その間」というものが、
  生き生きとうれしいものでありますように。
 線路の上にいて、ぼくはちょっと願ったりもする。

 ずいぶんはっきりした夢を見ているようだ。
 ぼくは「ななつ星」に夢を見にきたのだろうか。
 だとしたら、なかなか悪くない夢だぞ。
 上手にベッドメイクしてもらったベッドに横になり、
 ぼくは機嫌よくうとうとしながら、夜を走っている。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ほんとに半分眠りながら、ぼくはこれを書いています。

Twitterログ3/4(土)ほぼ日メモ

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今日のダーリンより

・かつて、ぼくは、ピラミッド型組織を横に倒して、
 船のように見立てるのがいいと考えた。
 てっぺんにえらい人がいるというより、
 責任を持って船の進路を決める人が、前にいる。
 食事係でじゃがいもの皮をむいている人も、
 動力をコントロールしている人も、
 次の港での交易を計画している人も、
 それぞれ、互いにいのちを預けあった乗組員だ。
 この考え方、なにかといろいろおもしろくしてくれる。

 博多にきて、もう一度「ララ・ランド」を観たくなって、
 映画館で考えていたのが、また横に倒すことだった。
 なにを横に倒してみるのか?
 「トーナメント表」である。
 頂点の1人を、横にしてみたら出発点に思えるだろう。
 つまり、ひとりの人間がいま生まれた状態。
 この段階では、まずすべての人が参加している。

 少し生きると、選択肢2つのどちらかになる。
 もう少し生きていくと、選択肢4つの1つになる。
 少し生きることが進行するごとに、8、16、32、と、
 どんどん生きてきた道筋と、いる場所は変化する。
 まったく別の道を歩いてきた人と出合ったり、
 近い人と、ちょっとしたことで離れることになったり、
 横に倒したトーナメント表は、
 無数の運命を、無数の未来を、無数の交流を生み出し、
 複雑のうねうねと生きもののように成長する。

 目の前には、意味のわかりにくい選択肢が、
 次々に現れて、人は次々ににどちらかを選び続ける。
 「そっちを選ぶと、いままで避けてきた方向に
 導かれてしまうぞ」なんてこともあるだろうし、
 沈む方へ沈む方へと向かっていた人が、
 なにかの選択の場面で浮かぶようになることもある。

 たったひとりの勝者を決めるはずのトーナメント表が、
 ずいぶんと豊かな「人生表」に見えてくるものだ。
 これはおもしろいや!
 映画の主人公たちの、その都度の選択のドラマが、
 ぼくに、ちょっと別の考え方を与えてくれた。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
さて、「ななつ星」の乗客になって、明日に向かいます。

Twitterログ3/3(金)

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Twitterログ3/2(木)ほぼ日メモ

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今日のダーリンより

・なにか解決したい問題があるとき、
 その問題の中心に中心にと向かうのは、
 まちがった方法ではないのだろうと思う。
 おそらく、ぼくもそうしていることが多い。
 ただ、それは、問題に答えが出たときに、
 みんなが「よかったね」と言いあえるような場合だけだ。
 家の改築だとか、なにかの借金だとか旅行の計画だとか。
 そういうケースでは、中心の中心で、
 「いちばんいい方法は、これだ」ということが
 見つかれば、もうそれでいい。

 そうじゃなくて、複雑にからみあった問題だとか、
 人間関係そのものになにか問題があるときには、
 いちばん中心のところに解決を求めても、
 こじれていくばかりということがある。

 それが「正解」なのかもしれないけれど、
 人と人とが反発しあうようになったり、
 慰めようのないくらい悲しい目にあう人が出てきたり、
 だれもが、それぞれに孤立していったり、
 というようなことがあるものだ。
 話せばわかるというけれど、
 話してもわかっても幸せに近づかないこともある。
 
 どうなればいいのか、の、いちばん納得のいく答えは、
 みんなが幸せになればいいということのはずで、
 逆にみんなが不幸になるような「正解」は、
 選ばないほうがいいのだと思える。

 ぼくが思うのは、正解かどうかはともかく、
 できるだけ多くの人を不幸にしないことだとか、
 できるだけ多くの人を幸せにすることだとか、
 そして忘れちゃいけない、
 「わたし」を不幸にしないということだとかを、
 よくよく考えて、そっちの方に歩みだすことだ。
 
 妥協とか、いい加減とか言われるかもしれないし、
 そんなことでいいのか、とじぶんでも思うかもしれない。
 それでも、「わたしを不幸にしない」を忘れちゃだめだ。
 いちばん近くの、生きるべきいのちは、そこにある。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いちごのジャムを、ひさしぶりにじぶんでつくっています。

Twitterログ3/1(水)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

今日のダーリンより

・もう2年くらいずっと、毎日ヨーグルトを食べている。
 シンプルなヨーグルトメーカーで、眠ってる間につくる。
 食べ終えつつあるヨーグルト50グラムを、
 プロテインシェーカーに入れて、牛乳1パック500cc注ぐ。
 よくかきまぜてタイマー仕掛け、寝て起きたらできてる。
 甘みはオリゴ糖でつけたり、ハチミツにしてみたり、
 シナモンをパラパラっとやったりカルダモンを振ったり、
 しょうがシロップで食べたり、あんずジャムで食べたり、
 毎日のことだから、いろいろ手を替え品を替え、
 飽きないように工夫しながら続けてきた。
 しかし、このところ、こういうルーティンのなかに、
 とんでもないスターが登場してきたのである。

 いちごだよ。

 甘みのほうはハチミツなどにまかせることにする。
 新鮮ないちごを大きいままポンッと入れたり、
 四つ割にしたり、八つ割にしたり、細かく刻み入れたり、
 まっ白なヨーグルトの上に踊らせるわけ。
 あまおう、とちおとめ、やよいひめ、スカイベリー、
 どれだっていいよ、みんないいこ。
 これまでのヨーグルトライフも悪くはなかったが、
 いちごが入っただけで、わぁっと華やぐのよ。
 おれは、どっちかといえば少女成分を持ってる男だ。
 かわいいものが好きだ、文句はあるか、だ。
 しっかし、かわいくて、おいしいのだから大変だよ。

 前にも、言ったはずだ。
 ショートケーキの上に乗っかっているいちご

 あのいちごのようなアイディアが、あるかないか、だ。
 ショートケーキにいちごが乗ってなくてもおいしいのだ。
 だけど、いちごが、そこにあるだけで、
 生クリームをまとったケーキは、舞台になる。
 いちごという主演女優が艶然と微笑むためのね。
 それが、ヨーグルトでも同じことだったんだよね。
 あらゆる場面で、こういうものが必要なんだよ。

 つまり、いちごだよ。

 あなたの、いまやってる仕事にもいちごを乗せないか?

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
昨日書いた「こころ」のこと、2008年にも書いていたね