SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

メモ6/22(木)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・ほとんどのビジネスは、
 工業的な文脈で語られる。
 目標があり、計画があり、配置や仕入れがあり、
 改良があり、品質管理があり、営業のための研究がある。
 しかし、そんなふうに管理できないことだってある。

 また、しばしば、ビジネスは、
 農業的な文脈でも語られる。
 暦に合わせた日程があり、小さな仕入れがあり、
 作業工程があり、収穫があり、
 少しだけ売り先のことを考える。
 しかし、これもお天気ひとつでがらっと変わる。

 たまに、ビジネスは、
 狩猟的な文脈で語られる。
 探せ、探しに行け、見つけたら捕らえろ。
 当たればでかいぞ。
 当たればでかいし、当たらないこともよくある。

 どれも、予定通りにうまく行くとはかぎらない。
 確率的に考えれば、工業的な文脈で考えるのが、
 いちばん確実なのかもしれない。
 そして、農業的なやり方が次で、
 狩猟的な方法をとるのは、確率がよくなさそうだ。
 ただ、たくさんの例をよくよく考えてみたら、
 ちがう結論が出そうな気がするんだよねぇ。 
 うまくいったビジネス(ビジネスばかりじゃないが)は、
 成功したあとに、説明しやすい方法で説明されるから、
 どうしても、工業社会的な因果関係で語られやすい。
 当事者さえも、結果には原因があったということを
 何度も説明しているうちに、その気になってきてしまう。
 「運がよくて、獲物が見つかっただけ」などと、
 冗談のようには語ることはあったとしても、
 「その運を逃がさないような姿勢を貫いていた」とか、
 ついつい説明に加えてしまったりもする。
 ほんとは、説明の外側に、なにかがあったんだと思う。
 よく釣れるルアーの評判があると、
 人びとはそのルアーを使う。
 たくさん使われたルアーで釣った魚は多くなる。
 そんなことも、よくあることだしね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人が釣った魚を待ちぶせして奪うという方法もあるしねー。

ログ5/21(日)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・今日は東京にいるのですが、休日モードで動きます。
 資料をひろげてぽちぽちと原稿を書く仕事がありますが、
 にやりと笑って、後回しにすると思います。
 
 なにかを思いついて、それに合わせて行動するって、
 ちょっと油断するとできなくなっちゃいますからね。
 だって、もう昨日なんかもなにがあるわけでもないのに、
 急ぎ足で歩いたりしていましたからね。
 この5月の間は、できるかぎり気ままにやるつもりです。

・旅をするときに、とても荷物の少ない人がいます。
 極端な人だと、ショッピングバッグみたいなものを、
 ぶらっと下げて、飛行機で外国に行ったりしてます。
 まねをしたいとも思うのですが、どうしてもできない。

 つまり、ぼくはその逆の荷物の多い人なんですね。
 じぶんにとって快適な環境を、
 どこに行っていてもキープしようとしてるからなのか、
 あれもこれもいちおう持っていこうと思うと、
 荷物はどんどん大きく重くなっていきます。
 それでも、いまの時代って、
 本とCDを持っていかなくてもよくなってますから、
 ずいぶん軽くなったんですけどね。
 スーツが必要かもしれない旅は、特にきびしいです。
 それに合わせて、靴も1足持っていくことになるから、
 スーツ分と靴分の容量は確実に要る。
 あとは、着替えの服かなぁ。
 あんがい、実際には、現地で同じ服を着てるくせに、
 日程に合わせて毎日ちがう服を着ようとかしてしまう。
 一度も着ないまま持って帰る服が、いつもあります。
 あと、どうしても傘を持っていきたがるなぁ。
 いまは、いい折畳みの傘があるから
 たいした重さじゃないんだけど、無いよりは重いよね。

 ほんとは、なにも持っていかなくても平気、
 ということは知ってるはずなのです。
 だって、日帰りで帰ってこられる予定のときには、
 手ぶらに近くても大丈夫だもの、
 そのまま翌日を過ごせばいいわけでしょう?
 次に出かけるときは、実行してみようかなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
んで、どこに行ったとかは、ツイッターでごらんください。

ログ5/18(木)

ログ5/11(木)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・酒をのむ人はいいな、と思う。
 「酒をのむ」というだけで、それが目的になるのだ。
 そこにおいしい料理があったら、さらによかったりする。
 たのしいおしゃべりがあったら、これもいいだろう。
 好みの映画があったら、それもいいのだろう。
 そして、なにもなくても、「酒をのむ」がある。
 そんなにうらやましいことがあるだろうか。

 「のもうか」と言ったやつ、「のもう」と言われたやつ。
 どちらも、うれしそうだ。
 「ずいぶんのんだなぁ」と、反省するように言う人、
 「ずいぶんのんだなぁ」と、よろこんでいる人、
 どちらも、やっぱりたのしかったようなのだ。
 
 「のもうか」と、水をのもうと誘わない。
 「のもうか」と、コーヒーをのむのもあるけれど、
 それは「いっしょにすごそうか」ということだ。
 「酒をのもうか」とは、ぜんぜんちがうんだと思う。
 
 ひとりで「のむ」というのも、あるんだろう。
 酒のかわりに、それを実験してみたよ。
 ひとりで水をのんで、じわりとしてみた。
 水に罪はないけれど、こんなになんでもない時間はない。
 
 人が酒を語るのは、なんだかおもしろい。
 実は、ぼくはカラオケで吉幾三「酒よ」を歌う。
 中畑清さんが歌うのを聴いて、いいなぁと思いおぼえた。
 酒がなにかものを言うはずはないのだけれど、
 さかんに酒に語りかけるという歌だ。
 つまりは、「ひとり」ということを語ってる歌だ。

 酒をのむ人に幸いあれと、ぼくは思う。
 なんかいい時間を、たくさん持っていていいな。
 とか言いながら、ぼくは酒をのみたいと思ってない。
 なんだか冷たいなぁ、おれ。
 ずっと「しらふ」でいる人生は、不自由である。
 それは、そのとおりだし、ぼくもよく思うことだ。
 でも、ここまで「しらふ」でやってくると、
 「しらふ」の時間にこそ酔いを混ぜたりするようになる。
 のんでないのに、酔っている「しらふ」もあるのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こうして、たまに酒のこととか言いたくなるのは、なぜ?

ログ5/6(土)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・繊細であるとか、感受性が強いとかは、
 わりと価値の高いことのにように言われる。
 逆に、神経が太いとか鈍いとかはややばかにされます。
 
 感じやすくていいことも、あるとは思いますが、
 それは、そんなにいいこととも限らない。
 火災報知器なんかのセンサーの感度が
 ちょっと高めに設定されていると、
 ちょっと魚が焦げたくらいでブザーが鳴ってしまいます。
 
 ほんの少しの化学調味料を感じられる人の、
 「舌がぴりぴりして、吐きそうになる」
 というような声を聞いていると、気の毒だなぁと思うし。
 傷つきやすいとか、肌が弱いとか、胃が悪いとか、
 本人たちもつらいということだろうなとも思います。
 
 まぁ、そんなことを言っているぼく自身も、
 感じやすいところと、鈍感なところの両方があって、
 鈍でどんどん押してこられると逃げ出したくなるし、
 感じやすさゆえの痛みについて訴えられても、
 戸惑うしかないし、敬遠したくなったりもします。

 ただ、ぼくは、鈍なほうに鈍なほうに歩んでいこうと、
 練習を続けてきたように思います。
 どう言えばいいんだろう、つまり、
 センサー感度高いのも、わるいわけじゃないけど、
 「感じることそのものよりも、
 なにかすることが目的なんだからさ」と思ったのです。
 感じたことを物語にして表現するにしても、
 「表現する」ということを「する」わけですよね。
 そこには、感じたことを切ったり削いだりするという、
 ある種の暴力的な決断が要ると思うんですね。
 どこまでも繊細に感じ続けていても、
 それをいったん止めて「なにかする」のでなくては、
 ただの線の切れたセンサーになってしまいます。
 どうしても、そこでは鈍にならざるを得ないでしょう。

 そうは言っても、鈍を磨きぬいたのか、「感じる」ことを
 すっかり忘れちまったような人にはなりたくないわけで。
 そういう往復運動そのものが、わたくしなのですね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いつになったら、ぼくは『今日のダーリン』を休むのか?!

Twitterログ5/1(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・何人もの友人たちが、
 ポール・マッカートニーのコンサートに行って、
 よかったよかったという感想を述べている。
 きっと、よかったんだろうなぁ。
 想像してた以上によかった、という声が多い。
 音楽としても、ショーとしても、なつかしさも、
 ぜんぶとてもよかったのだと思う。
 
 どうして、ぼくはそのコンサートのことを知ったときに、
 「行かなくていいかな」と言ったのだろうか。
 なんとなく、行かなくてもいいやと思った理由が、
 うまく説明できないままでいる。
 好きすぎるからがっかりしたくない、というのではない。
 もともと、そういう熱を帯びた好きさとは縁がない。
 あえていえば、ビートルズはもう酸素のようなものだ。
 嫌いなはずもないし、飽きているというものでもない。
 ジョン・レノンのほうが好きだったから、でもない。
 ポールがどれくらいビートルズだったか、よく知ってる。
 わからないのだ、どうして行かないと言ったのか。
 億劫で、コンサートだとかイベントに行きたくない、
 というわけでもない、勇んで行くイベントも現実にある。
 
 ただ、どうして「行かなくていい」と決めたのだろう、
 と、あらためて考えているというのもへんな話だ。
 無理やりに、その理由を考えてみた。
 もしかしたら、と思える答えは、たったひとつだ。
 「いまのぼくに関係ないから」なのではないだろうか。
 もちろんビートルズの、あるいは
 ポール・マッカートニーの音楽は無くなったら困る。
 しかし、ぼくのいまの毎日のなかに、
 このステージは、縁のないものに感じられたのだ。
 もちろん、勝手にそう感じたというだけなんだけどね。

 どう言ったらいいんだろう、いまのぼくは、
 なんか些細なことでもいいから、
 じぶんの明日を変えてくれそうなものか、
 とても疲れを癒してくれるものかの、
 どちらかを求めているように思うのだ。
 ポールが、そのどちらでもないように思えたのかなぁ。
 ほんとの気持ちは、じぶんでもよくわからないままだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
これを書き終えたら、『モモ』を読み直してみる予定です。

 

(これか?)

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Twitterログ4/29(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・金曜日の夜に、ミーティングを終えて帰るとき、
 「しばらくお会いできませんね」と言われた。
 冗談めかして「さみしい?」と言ったら、
 「そういうの、はじめてだから、みんなが」と返事。
 そっか、たまには来る予定もあるんだけどね、会社に。

 5月はひと月、ぼくは休みをとることにしていた。
 ずいぶん前から決めていたことで、
 ぼくが、会社にあたりまえにいるという環境を、
 変えようということがひとつ。
 そして、ぼく自身、ひとりであれこれに対面する時間を、
 ずっと持ってなかったので、それをしようということ。
 19年近く、ずっと「ほぼ日」に
 閉じこもっていたような気がするので、
 ぶらぶらと外に出かけてみようというわけだ。
 
 すでに、半月分の予定は決まってしまった。
 ゴールデンウィークは、いつものように京都にいるし、
 そこではひとりじゃなくて、家族がいっしょである。
 東京に戻ってから、会社にくる日も、すでに決まってる。
 「そのミーティング、おれも入れてくれ」と、
 じぶんから頼んで参加させてもらうことにしたからだ。
 会社の来し方行く末について、合宿で話しあう日もある。
 親しい料理屋さんに、ひとりで行く予定も決まっている。
 それでも、そうとうにぶらぶらである。
 想像すると、すでにちょっとさみしいというか、
 しんみりしてしまうようなここ数日であった。
 
 そのしんみりを身につけ直すために、休むのである。
 浜辺のにぎわいのなかで笑いあっている時間よりも、
 水平線の向こうにいくつもりで浮かんでいよう。
 そんな孤独を、ぜいたくに味わう予定の5月なのである。
 しっかりと退屈したり、さみしく腹を減らしたり、
 大尽のように温泉につかったり、うたた寝をしたり、
 とぼとぼと迷い道を歩いたり、疲れたら帰宅したり。
 そんなふうな、わがまま放題の旅の日を過ごすのだ。
 ひょいと、あなたの道ですれちがうかもしれない。
 締切りのある仕事を、どこかの駅でしてるかもしれない。
 この『今日のダーリン』についても、どうしようかな。
 書くときは書くし、書かないときには書かないのかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんか、いろんなことが変化してても、気にしないでね