いわば「普通と変」のシーソーゲーム
日常生活の中で皆さんもよくやられていることかもしれません。
僕は恋愛については全然さっぱりわからない鈍感者のようなので、「エゴとエゴのシーソーゲーム」についてはさっぱりです。
いや〜馴染み深くていい曲です。
ですが、恋愛よりもっとよく感じてしまう疑問が「普通と変のシーソーゲーム問題」。
(注意。思いついたまんまに書くので、抽象的でまとまりもなく、重複する部分もあるでしょう。お気をつけください。)
常日頃、楽しくあるためにはどんなバランスゲームが心地いいのかなって思ってしまうわけです。
バランスゲームというのは、僕個人としては「 普通と変の境界線が無くなれば楽チンなのに。」と思ってしまうんだけどそれは無理な話なので、どうすれば意識的に良いバランスを保てるかを考える(考えてしまう)ということです。これは自分の頭の中よりも、「外」に何かをもとめる時のために、が強いかと思われます。
まず前提として、自分は「変だね」って言われることが多いようです。それについては嬉しいも悲しいもなく、「そんな風に感じてもらえるんだ。」っていう事実認識が増えるくらいです。そこから「じゃあどこらへんから普通で、どこらへんから変なんだろう。」ということを無意識に探してしまいます。常にすり合わせ作業です。
「別にどっちでもいーじゃん。」という意見もごもっともです。でもそれは、どちらかといえば元々バランス感覚が持てている人の考え方な気がします。元々偏っている(ようです)自分としては、どうすれば「相手を傷つけないで楽にいてもらえるか」、これを最低限意識的にできないといけないなと思っています(思ってしまいます)。そのためにシーソーがバッタンバッタンよく動くわけです。
ちなみに、自分は人が「変だね」って言っている時の表情というか雰囲気をよく見てしまう気がします。それは自分に対して言っている時だけじゃなく、あらゆることに対してです。そこに、その人の感受性を感じてしまうからです。
例えば。どんなことに熱を持っている人なのか、多くを吸収したいという好奇心や穏やかさがあるのか、とか。
たくさんのものを見て聞いて嗅いで触って味わってきて、その多くによってその人の「普通」が作られて広がっていく上で、「変」だと感じるものをどのように扱うのか。その人の外側に対する姿勢が見え隠れします。
僕が好きだと感じる人たちは、「変」に対して「笑顔」か「怒り」でした。「変なの〜。」って優しく受け止めるかイジったりできる人、または人を傷つけるような「変な出来事」に対して「絶対に納得しない。」と熱を持ち続けてくれる人です。
「変」に対して、「冷めた」態度の人は、総じて「凝り固まったつまらない人」だったと記憶しています。これは僕の好き嫌いの話です。なかなか多くのことに対して言い切れない自分も、これは確かでした。その様には一生ならないように気をつけたい。
最後に。「ちなみに」が一番長くなってすみません。笑
最初書いてみたかったことよりも途中で思い出したことの方が熱を持って書いてしまうことが多々あるようです。頭の中をまとめられるようにも気をつけたい。