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SuperBall のように。

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

Twitterログ1/18(水)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

今日のダーリンより

・ちょっとちょっと、吉田くん(読んでるあなたのこと)、
 いま、ひまある?
 ソースのことなんだけどさ、
 情報ソースとか、そういうのじゃないよ、かけるソース。
 しょうゆに対してのソース、コロッケにかけたりする。
 あれって、外国の人たち、どれくらい知ってるのかな。
 ぼくは、日本以外で見たことないんだよね。
 ホワイトソースとか、べちゃめるソースだとかいう、
 料理としてのソースじゃなくて、いわゆるソース、
 どういうものなんだろうねと、話したかったんだよ。

 ウスターソースって、このごろは言うようになったよね。
 でも、ある時期までは、ソースってのは、あの黒茶色の、
 なにかの野菜やら果物を煮詰めて香辛料で香りをつけた
 びん入りの液体のことだったよね。
 「しょうゆにする?ソースにする?」とか言うから、
 しょうゆが和のものなら、ソースは洋のものって、
 なんとなく思わされちゃうけどさ、考えてみたら、
 どっちも日本だけの調味料なんじゃないか?
 ソースは、どこかの外国のものじゃないよ。
 いやいや、あの「リーペリン」は知らないわけじゃない。
 でも、あれは、「ソースの先祖」かもしれないけれど、
 「ほんとのソース」じゃないよね。
 あれで、ソース焼きそばつくったり、
 たこ焼きに塗ったりできないでしょう。
 そんなことしたら怒られるでしょ、たこやきファンに。
 それは、とんかつだとかコロッケ類でも同じことだよ。
 さんざん、ソースで食べてきた人たちが、
 「たまにはこういうのも(かえって)うまいよね」と、
 変化球として嗜むような「趣味のもの」だ。

 ソース! 日本で育ち、事実上の日本の調味料。
 「和食」という領域からは閉め出されてしまうけれど、
 「日本の料理」というまとめ方をしたら、欠かせないよ。
 いや、その、演説がしたいわけじゃないんだ、吉田くん。
 ソースのことをさ、まず日本人が認知してやろうよ、と。
 「うちのこです」と、ちゃんとソースを紹介してさ、
 オリンピックに備えませんか、という話だよ。
 それは「洋食」という名の「日本食」の話にもなるよね。
 あ、もう仕事にもどるわ、聞いてくれてありがとね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
考えてみるとソース顔ってのも、日本人の顔だったよねー。

Twitterログ1/17)(火)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

今日のダーリンより

・神戸で生まれ育った友人が、毎年、この日に、
 なにをするという目的があるわけでなく、
 神戸に行くということを知って、5年くらいになる。
 もっとも、その友人と知りあったのが5年前くらいだ。
 知っているひとりの人間が、年に一度、
 欠かさず神戸に行っているということだけで、
 ぼくにとっての「阪神淡路大震災」は、
 ずいぶんと近いものになったような気がする。 
 思えば、あの年のあの日を、ぼくは、
 「そこから遠い人」として感じていたということを思う。
 友人が毎年そこに行く、ということを知るだけで、
 ちょっとこころが助かるんだよなぁ。
 なんだか、すみません、ありがとう。

・年が明けて少し経って、寒さが厳しくなると、
 受験生たちのことが話題に上る。
 その親の立場の人たちは、気が気でないようなようすだ。
 ぼくも、たいへんだね、と思うのだけれど、
 かなり距離の遠い「たいへんだね」である。
 ぼくは受験勉強をまじめにやった学生ではなかったが、
 受かるだの落ちるだので、泣きそうになった経験もある。
 しかし、同じような局面にいる若い人たちに向かって、
 平気の笑顔で「がんばれよ」とか言ったりしてる。
 時間が遠ざかると、思いも遠くなる。
 ごめんね、そういうものらしいよ。

・「早い話が、おれが芋を食ったら、おまえが屁をするか」
 というようなことを、「フーテンの寅さん」が言った。
 このセリフを、まだこどもだった時代に耳にして、
 つくづく感心してしまった。
 しかし、それでも、こころのどこかのところで、
 「おれが芋を食って、おまえに屁をさせよう」だとか、
 「おまえが芋を食ったから、おれが屁をしたじゃないか」
 なんてことを考えそうになってしまう。
 
 じぶんと他人とは、しょっちゅう混乱しているのだ。
 たぶん、同じ歌を歌ってよろこぶことだとか、
 なかまといっしょになにかするたのしみだとかも、
 じぶんを、じぶんとして切り離せない現象のひとつだ。
 遠くでも近くでもなく、ぼくはここにいるだけなのに。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こんなの書くだけなのに、ずいぶん時間がかかること~~。

Twitter貼り付け曲まとめ22

音楽

Twitterログ1/16(月)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

今日のダーリンより

日経新聞電子版の有料会員が、50万人を超えた。
 そのニュースに、激しく反応した人間が、いた。
 ぼくです。
 数年前に、「日経電子版」が創刊されたころに、
 この新しいメディアの担当の人に会ったことがあって、
 じぶんのことを棚に上げて、慰めたおぼえがあった。
 「たいへんな仕事ですねー」と言うだけだったけどね。
 どこの新聞社も、宅配されたり売店で売られる紙の新聞が
 困難なビジネスになることを予感しているものの、
 インターネットで読まれる「電子版」を、
 どんなふうに成り立たせるのか、考えあぐねていた時だ。
 それぞれの新聞社のネットの記事を読みながら、
 「ここからは有料会員のみ」という文言に、
 事情をわかっているくせに腹を立てたりもして、
 ぼくは、ネットの記事に金を払わないようにしていた。
 そのわりには、個人のメールマガジンだとか、
 知りあいが奮闘している「note」だとかには、
 わりかし雑にお金を払っていた。

 じぶんのことを、あんまりケチだと思っていないぼくが、
 有料の電子版を敬遠していたのは、なぜなのだろう。
 そこらへんのことは、あとで考えることにして、
 日経電子版の有料会員50万人超えのニュースを知って、
 「おれも入って、あらためて読んでみよう」と思った。
 料金は、月額で4200円、それなりのお値段だ。
 宅配の日経新聞は、月額4509円だから、
 電子版は、それより309円安いだけだ。
 そして、驚いたのは「電子版」に1309円を足すと、
 宅配の紙の新聞がついてくるというではないか。
 逆に言うと、宅配を申し込んで1000円足すと
 「電子版」がついてくるということでもあるんだけどね。 
 紙の新聞が宅配されるということは、
 日々古新聞という燃えるゴミが増えていくということで、
 家庭内でのぼくの評判が下る可能性がある。
 「新聞、読んでるの?」と問い詰められると、
 言い返せないくらい‥‥読んでなかったし。
 (ここから、半月ほど時計の針を進めまして)
 いま、おもしろいのは、電子版と紙の新聞を比べること。
 やってみるまでわからなかったのだけれど、
 紙の新聞のほうが、読むところが多くなるんだよね。
 飽きるまでかもしれないけど、紙の新聞、死んでない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「売れてます」で買う客がじぶんだったというお話でした。

Twitterログ1/15(日)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

今日のダーリンより

・「ボトルネック」ということばを、
 いまはわりとたくさんの人がふつうに使っている。
 ぼくは、このことばが、「びんの首のところ」、つまり、
 「細くなってて中身が出るのにつかえてしまう」部分、
 というような意味で使えると知ったときには、
 うまいこと言うものだなぁと思った。

 びんの絵をイメージして、
 さらにびんの首のところを想像して、
 そいつを逆さにして、中の液体が出るようすを思う。
 この頭のなかで再生される「動画」が見えたら、
 「ボトルネック」という考え方が、とてもよくわかる。
 しかし、この頭のなかの「動画」なしに、
 ボトルネック=隘路、障害、進行の妨げになる部分
 などと、ことばにことばを対応させるだけで考えていたら
 実際に「ボトルネック」的な状況があったときの
 使い勝手が、かなり落ちるのではないかと思うのだ。
 「ボトルネック」というびんの首のイメージが、
 せっかく「ものごと」の見事な比喩として
 提示されているのに、それを利用しないという手はない。
 論理としては、「障害があるなら取り除く」というような
 とても正しそうな方法をとってしまいがちなのだけれど、
 「ボトルネック」ということばのイメージには、
 余計な景色もあるわけで、それは例えばガラスだとか、
 びんの置いてある場所だとか、中味の液体の性質だとか、
 そんな「ついでみたいな、連関しがちな情報」だ。
 しかし、その「ついでみたいな」情報を、
 視野の周辺に置いて考えることは、実に大事なのだ。
 これって、もしかしたら
 「大局観」と言われるものと同じなのかもしれない。
 
 ものごとに困ったときに、
 「明けぬ夜はない」という比喩は、
 論理的な解決方法を指し示してくれるわけではない。
 しかし、問題解決への意志をキープさせてくれるし、
 同時に「時間」の要素が要るいうことを示唆してくれる。
 困っている問題を直接解決しようとするよりも、
 天体が演出する昼と夜の比喩は、有効だったりするのだ。
 「イメージ・比喩・大局観」、ここらへんのことは、
 なんだかとても興味深い。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
世界はただあるわけじゃない。人のこころが世界を見てる。

Twitterログ1/13(金)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

今日のダーリンより

・先が見えない、という話をよく聞きます。
 ぼく自身も「見えちゃいない」と自負しております。
 まことしやかに、なにか見えているような、
 知っているようなことを言う人もいますが、
 たいていそれは、予想屋のような商いをしている人です。

 「他人より余計に先のことが見えていれば、
 とてもいいことがあるんだろう」と、人は思い過ぎです。
 「山の向こう」くらいの距離感でも、前に進めます。
 人混みを避けて、というくらいでも歩いて行けます。
 じぶんがなにをするのか、わかっていれば、
 先に鬼が出ようがサルが出ようが、あんまり関係ない。
 いまのぼくは、そう思っています。
 興味があって、知りたい気持ちが抑えられないのなら、
 未来のことでも最先端のことでも、外国の情勢でも、
 「好きで知りたいだけ」だと思って知ればいいです。
 それを、なにか切実に重要なことだというような顔は、
 しないようにしたいものです。
 
 人の話題にしたがる「ちょっと先」って、
 だいたいは、「アメリカでなにが流行っているか」と
 ほとんど同意語だったりします。
 そういうふうなことで大成功をする人もいるでしょうよ。
 そりゃぁ、宝くじで何億円が当たる人もいるんだから。
 
 ぼくのこの年末年始は、いつもの仕事から離れていたり、
 やや長めに京都にいてぶらぶらしていたり、
 軽い風邪を理由によく眠ったりしたものだから、
 いつも気づかないようなことが、妙に気になって、
 考え途中だったことが、線的につながりはじめました。
 そうか、ぼくは、こういうことがしたいのか。
 いつもとちがう角度で、やりたいことが見えました。
 いずれ、少しずつ実現させていくつもりですが、
 いちばん大ざっぱに言うと、「たのしんで戻る」です。
 ビートルズも『GET BACK』を発表したよなぁ、です。
 みんなが「ちょっとでも先」「われ先」を争うなら、
 ぼくらは、もっと長い道を逆走してみたくなりました。
 『万葉集』だの『シェークスピア』だのを読むとかね。

 先に先にとあせるより、笑って後退をたのしみます。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
2017年のたのしみも、ずいぶんと豊かに広がりそうですよ。

Twitterログ1/12(木)ほぼ日メモ

1日Twitterログ

 

今日のダーリンより

・「わたしには、なにも言いたいことがない」
 というのは、いつでも、
 たくさんの人たちの大きなテーマになってきた。

 言いたいことがない、ということと、
 考えていることがない、ということとはちがう。
 思っていることがない、ということともちがう。
 感じていることがない、ということとはもっとちがう。

 腹が減ったなぁと感じることは、わるいことじゃない。
 不自由な状況にしばりつけられていて、
 つらいなぁと感じることは、なまいきじゃない。
 だれかさんのことを、なんだかいいなぁと感じることも、
 だれにことわる必要もない。

 なにか食いたいと思うこと、
 苦しさから抜け出そうと思うこと、
 だれかを好きなんだと思うこと、などなど。
 「なにも言いたいことがない」人も、
 そんなことを感じたり思ったりはしている。

 そして、そこから、
 「どうしたらいいのだろう」と考えることもある。
 考えることのないままに、
 わからなくなってしまうこともある。
 思い続けるのがたいへんで、
 忘れてしまうこともある。
 そんなふうなことも、わりと当たり前のことだ。
 
 ここまでは、みんなたいして変わりはない。
 同じようなもので、蔑むことも羨むこともいらない。
 そして、そのうえで、
 「言いたい」と思う人がいるし、
 「言いたい」と思わない人がいる。
 こころのなかは、そんなに変わらないのだけれど、
 「言いたい」人と「言わない」人に別れる。
 「言わない」人のこころに、なにかが、たまっている。
 言わないまま、なにかやりだすときもあるし、
 逃げ出すこともあるし、質問することもある。
 「どうして?」というのは、沈黙の花が咲くこと。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なにも言うことがない人も、「どうして?」を持っている。