Twitterログ 10/21(金)メモ貼り
— SuperBallkun (@s_ballkun) 2016年10月20日
— SuperBallkun (@s_ballkun) 2016年10月20日
2009『Media Lionは、前日のPromo Lionに続き、日本のキットカットの「Kit Kat Mail」がグランプリ。キットカットのパッケージに受験の応援メッセージを書き、切手を貼りそのまま送れるようにするアイデア。』 pic.twitter.com/279FfsoMQx
— SuperBallkun (@s_ballkun) 2016年10月21日
→『Promo Lionには、日本の夕張市の観光プロジェクト「夕張夫妻」が選ばれた。夕張市の負債と離婚率の最も低いという事実をかけ、「No money but love(金はないけど愛はある)」というスローガンとゆるキャラと共に展開したプロジェクト。→ pic.twitter.com/wTjjoVzP3P
— SuperBallkun (@s_ballkun) 2016年10月21日
→夕張夫妻に関しては、自虐性やゆるキャラという部分もさることながら、世界的な経済不況の中、広告会社のビジネスチャンスやアイデアを発揮する場所がどこにあるのかを示唆しているという意味が評価されたのではないでしょうか?』
— SuperBallkun (@s_ballkun) 2016年10月21日
体験させる『例えば、スーパーに置かれたフルーツのシールに「同じように乳ガンチェックをしてくれればなぁ」とメッセージを入れた乳ガン撲滅キャンペーン、触って確かめるという習慣を利用したうまいアイデア。』 pic.twitter.com/cWqfN6SoLt
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→『こちらもシールを利用した例。格安航空会社のリゾート路線の広告。』これってたしか飛行機の中のテーブルでも同じようなの展開してた気が。 pic.twitter.com/pEQhiq2njA
— SuperBallkun (@s_ballkun) 2016年10月21日
→『最後は、Nike。既存の物にちょっと手を加えただけで、ブランドの体験に変えている優れた例。』 pic.twitter.com/CbCcP90n9T
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— SuperBallkun (@s_ballkun) October 20, 2016
https://t.co/IfxYEJ1Ed1https://t.co/YPekIcjalw
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『Frank Sinatra "New York New York"。「シナトラテスト」- 聞き覚えのない言葉だと思いますが、これは、フランク・シナトラの名曲「ニューヨーク、ニューヨーク」の→https://t.co/fEbxRzXtfx
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→「(If I can make it there, I will make it anywhere.)ここでうまく行けば、どこへ行ってもうまく行くさ。」という一節から来た「信頼性の獲得にはある種の事例を出すのが効果的」を意味する用語。「アレをやった人」で、仕事が来ることとか』
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ほぼ日、今日のダーリンより
・ぼく自身の見栄の歴史を振りかえってみた。
30代そこそこのころは、ぼくも多少は見栄っ張りで、
海外ロケなんかに行ったときに、
ちょいと生意気な腕時計なんかを見に行って、
うれしそうに買ったりしていた。
コレクションに至ることもなく、
だんだんと飽きてしまうのだけれど、
それくらいの見栄は張っていたということだ。
たぶん、それが値段の高いものだと思っていたから、
そいつを買えるようなじぶんによろこんでいたのだろう。
高いものというと、時計か、クルマで、
フリーという立場で暮らしていると、
そのへんのものを高いものにしておかないと、
なんだかギャラを値切られるような気がしていたのかな。
いや、それよりは、時計だのクルマだのを、あれこれ、
品定めする仲間になめられたくなかったのかもしれない。
そうだなぁ、たいていの見栄は、
仲間うちでの「なめられたくない」が奥底にありそうだ。
やがて、多少なりともという程度の見栄には、
だんだん飽きてきてというか、
見栄というものが、たぶん、流行らなくなって、
さまざまな値段の高いものは、
あんまりかっこよくないな、という気分になってきた。
服でも、清潔さは大事だけれど、高そうというのは、
どうも表現したいことじゃないなと思うようになった。
もともとが、いかにも小物っぽい見栄のことだから、
やめるのもいかにも小人物っぽい動機なんだと思う。
憎むほどではなかったが、高そうな時計とかは、
どこかの引き出しの奥に、ひっそりと幽閉されていた。
思えば、それはそれで、自由なふるまいではなかった。
最近、隠されていた時計が、ひょいと目にふれた。
三十年以上も昔のものが、ちょっとかわいく思えた。
オーバーホールに出して、使うことにした。
若いときのじぶんのアホさを、否定するのではなく、
続きを引き受けてやろうと思ったのかな。
見栄も、古くなるといい具合に摩耗してくれて、
元々の、時計そのものになってくれるのかもしれない。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
否定じゃないやり方を、いろいろ探せるようになったのか。