SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ1/21(土)ほぼ日メモ

 

単に深夜バスで1日遊びに出ただけでしたが、仕事終わりから気分のままに動けた自分を褒めてあげたいという心地の延長線上で、なんでもない写真をばんばんあげてました。イケるってなった時の妙なテンションも久しぶりに感じましたね。

むちゃくちゃ、歩いて、休んで、食った1日でした。

後は、現地で会った人の写真を気軽に撮れるようになったら果てしない進歩だけど、それはやっぱ果てしないんでまたいつか。

 

 

でもマジで「コカコーラきむら」誰や…

 

 

今日のダーリンより

《・牧場だとか、山を開拓した観光地だとか、じぶんで切り開いた田や畑だとかを見てきたものだ。ときどき、片づけようのなかった大きな岩だとか、拾って運んだものを積みっぱなしにした石の山がある。

人間が使う土地は、人間が使いやすいようにはじめから平らになっていたわけではない。でこぼこしていたり、岩や石が埋まっていたり、無駄にしつこく蔓延った竹薮があったり、と、たいていは、頑固で見苦しい荒れ地だったはずだ。なにをするにも、いちいち人の労力を要求する。さらに、そこに水を引いてくること、光が当たるように周囲の環境を整えることも必要で、なにかの植物を育てたいと思うなら、固い土に鋤鍬を入れ、ふんわりと空気を含ませる。 なんのためにしているのかを知っていなければ、つらいばかりの仕事と言えそうだ。

石拾いやら切り株の掘り出しは、ほんとうは、未来につながっている。

荒れ地は、やがて、輝く緑に変わるはずだ。牛や馬が草を食む景色が、こころに描けるだろうか。あるいは、稲やら麦やらが風にそよいでいるようすやら、りんごだのオレンジだのがたわわに実っている景色。果汁を飛ばしながらりんごを噛っている人の笑顔。晴れがましい収穫の日々を、想像できるだろうか。‥‥そのことが、とても大事だし、実にむつかしい。

ぼくらが、荒れ地でもなんでもない都会のどこかで、いま、毎日のようにやっている仕事も、石拾いや切り株の掘り出しのようなことが多い。遠くの井戸から水を運ぶようなこと、助けを求めて村から村に声をかけて歩くようなことだ。つらいばかりのこと、と思われていることも多い。ただ、この先に、朝日に輝くりんご見えたら、「なんだ、これはうまい」という声が聞こえたら、ぼくらの動きは、きっとちがっているはずだ。「なにしてるんですか?」と、荒野で訊ねられたときに、石を拾いながら「りんごをつくってるんです」と答える。そうなんだよなぁ、りんごが見えてるか否かなのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「目的」というよりは「希望」が、人に力をくれると思う。》