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SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

Twitterログ3/22(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

【・たとえば、である。「昨日、とうちゃんが死んだ。1年前にシロが死んだときのほうが悲しかった。」と書いてあったとしたら、それは「詩のことば」である。これが「社会のことば」であったとしたら、とうちゃんが亡くなったことを、悲しくないように言ってはいけないのである。しかも、それを犬だか猫だかの死とくらべているのは、ますますいけないことであろう。

世の中には「詩のことば」と「社会のことば」がある。アクション映画で、悪いやつがタバコを吸っていて、その吸い殻をそこらへんに投げ捨てる。それは「詩のことば」で描かれたものである。そして、クルマに乗って走り去るのだけれど、もちろんシートベルトはしない。この行為も「詩のことば」で語られているのだ。でも、悪いやつだからといって、映画だからといって、シートベルトをしないで運転するのはいけないからと、その悪い男がシートベルトをするなら、それは、「社会のことば」で語られたものになる。

「詩のことば」は、自由なのである。ほんとうは、自由であるはずだけれど、やや、そうでもないかもしれないという気もする。だから、思うだけで発せられない「詩のことば」もある。

「ぼくらは自由だ」というのは、「詩のことば」だ。「ぼくらは自由だ」という「社会のことば」もある。「あいつを傷つけたい」という「詩のことば」もあるし、「あいつを傷つけたい」という「社会のことば」もある。泣きながら語られる「社会のことば」もあったりする。冷静に、鬼のように語る「詩のことば」もある。

世界から、どんどん減っているのは「詩のことば」だ。すべてが「社会のことば」であっても、世界は成立する。だけれど「詩のことば」がなくなっていくと、それは、ただ「世界」ではあるのだろうけれど、「人間の世界」じゃなくなるようにも思う。それはいやだな、人間だものな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。詩の材料になるのは「沈黙」なのではないだろうかと思う。】