ログ5/11(木)ほぼ日メモ
— SuperBallkun (@s_ballkun) 2017年5月11日
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今日のダーリンより
・酒をのむ人はいいな、と思う。
「酒をのむ」というだけで、それが目的になるのだ。
そこにおいしい料理があったら、さらによかったりする。
たのしいおしゃべりがあったら、これもいいだろう。
好みの映画があったら、それもいいのだろう。
そして、なにもなくても、「酒をのむ」がある。
そんなにうらやましいことがあるだろうか。
「のもうか」と言ったやつ、「のもう」と言われたやつ。
どちらも、うれしそうだ。
「ずいぶんのんだなぁ」と、反省するように言う人、
「ずいぶんのんだなぁ」と、よろこんでいる人、
どちらも、やっぱりたのしかったようなのだ。
「のもうか」と、水をのもうと誘わない。
「のもうか」と、コーヒーをのむのもあるけれど、
それは「いっしょにすごそうか」ということだ。
「酒をのもうか」とは、ぜんぜんちがうんだと思う。
ひとりで「のむ」というのも、あるんだろう。
酒のかわりに、それを実験してみたよ。
ひとりで水をのんで、じわりとしてみた。
水に罪はないけれど、こんなになんでもない時間はない。
人が酒を語るのは、なんだかおもしろい。
実は、ぼくはカラオケで吉幾三の「酒よ」を歌う。
中畑清さんが歌うのを聴いて、いいなぁと思いおぼえた。
酒がなにかものを言うはずはないのだけれど、
さかんに酒に語りかけるという歌だ。
つまりは、「ひとり」ということを語ってる歌だ。
酒をのむ人に幸いあれと、ぼくは思う。
なんかいい時間を、たくさん持っていていいな。
とか言いながら、ぼくは酒をのみたいと思ってない。
なんだか冷たいなぁ、おれ。
ずっと「しらふ」でいる人生は、不自由である。
それは、そのとおりだし、ぼくもよく思うことだ。
でも、ここまで「しらふ」でやってくると、
「しらふ」の時間にこそ酔いを混ぜたりするようになる。
のんでないのに、酔っている「しらふ」もあるのだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こうして、たまに酒のこととか言いたくなるのは、なぜ?