SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ 8/2(火)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・「ほんとは、こういうことらしいよ」だとか、
 「裏では、こういうことになってるらしいよ」だとか、
 長く生きていると、ずいぶん聞いてきた。

 わりとわかりやすいのが、
 関東大震災のあった9月1日の「防災記念日」が近づくと、
 富士山が爆発するだとか、大きな地震がくるだとかの話。
 皇室だとか政治家は秘密のシェルターがあるだとか、
 いまは放送局の上層部は家族ぐるみで東京にいないとか、
 「ここだけの話」として教えてくれる人がいた。
 ぼくにも東京を離れるようにご親切に教えてくれたのか。
 ひそひそ話を聞いていて、いやな感じがした。
 だいたい、そんな大きな災害があると知っていながら、
 とっとと逃げたりした人が、
 後にどういうふうに信用されるというのか。
 まぁ、こういう話は毎年のようにくりかえされるけれど、
 自然の災害がカレンダーに合わせて起こるはずもなく、
 ちょっと考えれば、いやなデマだとわかる。

 ある食品が、人間に大きな健康被害を与えるだとか、
 ある世界的な団体が、あらゆる悪の元凶であるとか、
 いまは認められてない特別な治療をすれば
 不治と思われている難病は治るとか、
 「ふつうの人はだまされているけれど、
 わたしたちは知っている」というような
 ねじれたエリート意識で語られる「お話」は、
 いつの時代にもずうっと無くならずに残っている。

 ぼくは、信仰やら信心やらを嫌いじゃない。
 それどころか、つくりばなしやら迷信やらだって、
 ファンタジーとして受け容れてもいいと思っている。
 でも、「ほんとはね」だとか「裏ではね」だとかが、
 「ほんとうのこと」の顔をして語られるのは困る。
 先日、別のテーマで書いたことだけど、
 「常にいのちの増す方へ!」がカギだと思うのだ。
 人ひとりずつだけでなく、おおぜいの人を含めて、
 その「ほんとはね」のひそひそ話が、
 いのちを増す方に向いているかが、大事なのではないか。
 『子どもを守るために知っておきたいこと』という本を、
 読みながら、そんなことを考えた。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人を簡単に「遅れたやつ」とする考えは、だいたいダメだ。