SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

 ・ゴミ屋敷をちょっと掃除してます。

この前(といっても結構たった)おしかけてくれたのに、くたばって寝てて気づけず、雨の中帰してしまった方々、本当に申し訳ありませんでした(もし読むことがあったら改めて)。本当は、もし気づけてても決して入ってもらえる部屋状態でもありませんでした。。今更ながらちょっと掃除始めてます。ドアにかけて差し入れしてくれてたお酒等々、起きたその朝から飲んでました。泣きながらお返事送ってました。

 

 

・感情のコントロールってこんなに難しかったっけって、いつからかずっと続いてる。夏に親しい人に会った時は、うれしさと不甲斐なさとで、トイレと帰り道で泣きまくってた。笑えばスッキリするかと思ってお笑い番組を見ても、いらぬことを考えてか泣いたことがあった。まじめなとこを見ても、不甲斐なさと想像で、動悸・吐き気。夢からさめては、動悸・吐き気。

・この頃思い出す同級生の顔がある。そのおかげで食べられている飯がたまにある。

・完全な引きこもりにギリギリなってないのは、行っていい場所があるからな気がするので、可能な限り行く。金を払っても行く。

・逆に、ホームレス的なことはよく考える。シャワー・着替え(洗濯)・電源さえどうにかできたら、その方が健康的になったりするんじゃないかと、失礼でもふとよぎる。

 

・こんな風にグダグダ吐き出してるよりすることがあるだろなんて書きながら思いつつ、どっちにしろくたばってできてないなら嘔吐しといた方がスッキリするという可能性を1%思ってとりあえず。

メモ10/9~16

1週間ごと。

 

メモ9/3(日)

 

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ほぼ日、今日のダーリンより

・5月に「おれはひと月休むぞ」とか宣言したけれど、
 なかなかそううまく行くものでもなくてね。
 それでも、連休も数えたら、3分の1くらいは休んだ。
 休んだといっても、予定を決めないというだけで、
 結局仕事はしていたのだけれど、
 「予定を決めない」ということの「偉大」を感じた。

 いまの時代のぼくらは、予定とか、計画とか、目標とか、
 そういうものがないと動けなくなっている。
 そのことを、当たり前だと思いこんでしまっている。
 それ以外の方法やら生き方が、ありえないかのようにね。
 予定、計画、目標、戦略、
 スポーツなんかでも、問われるし、
 企業でも問われるし、社会人だけでなく学生も問われる。
 「そういうものはないです」などと言ったら、
 無責任であるとか、バカじゃないかと思われたりもする。
 そうなのかもしれない、そのほうが確率や効率がよくて、
 わかりやすくて、運や人間の個性に頼らなくてもよくて、
 さまざまなことが説明しやすくなるのかもしれない。
 だから、あらゆることに予定や計画や目標が必須なのか、
 といえば、そういうものでもないでしょうと思うのだ。

 予定も計画も目標も、いわば「打算」である。
 「勘定すること。損得を計算すること。見積もること」
 であるわけで、別にわるいことではないけれど、
 岡潔のように語るなら、こういう考えだってある。
 「このくにで、善行といえば
 少しも打算を伴わない行為のことである」。
 ぼくのこころのなかには、そっちの気持ちもある。

 最初の話にもどろう。
 5月に、少しでもぼくが休みをとってできたことが、
 「予定を決めない」ということであった。
 そこで、予定を決めなくてもだれに迷惑をかけるでもなく
 困ることも悲しむこともなく過ごせることを思い出した。
 じぶんを困らせることもなかったし、
 自然にやってくる運命を、そのまま尊ぶ気持ちだった。
 予定や計画や目標を、しっかり勘定できるばかりが、
 人にとって世にとって大切のこととはかぎらない。
 こんなこと言うだけで、怒る人もいそうだけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
自分がどれほど打算的かを言えると、できる男と言われる。

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Twitter貼り付け曲まとめ26

メモ7/28(金)

メモ7/10(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・気まぐれのように、フィルム式のカメラを手に入れて、
 恐る恐るそいつで撮影などはじめている。
 こういうことは、やがて知らず知らずのうちに
 飽きてしまうこともおおいに考えられるので、
 いまのうちに、思っていることを記しておこう。

 どんな経緯で買ったかということについては、
 それはそれでなかなかおもしろい物語があったのだが、
 話しているときりがないので、そっちはまたいつか。

 しばらく前から、フィルムカメラに興味があった。
 カチカチと律義に組み立てられて美しいなという
 「機械もの」への郷愁もなくはなかった。
 いま目の前にあるのはじぶんの年齢に近いくらいに古い
 ドイツのCONTAXというカメラで、
 ウィンドウに置かれているのを見つけて、
 「うわ、かっこいい」と、外観に惹かれてしまった。

 もうひとつは写真を一枚撮るごとにコストがかかること。
 何枚撮ってもタダだというのは凄いことだけれど、
 それに慣れきってしまって、
 写真を撮るという、「釣り」のような愉しみを、
 魚群に向けて投網を放つ「漁業」にしてしまうのは、
 ちょっと残念なのではないかと思ったことだ。
 1枚ずつの写真を、「よしっ」という手応えを感じつつ、
 もうちょっと丁寧に撮ってみたい。
 そんな気持ちもあったような気がする。

 しかし、理念として、いちばんの興味は、
 「結果が見えない撮影」ということだった。
 デジタルカメラの撮影は、あらかじめ、
 「こういうふうに写ります」というモニターを見て、
 出来上がり(結果)を確かめては、シャッターを切る。
 いまの世の中で繰りかえされていることって、
 たいていがこのスタイルである。
 モニターのなかに表れる結果を、採用するというだけ。
 フィルムのカメラには、そのモニターがないのだ。
 「こうなるといいな」と思って見つめて、撮る。
 その当たり前のことを、怖がってちゃだめだよね。
 そういう気持ちを思いだしたくて、という理由だった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「モニターに見える未来」を追うって価値増えにくいよね。

メモ7/8(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・「ほぼ日手帳」のなかでも複数回紹介されたから、
 けっこうたくさんの人たちが覚えているかもしれません。

 「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」
 中学校の先生が、卒業する生徒たちに
 贈った言葉だそうです。
 君たちは、まだ夜明け前にいるのだと。

 「ほぼ日」に届いたメールで教わったことです。
 みんながそれぞれ、年齢を3で割って、なにか考えます。
 30歳でも午前中です。
 40歳だと午後の1時20分かな。
 50歳が、午後4時40分で、
 ぼくが「ほぼ日」を始めたのはこのころです。
 なにかと、あせることもないか、と思いますよね。
 ところが、いま、あらためてこの割り算をしてみたら、
 もうじき、ぼくの時計は
 夜中の11時になると気づきました。
 あらま、です。あと1時間で今日の日が終わっちゃう。
 若い人には勇気づけになるこの人生時計の考えは、
 年寄りの覚悟を決めさせることになるのでしょうか。
 そうです、それはそれでよろしい。
 ぼくはそれでいいと思います。
 深夜に、人が寝静まってから、
 死者のように感じ、思い、彼岸からの目を見開く。
 そういう時間を過ごすのがよさそうです。
 つまりそれこそが、還り道の生き方でしょう。

 でも、なげやりに歩いちゃだめだとも考えます。
 ちゃんと目を覚ましていようと、思います。
 いい加減で、どうにでもなれとか考えやすいぼくが、
 どうしてそんなしっかりした人みたいなことを言うのか。
 わりと、たしかな理由があります。
 もっと生きるつもりで生きていたのに、
 まだ6時くらいの夕暮れのうちに別れた人がいて、
 その人との時間を、まだ続けていたいからです。
 だから、たとえ11時でも、12時を過ぎても、
 起きて目を覚ましていようと思っています。
 話しかけてた、やりかけてたことの続きが、
 まだまだ、たっぷりあるのですから。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
欲深かなつもりもないのですが、まぁ、欲深かですかねぇ。