SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

Twitterログ2/6(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

《・学校で、たった400文字、原稿用紙1枚分の作文を書くのにも苦しんでいた人は、おそらく日本の人口の80%以上になるのではないか。そういうぼくも、80%のひとりである。それどころか、その後、半世紀も過ぎて、曲がりなりにもことばを商売にしている現在になっても、まだ作文をするのは気が重い。こんなことで、よく生きてこられたとも思うけれど、気が重いなりに不器用に1文字ずつ書き足してきた。日本の人たちは、みんななにか書くことについては、苦手そうなので、だれもなにも書かなくなっていく‥‥かと思ったら、そういうことにもならなかった。

学校の教育の場面での作文だとか、PTAのなにかに文章を頼まれるとかは苦しくても、多くの人たちは、ことばを使ったり書いたりしている。それは、作文というかたちではなく、親しい人どうしの「おしゃべり」としてだったり、ツイッターフェイスブックに書き込む「テキスト」として表現されているのだ。そして、さらには「ことば」ばかりでなく、学校では習ってないはずの、写真や動画、イラストレーションというようなかたちで堂々とおおぜいの読者の前に表現されていく。「作文」は苦手で、苦しく悩ましいのだけれど、表現はスイスイといくらでもできるじゃん、なのである。

作文の授業がわるかったというわけではないのだけれど、その延長線上には、「むつかしさ」ばかりが残ってた。どんなふうにそれを習ったのかは忘れたけれど、作文は苦しいものだという思いが、どうしてこんなに残っているのだろうか。

人は、ほんとは、いくらでも言えるし、書けるのだ。それがどうしてなのか、ぼくにはうまく説明できない。でも、実際に、みんなが表現しているではないか。うまいか、へたか、馴れているか、不馴れか、そういうちがいもあるだろうし、表現の分量の多い人や少ない人もいるのはわかる。だけど、人は、歩けるのと同じように、表現できる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。踊りや歌で表現する人もいるし、無口な人の表現もあるし。》