SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ1/22(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・いま「TOBICHI2」で梅佳代さんの『白い犬』という
 写真展をやっています。
 先日発表された写真集『白い犬』からの展示です。
 会場づくりも梅佳代風味たっぷりですから、
 写真集は持ってるよという人も、行ってみてください。

 ところで、この『白い犬』という写真集。
 なんというか、ぼくはかなり度肝を抜かれたんですよ。
 ふつう、写真集の主人公になるような犬って、
 被写体として撮影者に愛されていたとかさ、
 とてもかわいいと評判だったので写真を撮ったとか、
 「特別に大事にされている感」があって当たり前でしょ。
 ところが、この白い犬っていうのが、
 タイトルからして、犬の名前じゃなくて「白い犬」って、
 すでにちょっと突き放してるでしょう?
 で、本の帯には写真を撮った梅佳代先生のことばで、
 「はじめのころは木の枝で撫でとったけど、
 最後のほうは友達やったと思う」とあるわけですよ。
 「木の枝で撫でとった」って、どういうことなのか?
 「最後のほう」っていうのも、死ぬ前みたいなこと?
 つまりその、ひとつも「愛とか情とか」語られてない。
 
 それなのに、写真を次々に見ていくと、
 この犬のことが「なんだかいいなぁ」と思えてくるわけ。
 で、それは、もともと「木の枝で撫でてた」梅佳代が、
 実家の新入りに向けて、「なんやろ、これは?」という
 恐れと、めずらしさへの興味と、好奇心で、
 この「白い犬」を見ていた視線なんでしょうね。
 抱きしめようとするのではなく木の枝で撫でている感じ。
 犬がいることがうれしいというより、
 見馴れていたはずの景色のなかに、犬が入ってきて、
 しだいに犬のいる景色に変化していくのを、
 だんだんと作者が受け容れていくというような物語。
 
 かつて、ぼくは犬というのは、
 家のなかの「愛をかたちにしたもの」と言ったけど、
 梅佳代のところの「リョウ」は、
 家の「日常のひとつの素材」として生きていたんですね。
 日常って、輝いてもいないし粗末だったりするけれど、
 離れてみると「友達やった」と思うようなものなんだね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いい写真集だし文章もいい。こんな作家がいるんだよなぁ。