SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

メモ9/3(日)

 

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ほぼ日、今日のダーリンより

・5月に「おれはひと月休むぞ」とか宣言したけれど、
 なかなかそううまく行くものでもなくてね。
 それでも、連休も数えたら、3分の1くらいは休んだ。
 休んだといっても、予定を決めないというだけで、
 結局仕事はしていたのだけれど、
 「予定を決めない」ということの「偉大」を感じた。

 いまの時代のぼくらは、予定とか、計画とか、目標とか、
 そういうものがないと動けなくなっている。
 そのことを、当たり前だと思いこんでしまっている。
 それ以外の方法やら生き方が、ありえないかのようにね。
 予定、計画、目標、戦略、
 スポーツなんかでも、問われるし、
 企業でも問われるし、社会人だけでなく学生も問われる。
 「そういうものはないです」などと言ったら、
 無責任であるとか、バカじゃないかと思われたりもする。
 そうなのかもしれない、そのほうが確率や効率がよくて、
 わかりやすくて、運や人間の個性に頼らなくてもよくて、
 さまざまなことが説明しやすくなるのかもしれない。
 だから、あらゆることに予定や計画や目標が必須なのか、
 といえば、そういうものでもないでしょうと思うのだ。

 予定も計画も目標も、いわば「打算」である。
 「勘定すること。損得を計算すること。見積もること」
 であるわけで、別にわるいことではないけれど、
 岡潔のように語るなら、こういう考えだってある。
 「このくにで、善行といえば
 少しも打算を伴わない行為のことである」。
 ぼくのこころのなかには、そっちの気持ちもある。

 最初の話にもどろう。
 5月に、少しでもぼくが休みをとってできたことが、
 「予定を決めない」ということであった。
 そこで、予定を決めなくてもだれに迷惑をかけるでもなく
 困ることも悲しむこともなく過ごせることを思い出した。
 じぶんを困らせることもなかったし、
 自然にやってくる運命を、そのまま尊ぶ気持ちだった。
 予定や計画や目標を、しっかり勘定できるばかりが、
 人にとって世にとって大切のこととはかぎらない。
 こんなこと言うだけで、怒る人もいそうだけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
自分がどれほど打算的かを言えると、できる男と言われる。

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Twitter貼り付け曲まとめ26

メモ7/28(金)

メモ7/10(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・気まぐれのように、フィルム式のカメラを手に入れて、
 恐る恐るそいつで撮影などはじめている。
 こういうことは、やがて知らず知らずのうちに
 飽きてしまうこともおおいに考えられるので、
 いまのうちに、思っていることを記しておこう。

 どんな経緯で買ったかということについては、
 それはそれでなかなかおもしろい物語があったのだが、
 話しているときりがないので、そっちはまたいつか。

 しばらく前から、フィルムカメラに興味があった。
 カチカチと律義に組み立てられて美しいなという
 「機械もの」への郷愁もなくはなかった。
 いま目の前にあるのはじぶんの年齢に近いくらいに古い
 ドイツのCONTAXというカメラで、
 ウィンドウに置かれているのを見つけて、
 「うわ、かっこいい」と、外観に惹かれてしまった。

 もうひとつは写真を一枚撮るごとにコストがかかること。
 何枚撮ってもタダだというのは凄いことだけれど、
 それに慣れきってしまって、
 写真を撮るという、「釣り」のような愉しみを、
 魚群に向けて投網を放つ「漁業」にしてしまうのは、
 ちょっと残念なのではないかと思ったことだ。
 1枚ずつの写真を、「よしっ」という手応えを感じつつ、
 もうちょっと丁寧に撮ってみたい。
 そんな気持ちもあったような気がする。

 しかし、理念として、いちばんの興味は、
 「結果が見えない撮影」ということだった。
 デジタルカメラの撮影は、あらかじめ、
 「こういうふうに写ります」というモニターを見て、
 出来上がり(結果)を確かめては、シャッターを切る。
 いまの世の中で繰りかえされていることって、
 たいていがこのスタイルである。
 モニターのなかに表れる結果を、採用するというだけ。
 フィルムのカメラには、そのモニターがないのだ。
 「こうなるといいな」と思って見つめて、撮る。
 その当たり前のことを、怖がってちゃだめだよね。
 そういう気持ちを思いだしたくて、という理由だった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「モニターに見える未来」を追うって価値増えにくいよね。

メモ7/8(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・「ほぼ日手帳」のなかでも複数回紹介されたから、
 けっこうたくさんの人たちが覚えているかもしれません。

 「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」
 中学校の先生が、卒業する生徒たちに
 贈った言葉だそうです。
 君たちは、まだ夜明け前にいるのだと。

 「ほぼ日」に届いたメールで教わったことです。
 みんながそれぞれ、年齢を3で割って、なにか考えます。
 30歳でも午前中です。
 40歳だと午後の1時20分かな。
 50歳が、午後4時40分で、
 ぼくが「ほぼ日」を始めたのはこのころです。
 なにかと、あせることもないか、と思いますよね。
 ところが、いま、あらためてこの割り算をしてみたら、
 もうじき、ぼくの時計は
 夜中の11時になると気づきました。
 あらま、です。あと1時間で今日の日が終わっちゃう。
 若い人には勇気づけになるこの人生時計の考えは、
 年寄りの覚悟を決めさせることになるのでしょうか。
 そうです、それはそれでよろしい。
 ぼくはそれでいいと思います。
 深夜に、人が寝静まってから、
 死者のように感じ、思い、彼岸からの目を見開く。
 そういう時間を過ごすのがよさそうです。
 つまりそれこそが、還り道の生き方でしょう。

 でも、なげやりに歩いちゃだめだとも考えます。
 ちゃんと目を覚ましていようと、思います。
 いい加減で、どうにでもなれとか考えやすいぼくが、
 どうしてそんなしっかりした人みたいなことを言うのか。
 わりと、たしかな理由があります。
 もっと生きるつもりで生きていたのに、
 まだ6時くらいの夕暮れのうちに別れた人がいて、
 その人との時間を、まだ続けていたいからです。
 だから、たとえ11時でも、12時を過ぎても、
 起きて目を覚ましていようと思っています。
 話しかけてた、やりかけてたことの続きが、
 まだまだ、たっぷりあるのですから。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
欲深かなつもりもないのですが、まぁ、欲深かですかねぇ。

メモ6/30(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・「自分で書いた文章が一冊の本になった。
  人生のやりたいことリストにも
  入れてなかったことだった。
  そもそも人生のやりたいことリストを
  つくったこともなかった」

 これは、今日、処女作である
 『ボクたちはみんな大人になれなかった』
 が出版される「燃え殻」さんのことばだ。
 このタイトルと感想のことばが、
 そのまま、この小説のようだと思った。

 「自分の書いた文章が一冊の本に」なる。
 それを目的にして生きていた人もいるかもしれないが、
 そんなことを考えることを、
 じぶんに禁じて生きていく人もいくらでもいる。
 燃え殻さんは、後者のほうだったということだ。
 それでも、書いて、読んでもらうことは好きだった。
 それをしてきて、本になってしまって、
 こんどは見ず知らずの人たちの手に、それが渡る。
 そんなつもりじゃなかったかもしれないが、
 いくら「大人になれなかったボクたち」でも、
 そうなることが、想像もできなかったはずもない。

 だから、うれしさばかりでなく、怖さもあるだろう。
 もしかしたら、人生が変わってしまうような気もする。
 そして、いまから人生が変わってしまうようなことを、
 避けて、引き返してみようかと思うこともあるだろう。
 そういう日を待ちわびていた人でないかぎり、
 どっちの道を行くことも、なかなかくたびれることだ。

 1980年のはじまったばかりのときに、
 新宿の怪しげな風俗営業の店の、
 外の雑踏に向けたスピーカーから、
 沢田研二の歌う「TOKIO」が流れ出したのを聞いて、
 「もしかしたら、ぼくの人生が変わるのかもしれない」
 と、31歳だったぼくは胸騒ぎを感じた。
 変わるのなら、変わってみたい。
 そのままでも、わるくはなかったのだけれど。
 そう考えた日のことを、ちょっと思い出している。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
どんな路地をどう曲がっても、生きてりゃいいんだよねー。

メモ6/22(木)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・ほとんどのビジネスは、
 工業的な文脈で語られる。
 目標があり、計画があり、配置や仕入れがあり、
 改良があり、品質管理があり、営業のための研究がある。
 しかし、そんなふうに管理できないことだってある。

 また、しばしば、ビジネスは、
 農業的な文脈でも語られる。
 暦に合わせた日程があり、小さな仕入れがあり、
 作業工程があり、収穫があり、
 少しだけ売り先のことを考える。
 しかし、これもお天気ひとつでがらっと変わる。

 たまに、ビジネスは、
 狩猟的な文脈で語られる。
 探せ、探しに行け、見つけたら捕らえろ。
 当たればでかいぞ。
 当たればでかいし、当たらないこともよくある。

 どれも、予定通りにうまく行くとはかぎらない。
 確率的に考えれば、工業的な文脈で考えるのが、
 いちばん確実なのかもしれない。
 そして、農業的なやり方が次で、
 狩猟的な方法をとるのは、確率がよくなさそうだ。
 ただ、たくさんの例をよくよく考えてみたら、
 ちがう結論が出そうな気がするんだよねぇ。 
 うまくいったビジネス(ビジネスばかりじゃないが)は、
 成功したあとに、説明しやすい方法で説明されるから、
 どうしても、工業社会的な因果関係で語られやすい。
 当事者さえも、結果には原因があったということを
 何度も説明しているうちに、その気になってきてしまう。
 「運がよくて、獲物が見つかっただけ」などと、
 冗談のようには語ることはあったとしても、
 「その運を逃がさないような姿勢を貫いていた」とか、
 ついつい説明に加えてしまったりもする。
 ほんとは、説明の外側に、なにかがあったんだと思う。
 よく釣れるルアーの評判があると、
 人びとはそのルアーを使う。
 たくさん使われたルアーで釣った魚は多くなる。
 そんなことも、よくあることだしね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人が釣った魚を待ちぶせして奪うという方法もあるしねー。