SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

ログ5/11(木)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・酒をのむ人はいいな、と思う。
 「酒をのむ」というだけで、それが目的になるのだ。
 そこにおいしい料理があったら、さらによかったりする。
 たのしいおしゃべりがあったら、これもいいだろう。
 好みの映画があったら、それもいいのだろう。
 そして、なにもなくても、「酒をのむ」がある。
 そんなにうらやましいことがあるだろうか。

 「のもうか」と言ったやつ、「のもう」と言われたやつ。
 どちらも、うれしそうだ。
 「ずいぶんのんだなぁ」と、反省するように言う人、
 「ずいぶんのんだなぁ」と、よろこんでいる人、
 どちらも、やっぱりたのしかったようなのだ。
 
 「のもうか」と、水をのもうと誘わない。
 「のもうか」と、コーヒーをのむのもあるけれど、
 それは「いっしょにすごそうか」ということだ。
 「酒をのもうか」とは、ぜんぜんちがうんだと思う。
 
 ひとりで「のむ」というのも、あるんだろう。
 酒のかわりに、それを実験してみたよ。
 ひとりで水をのんで、じわりとしてみた。
 水に罪はないけれど、こんなになんでもない時間はない。
 
 人が酒を語るのは、なんだかおもしろい。
 実は、ぼくはカラオケで吉幾三「酒よ」を歌う。
 中畑清さんが歌うのを聴いて、いいなぁと思いおぼえた。
 酒がなにかものを言うはずはないのだけれど、
 さかんに酒に語りかけるという歌だ。
 つまりは、「ひとり」ということを語ってる歌だ。

 酒をのむ人に幸いあれと、ぼくは思う。
 なんかいい時間を、たくさん持っていていいな。
 とか言いながら、ぼくは酒をのみたいと思ってない。
 なんだか冷たいなぁ、おれ。
 ずっと「しらふ」でいる人生は、不自由である。
 それは、そのとおりだし、ぼくもよく思うことだ。
 でも、ここまで「しらふ」でやってくると、
 「しらふ」の時間にこそ酔いを混ぜたりするようになる。
 のんでないのに、酔っている「しらふ」もあるのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こうして、たまに酒のこととか言いたくなるのは、なぜ?

ログ5/6(土)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・繊細であるとか、感受性が強いとかは、
 わりと価値の高いことのにように言われる。
 逆に、神経が太いとか鈍いとかはややばかにされます。
 
 感じやすくていいことも、あるとは思いますが、
 それは、そんなにいいこととも限らない。
 火災報知器なんかのセンサーの感度が
 ちょっと高めに設定されていると、
 ちょっと魚が焦げたくらいでブザーが鳴ってしまいます。
 
 ほんの少しの化学調味料を感じられる人の、
 「舌がぴりぴりして、吐きそうになる」
 というような声を聞いていると、気の毒だなぁと思うし。
 傷つきやすいとか、肌が弱いとか、胃が悪いとか、
 本人たちもつらいということだろうなとも思います。
 
 まぁ、そんなことを言っているぼく自身も、
 感じやすいところと、鈍感なところの両方があって、
 鈍でどんどん押してこられると逃げ出したくなるし、
 感じやすさゆえの痛みについて訴えられても、
 戸惑うしかないし、敬遠したくなったりもします。

 ただ、ぼくは、鈍なほうに鈍なほうに歩んでいこうと、
 練習を続けてきたように思います。
 どう言えばいいんだろう、つまり、
 センサー感度高いのも、わるいわけじゃないけど、
 「感じることそのものよりも、
 なにかすることが目的なんだからさ」と思ったのです。
 感じたことを物語にして表現するにしても、
 「表現する」ということを「する」わけですよね。
 そこには、感じたことを切ったり削いだりするという、
 ある種の暴力的な決断が要ると思うんですね。
 どこまでも繊細に感じ続けていても、
 それをいったん止めて「なにかする」のでなくては、
 ただの線の切れたセンサーになってしまいます。
 どうしても、そこでは鈍にならざるを得ないでしょう。

 そうは言っても、鈍を磨きぬいたのか、「感じる」ことを
 すっかり忘れちまったような人にはなりたくないわけで。
 そういう往復運動そのものが、わたくしなのですね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いつになったら、ぼくは『今日のダーリン』を休むのか?!

Twitterログ5/1(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・何人もの友人たちが、
 ポール・マッカートニーのコンサートに行って、
 よかったよかったという感想を述べている。
 きっと、よかったんだろうなぁ。
 想像してた以上によかった、という声が多い。
 音楽としても、ショーとしても、なつかしさも、
 ぜんぶとてもよかったのだと思う。
 
 どうして、ぼくはそのコンサートのことを知ったときに、
 「行かなくていいかな」と言ったのだろうか。
 なんとなく、行かなくてもいいやと思った理由が、
 うまく説明できないままでいる。
 好きすぎるからがっかりしたくない、というのではない。
 もともと、そういう熱を帯びた好きさとは縁がない。
 あえていえば、ビートルズはもう酸素のようなものだ。
 嫌いなはずもないし、飽きているというものでもない。
 ジョン・レノンのほうが好きだったから、でもない。
 ポールがどれくらいビートルズだったか、よく知ってる。
 わからないのだ、どうして行かないと言ったのか。
 億劫で、コンサートだとかイベントに行きたくない、
 というわけでもない、勇んで行くイベントも現実にある。
 
 ただ、どうして「行かなくていい」と決めたのだろう、
 と、あらためて考えているというのもへんな話だ。
 無理やりに、その理由を考えてみた。
 もしかしたら、と思える答えは、たったひとつだ。
 「いまのぼくに関係ないから」なのではないだろうか。
 もちろんビートルズの、あるいは
 ポール・マッカートニーの音楽は無くなったら困る。
 しかし、ぼくのいまの毎日のなかに、
 このステージは、縁のないものに感じられたのだ。
 もちろん、勝手にそう感じたというだけなんだけどね。

 どう言ったらいいんだろう、いまのぼくは、
 なんか些細なことでもいいから、
 じぶんの明日を変えてくれそうなものか、
 とても疲れを癒してくれるものかの、
 どちらかを求めているように思うのだ。
 ポールが、そのどちらでもないように思えたのかなぁ。
 ほんとの気持ちは、じぶんでもよくわからないままだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
これを書き終えたら、『モモ』を読み直してみる予定です。

 

(これか?)

Amazon CAPTCHA

Twitterログ4/29(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・金曜日の夜に、ミーティングを終えて帰るとき、
 「しばらくお会いできませんね」と言われた。
 冗談めかして「さみしい?」と言ったら、
 「そういうの、はじめてだから、みんなが」と返事。
 そっか、たまには来る予定もあるんだけどね、会社に。

 5月はひと月、ぼくは休みをとることにしていた。
 ずいぶん前から決めていたことで、
 ぼくが、会社にあたりまえにいるという環境を、
 変えようということがひとつ。
 そして、ぼく自身、ひとりであれこれに対面する時間を、
 ずっと持ってなかったので、それをしようということ。
 19年近く、ずっと「ほぼ日」に
 閉じこもっていたような気がするので、
 ぶらぶらと外に出かけてみようというわけだ。
 
 すでに、半月分の予定は決まってしまった。
 ゴールデンウィークは、いつものように京都にいるし、
 そこではひとりじゃなくて、家族がいっしょである。
 東京に戻ってから、会社にくる日も、すでに決まってる。
 「そのミーティング、おれも入れてくれ」と、
 じぶんから頼んで参加させてもらうことにしたからだ。
 会社の来し方行く末について、合宿で話しあう日もある。
 親しい料理屋さんに、ひとりで行く予定も決まっている。
 それでも、そうとうにぶらぶらである。
 想像すると、すでにちょっとさみしいというか、
 しんみりしてしまうようなここ数日であった。
 
 そのしんみりを身につけ直すために、休むのである。
 浜辺のにぎわいのなかで笑いあっている時間よりも、
 水平線の向こうにいくつもりで浮かんでいよう。
 そんな孤独を、ぜいたくに味わう予定の5月なのである。
 しっかりと退屈したり、さみしく腹を減らしたり、
 大尽のように温泉につかったり、うたた寝をしたり、
 とぼとぼと迷い道を歩いたり、疲れたら帰宅したり。
 そんなふうな、わがまま放題の旅の日を過ごすのだ。
 ひょいと、あなたの道ですれちがうかもしれない。
 締切りのある仕事を、どこかの駅でしてるかもしれない。
 この『今日のダーリン』についても、どうしようかな。
 書くときは書くし、書かないときには書かないのかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんか、いろんなことが変化してても、気にしないでね

Twitterログ4/28(金)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・こどもが生まれたときに、
 親は、「じぶんのこども」ができたと思う。
 「授かりもの」という言い方もあって、
 人よりも上の、神さまだとか、天だとかから
 与えられたという考えもあるけれど、
 それにしたって「あたえられた、じぶんのもの」だ。
 しかし、もうひとつの考えがあって、
 それは「預かりもの」ということばで表現される。
 じぶんのものじゃなくて、じぶんが預かっているもの。
 ぼくは、こどもについては、できるだけ
 この「預かりもの」であると思うようにしてきた。
 所有物じゃないというところまでは確かに言えるけれど、
 「預かりもの」だと本気で思えるかといえば、
 やや自信がないかもしれない。
 でも、強くそう思うようにしてきたつもりだ。
 
 こどものことを「預かりもの」だと思う気持ちは、
 ずいぶんと応用が利くということもわかった。
 妻も、思えばじぶんのものじゃなく「預かりもの」だ。
 大事にしなきゃいけない、勝手にできるものではない。
 犬だとか猫だとかも、「預かりもの」だと言える。
 こっちのほうが、妻や夫についてよりもわかりやすい。
 実際に、保護犬や保護猫の「預かりさん」を
 していてくれる人たちが、たくさんいる。
 こんなふうに考えていくと、「所有」というものが、
 あんまり必要ない概念のようにも思えてくる。
 家だとか、クルマだとか、財産と呼ばれているものも、
 法的な「所有」がはっきりしているとしても、
 それを「預かりもの」だというふうに思い直したら、
 いっそう大切にできるかもしれない。
 さらに言えば、じぶんの貯金通帳に記されている
 「じぶんのお金」にしたって、
 「預かりもの」だと考え直してみることはできる。
 預かっているけれど、使ってもいいお金。
 それなら、大切に使うほうがいいに決まっている。
 できたら、じぶんだけがよろこぶのではなく、
 他の人たちもよろこんでくれるように使うほうが、
 預けられている者として満足がいくのではないか。
 すべてに「所有」のシールが貼ってあるような時代に、
 すべて「預かりもの」と貼り直したら、どうだろうね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「預かりもの」という考え、水くさいと思われるかもなぁ。

Twitterログ4/27(木)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・東京タワーは、おそらくエッフェル塔がなかったら、
 誕生しなかったのではないかと思う。
 鉄骨を組み上げてむやみに高い塔を立てるということが、
 アイディアとしてひょいっと出てくるかどうか、
 また、あのようなかたちでできたかどうかを想像すると、
 やっぱりちょっと考えにくいものがある。
 エッフェル塔という「モデル」があったせいで、
 その後の世界にエッフェル塔的なものが増えていたのだ。
 
 人間の姿かたち、装いの流行などにも、
 もちろん「モデル」の存在が大きく影響している。
 「矢沢永吉」にしても、「木村拓哉」にしても、
 その後に「永ちゃん的」な人びとやら、
 「キムタク的」な人びとをたくさんつくることになった。
 ヘアスタイルや、服装、ことばのくせ、趣味嗜好などが、
 人びとに憶えられ、コピーされることで、
 「モデル」の役割は強められていく。
 雑誌の「モデル」が、実際にたくさんの読者たちの
 「元コピー」になっているのだけれど、
 職業名としての「モデル」は、いまの時代には、
 存在として「モデル」の役割をしているのだと思う。

 「モデル」があることによって、
 その「コピー」がしやすくなる。
 賛成、反対、憧れ、軽蔑、なんでもしやすくなる。
 「あれみたいなもの」だとか「あの人みたいな存在」とか
 すぐに目に見えるように語り合える。
 いろんなものごとを、どうにかしようと思うときには、
 あれこれすべての準備を整えるなんてことより先に、
 「モデル」が動き出すことが大事なんだよね。
 「うまくいったら、ああなるのか」という「モデル」が、
 元気で動き出せば、その先の未来に行って見たくもなる。
 お役所は、平等に公平にというルールを重要視するから、
 ぴょんと飛び抜けたものをつくりにくいんだ。
 でも、民間の場合には「お先に!」という挨拶とともに、
 「モデル」を生み出すことができるんだよね。
 2011年からいままでの東北復興の「モデル」って、
 なにがあったんだろうと考えるんだけど、
 なかなか、そういうものが思いだせないんだよな。
 それが「東北タワー」だとは言えないんだけどねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば、お金ってのは、価値というもののモデルだね。