SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

きれいな言葉とは。

そうやって自分に聞いてみると、みんなどんなことを思い浮かぶんでしょう。

 

ある女性芸能人が、「言葉がきれいな人が好きです。」と言っていました。その場にあったしっかりとした言葉使いをしてくれる人がいいと。

常日頃言葉使いがうまくできなくて一種のコンプレックスのようにも感じている自分なので、「たしかに。うんうん。」と思いました。

 

「きれいな言葉がいい」とは、それ自体よく聞く言葉です。

その芸能人の方が言っていることにはとても納得したのですが、他で思い返してみると同じような文言なのに腑に落ちないでいる自分がいたと思い出しました。

 

例えばその「きれいな言葉」が、「上品」というイメージだろうなと感じた時。

 

・「やばい」「まじ」「超」を避けましょう。

たしか女性向けに書かれた記事だったと記憶しています。日頃このような言葉ばかり使わずにしっかりとした言葉を使った方がいいですよ、とのこと。

こればっかり使うのは酷いだろうなとわかるのですが、苦手なのは「この言葉自体受けつけない」というような極端な感受性の人を見かけた時です。

 

心底かっこいいものを見たとき。楽しい感情がカラダから溢れてしまう瞬間。

一点の曇りもなくポジティブな反射で出ます。

 

「やべぇ」

 

これはもうカラダに染み付いたものでしかなくて、頭で考えるというより口が反射的に動いてしまっている、幸せなときです。

 

もちろんその対象について話せる時なら、その後にどんな風に「やべぇ」かを頑張って具体的に話そうとするでしょう。でも本当に大事なことはその「やべぇ」に詰まっています。

 

自分にとっては「やべぇ」でしたが、他の人にとっては違うでしょう。それでいいと思うんです。

 

TPOが 大事なんて、だいたいみんな感じています。それでもこの「やべぇ」まで無理に律儀に直せという人とは、きっと一生わかりあえないんだろうなと思います。

 

こちとら、「無意識のやべぇ」をずっと探して生活しているようなものだからです。

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ある方が書いていたことを、ふと思い出しました。

人生中3で終了説

中3までに見たもの聴いたもの感じたものを、人はずっと引きずって生きていく。

時には証明しようとし、時にはなぞり、時には否定し、時には逃げ回って、生きていく。

15歳以降の人生は、長大なアンコールである。

 

 この説に、個人的にはとても共感しています。

 

自分の「やべぇ」の出来上がり方にも、どこか通じる部分があると思うんです。

友達と一緒に遊んだり、ふざけあったり、スポーツしたり。その諸々のいたるところで使ってきた「やべぇ」です。

いわゆる「多感な時期」に、みんなで使いあった言葉には色んな意味や感触が込められすぎているんですね。(僕は15歳の頃から芯があまり変われていない感じもするので、多感な時期と言って若い頃を離したがる感覚もよくわかりませんが。)

 

その「やべぇ」には、個人の過去も含めての「純粋」というものが詰まっているはずです。自分で書いていて恥ずかしくなりますが。

 

「上品」に育った人は、「やべぇ」はどんな言葉になって滲み出てくるんでしょう。聴いてみたいです。

 

ホントの「やべぇ」は、時間を超える。