SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ4/4(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・ずいぶん昔、映画評論家の淀川長治さんが、
 『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』
 というエッセイ集を出した。
 まだ二十代半ばだったぼくは、そのタイトルについて、
 「そんなの無理だ、なに言ってるんだ」と思っていたが、
 それを読むこともなく、なんとなく題名だけ憶えていた。
 著者の淀川さんという人をメディアで見ていると、
 口調はやわらかいが、思ったことをはっきり言う人で、
 どちらかといえば、けっこうな毒舌おじさんに思えた。
 この人が「嫌いな人に逢ったことがない」と言うのは、
 きっと、じぶんにそういうことを教えているのだろう。
 嫌いな人ばかりだと思って生きることと、
 嫌いな人なんかいないと思って生きることと、
 どちらでも、自由にじぶんで選べるのだ。
 それは、だって、じぶんの思いなのだから。
 淀川長治さんは、そう考えたことがあるのではないか。
 ぼくは、勝手にそういうふうに想像した。

 それは、同時にじぶんの気持ちのありようでもあった。
 「嫌いな人に逢ったことがない」と言うためには、
 まずは、ほんとうに
 「嫌いな人に逢わない」ようにするという方法がある。
 ぼく自身は、できるだけそうしようと思った。
 運よく、それはあんがいできるものだった。
 嫌いな人に逢わなくてもいいように生きるというのは、
 事情や都合を考えると、なかなかむつかしいが、
 真剣にやったらできないこととも言えない。
 実際、ぼくは嫌いな人にあんまり逢わずに済んでいる。
 そして、もうひとつの方法は、
 なんとか「こちらから好きになってしまう」。
 これはこれで、真剣にやったらできるものだったりする。
 「相手よりも、ぼくのほうが、相手を好きだ」
 という場面を、知恵と工夫とまごころでつくること。
 人間というのは、あんがいいいところがあるものなのだ。
 好きになってもらおうとするのは、こちらではなく、
 相手が決めることだからどうにもならない。
 こちらにできるかもしれないのは、
 じぶんで決められる「相手を好きになる」ことなのだ。

 あんがい、ぼくも「嫌いな人に逢ったこと」、少ないぞ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「私を嫌いな人に逢ったことがない」ってのは、どう(笑)