SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

Twitterログ 8/31(水)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)という彫刻家は、
 107歳まで生きた人だ。
 じぶんの年齢が100歳を越えてからも、
 あと何十年も彫刻ができるほどの木材を仕入れていた。
 この話は、ぼくがずっと若いときに聞いたのだけれど、
 そのときには、その芸術家のことを、
 生命力の強い、愛すべき変人のように思っていた。

 しかし、いまじぶんが少しだけではあるが、
 昔よりは少々100歳に近づいて、そこで考えてみると、
 あんまりおもしろおかしいエピソードには思えない。
 彫刻をやっていた人が、この先も彫刻をやりたいと、
 そう思って材料を手に入れることに、
 なんの不思議があるだろうか。
 今日でやめるとか、もう来年あたりにやめようとか、
 そんなことを考える必要もないのだし、
 彫刻をするのは日々の生活なのだから、
 息をするように彫刻をしているのだから、
 じぶんの年齢が100歳だからといって、
 やめる理由などはなんにもないと思えるのだ。

 つまり、どう言おうか、その、
 今日彫っていることと、明日彫ることは、
 ぜんぜん別のものではないわけで。
 今日と明日と明後日と明明後日とは、
 ひとつの生活、ひとつのいのちとして、
 みんなつながっているのだから、
 彫刻の材料が無くなってしまうのは
 明日や明後日といういのちの一部分が
 無くなってしまうことなのだ。
 ‥‥ああ、他人のことだからか、うまく言えないなぁ。

 身ひとつで、おぎゃぁと生まれてきた赤ん坊が、
 さまざまな、もしかしたら余計なものを身につけていき、
 成長してひとりの人間になっていく。
 そして、あとで身につけていった余計なものも含めての
 まるごとが「わたし」になってしまう。
 長い長い時間を、彫刻する人として生きてきた彫刻家は、
 それを生み出す行為や、彫刻や、その材料も含めての
 「わたし」だったのだろうなぁと、ぼくは思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくもあなたも、なにか余計なものを含めての「わたし」。