SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

Twitterログ 10/21(金)メモ貼り

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・ぼく自身の見栄の歴史を振りかえってみた。
 30代そこそこのころは、ぼくも多少は見栄っ張りで、
 海外ロケなんかに行ったときに、
 ちょいと生意気な腕時計なんかを見に行って、
 うれしそうに買ったりしていた。
 コレクションに至ることもなく、
 だんだんと飽きてしまうのだけれど、
 それくらいの見栄は張っていたということだ。
 たぶん、それが値段の高いものだと思っていたから、
 そいつを買えるようなじぶんによろこんでいたのだろう。

 高いものというと、時計か、クルマで、
 フリーという立場で暮らしていると、
 そのへんのものを高いものにしておかないと、
 なんだかギャラを値切られるような気がしていたのかな。
 いや、それよりは、時計だのクルマだのを、あれこれ、
 品定めする仲間になめられたくなかったのかもしれない。
 そうだなぁ、たいていの見栄は、
 仲間うちでの「なめられたくない」が奥底にありそうだ。

 やがて、多少なりともという程度の見栄には、
 だんだん飽きてきてというか、
 見栄というものが、たぶん、流行らなくなって、
 さまざまな値段の高いものは、
 あんまりかっこよくないな、という気分になってきた。
 服でも、清潔さは大事だけれど、高そうというのは、
 どうも表現したいことじゃないなと思うようになった。
 もともとが、いかにも小物っぽい見栄のことだから、
 やめるのもいかにも小人物っぽい動機なんだと思う。
 憎むほどではなかったが、高そうな時計とかは、
 どこかの引き出しの奥に、ひっそりと幽閉されていた。
 思えば、それはそれで、自由なふるまいではなかった。

 最近、隠されていた時計が、ひょいと目にふれた。
 三十年以上も昔のものが、ちょっとかわいく思えた。
 オーバーホールに出して、使うことにした。
 若いときのじぶんのアホさを、否定するのではなく、
 続きを引き受けてやろうと思ったのかな。
 見栄も、古くなるといい具合に摩耗してくれて、
 元々の、時計そのものになってくれるのかもしれない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
否定じゃないやり方を、いろいろ探せるようになったのか。