SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

ログ5/6(土)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・繊細であるとか、感受性が強いとかは、
 わりと価値の高いことのにように言われる。
 逆に、神経が太いとか鈍いとかはややばかにされます。
 
 感じやすくていいことも、あるとは思いますが、
 それは、そんなにいいこととも限らない。
 火災報知器なんかのセンサーの感度が
 ちょっと高めに設定されていると、
 ちょっと魚が焦げたくらいでブザーが鳴ってしまいます。
 
 ほんの少しの化学調味料を感じられる人の、
 「舌がぴりぴりして、吐きそうになる」
 というような声を聞いていると、気の毒だなぁと思うし。
 傷つきやすいとか、肌が弱いとか、胃が悪いとか、
 本人たちもつらいということだろうなとも思います。
 
 まぁ、そんなことを言っているぼく自身も、
 感じやすいところと、鈍感なところの両方があって、
 鈍でどんどん押してこられると逃げ出したくなるし、
 感じやすさゆえの痛みについて訴えられても、
 戸惑うしかないし、敬遠したくなったりもします。

 ただ、ぼくは、鈍なほうに鈍なほうに歩んでいこうと、
 練習を続けてきたように思います。
 どう言えばいいんだろう、つまり、
 センサー感度高いのも、わるいわけじゃないけど、
 「感じることそのものよりも、
 なにかすることが目的なんだからさ」と思ったのです。
 感じたことを物語にして表現するにしても、
 「表現する」ということを「する」わけですよね。
 そこには、感じたことを切ったり削いだりするという、
 ある種の暴力的な決断が要ると思うんですね。
 どこまでも繊細に感じ続けていても、
 それをいったん止めて「なにかする」のでなくては、
 ただの線の切れたセンサーになってしまいます。
 どうしても、そこでは鈍にならざるを得ないでしょう。

 そうは言っても、鈍を磨きぬいたのか、「感じる」ことを
 すっかり忘れちまったような人にはなりたくないわけで。
 そういう往復運動そのものが、わたくしなのですね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いつになったら、ぼくは『今日のダーリン』を休むのか?!

Twitterログ5/1(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・何人もの友人たちが、
 ポール・マッカートニーのコンサートに行って、
 よかったよかったという感想を述べている。
 きっと、よかったんだろうなぁ。
 想像してた以上によかった、という声が多い。
 音楽としても、ショーとしても、なつかしさも、
 ぜんぶとてもよかったのだと思う。
 
 どうして、ぼくはそのコンサートのことを知ったときに、
 「行かなくていいかな」と言ったのだろうか。
 なんとなく、行かなくてもいいやと思った理由が、
 うまく説明できないままでいる。
 好きすぎるからがっかりしたくない、というのではない。
 もともと、そういう熱を帯びた好きさとは縁がない。
 あえていえば、ビートルズはもう酸素のようなものだ。
 嫌いなはずもないし、飽きているというものでもない。
 ジョン・レノンのほうが好きだったから、でもない。
 ポールがどれくらいビートルズだったか、よく知ってる。
 わからないのだ、どうして行かないと言ったのか。
 億劫で、コンサートだとかイベントに行きたくない、
 というわけでもない、勇んで行くイベントも現実にある。
 
 ただ、どうして「行かなくていい」と決めたのだろう、
 と、あらためて考えているというのもへんな話だ。
 無理やりに、その理由を考えてみた。
 もしかしたら、と思える答えは、たったひとつだ。
 「いまのぼくに関係ないから」なのではないだろうか。
 もちろんビートルズの、あるいは
 ポール・マッカートニーの音楽は無くなったら困る。
 しかし、ぼくのいまの毎日のなかに、
 このステージは、縁のないものに感じられたのだ。
 もちろん、勝手にそう感じたというだけなんだけどね。

 どう言ったらいいんだろう、いまのぼくは、
 なんか些細なことでもいいから、
 じぶんの明日を変えてくれそうなものか、
 とても疲れを癒してくれるものかの、
 どちらかを求めているように思うのだ。
 ポールが、そのどちらでもないように思えたのかなぁ。
 ほんとの気持ちは、じぶんでもよくわからないままだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
これを書き終えたら、『モモ』を読み直してみる予定です。

 

(これか?)

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Twitterログ4/29(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・金曜日の夜に、ミーティングを終えて帰るとき、
 「しばらくお会いできませんね」と言われた。
 冗談めかして「さみしい?」と言ったら、
 「そういうの、はじめてだから、みんなが」と返事。
 そっか、たまには来る予定もあるんだけどね、会社に。

 5月はひと月、ぼくは休みをとることにしていた。
 ずいぶん前から決めていたことで、
 ぼくが、会社にあたりまえにいるという環境を、
 変えようということがひとつ。
 そして、ぼく自身、ひとりであれこれに対面する時間を、
 ずっと持ってなかったので、それをしようということ。
 19年近く、ずっと「ほぼ日」に
 閉じこもっていたような気がするので、
 ぶらぶらと外に出かけてみようというわけだ。
 
 すでに、半月分の予定は決まってしまった。
 ゴールデンウィークは、いつものように京都にいるし、
 そこではひとりじゃなくて、家族がいっしょである。
 東京に戻ってから、会社にくる日も、すでに決まってる。
 「そのミーティング、おれも入れてくれ」と、
 じぶんから頼んで参加させてもらうことにしたからだ。
 会社の来し方行く末について、合宿で話しあう日もある。
 親しい料理屋さんに、ひとりで行く予定も決まっている。
 それでも、そうとうにぶらぶらである。
 想像すると、すでにちょっとさみしいというか、
 しんみりしてしまうようなここ数日であった。
 
 そのしんみりを身につけ直すために、休むのである。
 浜辺のにぎわいのなかで笑いあっている時間よりも、
 水平線の向こうにいくつもりで浮かんでいよう。
 そんな孤独を、ぜいたくに味わう予定の5月なのである。
 しっかりと退屈したり、さみしく腹を減らしたり、
 大尽のように温泉につかったり、うたた寝をしたり、
 とぼとぼと迷い道を歩いたり、疲れたら帰宅したり。
 そんなふうな、わがまま放題の旅の日を過ごすのだ。
 ひょいと、あなたの道ですれちがうかもしれない。
 締切りのある仕事を、どこかの駅でしてるかもしれない。
 この『今日のダーリン』についても、どうしようかな。
 書くときは書くし、書かないときには書かないのかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんか、いろんなことが変化してても、気にしないでね

Twitterログ4/28(金)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・こどもが生まれたときに、
 親は、「じぶんのこども」ができたと思う。
 「授かりもの」という言い方もあって、
 人よりも上の、神さまだとか、天だとかから
 与えられたという考えもあるけれど、
 それにしたって「あたえられた、じぶんのもの」だ。
 しかし、もうひとつの考えがあって、
 それは「預かりもの」ということばで表現される。
 じぶんのものじゃなくて、じぶんが預かっているもの。
 ぼくは、こどもについては、できるだけ
 この「預かりもの」であると思うようにしてきた。
 所有物じゃないというところまでは確かに言えるけれど、
 「預かりもの」だと本気で思えるかといえば、
 やや自信がないかもしれない。
 でも、強くそう思うようにしてきたつもりだ。
 
 こどものことを「預かりもの」だと思う気持ちは、
 ずいぶんと応用が利くということもわかった。
 妻も、思えばじぶんのものじゃなく「預かりもの」だ。
 大事にしなきゃいけない、勝手にできるものではない。
 犬だとか猫だとかも、「預かりもの」だと言える。
 こっちのほうが、妻や夫についてよりもわかりやすい。
 実際に、保護犬や保護猫の「預かりさん」を
 していてくれる人たちが、たくさんいる。
 こんなふうに考えていくと、「所有」というものが、
 あんまり必要ない概念のようにも思えてくる。
 家だとか、クルマだとか、財産と呼ばれているものも、
 法的な「所有」がはっきりしているとしても、
 それを「預かりもの」だというふうに思い直したら、
 いっそう大切にできるかもしれない。
 さらに言えば、じぶんの貯金通帳に記されている
 「じぶんのお金」にしたって、
 「預かりもの」だと考え直してみることはできる。
 預かっているけれど、使ってもいいお金。
 それなら、大切に使うほうがいいに決まっている。
 できたら、じぶんだけがよろこぶのではなく、
 他の人たちもよろこんでくれるように使うほうが、
 預けられている者として満足がいくのではないか。
 すべてに「所有」のシールが貼ってあるような時代に、
 すべて「預かりもの」と貼り直したら、どうだろうね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「預かりもの」という考え、水くさいと思われるかもなぁ。

Twitterログ4/27(木)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・東京タワーは、おそらくエッフェル塔がなかったら、
 誕生しなかったのではないかと思う。
 鉄骨を組み上げてむやみに高い塔を立てるということが、
 アイディアとしてひょいっと出てくるかどうか、
 また、あのようなかたちでできたかどうかを想像すると、
 やっぱりちょっと考えにくいものがある。
 エッフェル塔という「モデル」があったせいで、
 その後の世界にエッフェル塔的なものが増えていたのだ。
 
 人間の姿かたち、装いの流行などにも、
 もちろん「モデル」の存在が大きく影響している。
 「矢沢永吉」にしても、「木村拓哉」にしても、
 その後に「永ちゃん的」な人びとやら、
 「キムタク的」な人びとをたくさんつくることになった。
 ヘアスタイルや、服装、ことばのくせ、趣味嗜好などが、
 人びとに憶えられ、コピーされることで、
 「モデル」の役割は強められていく。
 雑誌の「モデル」が、実際にたくさんの読者たちの
 「元コピー」になっているのだけれど、
 職業名としての「モデル」は、いまの時代には、
 存在として「モデル」の役割をしているのだと思う。

 「モデル」があることによって、
 その「コピー」がしやすくなる。
 賛成、反対、憧れ、軽蔑、なんでもしやすくなる。
 「あれみたいなもの」だとか「あの人みたいな存在」とか
 すぐに目に見えるように語り合える。
 いろんなものごとを、どうにかしようと思うときには、
 あれこれすべての準備を整えるなんてことより先に、
 「モデル」が動き出すことが大事なんだよね。
 「うまくいったら、ああなるのか」という「モデル」が、
 元気で動き出せば、その先の未来に行って見たくもなる。
 お役所は、平等に公平にというルールを重要視するから、
 ぴょんと飛び抜けたものをつくりにくいんだ。
 でも、民間の場合には「お先に!」という挨拶とともに、
 「モデル」を生み出すことができるんだよね。
 2011年からいままでの東北復興の「モデル」って、
 なにがあったんだろうと考えるんだけど、
 なかなか、そういうものが思いだせないんだよな。
 それが「東北タワー」だとは言えないんだけどねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば、お金ってのは、価値というもののモデルだね。

Twitterログ4/26(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・家のなかに、あれがあったりそれがあったりするが、
 そのあれやらそれやらが、どこにあるのか知らない。
 留守番しているときなんかに、家のことなのに
 「知らなすぎるかなぁ」と思うことがある。
 知ってることは、ほんの少しだけなのかもしれない。

 そういえば、知りあいに昔聞いた話。
 「離婚してからさ、荷物の整理してて初めて知ったのは、
 女房が近眼だったということだよ。
 メガネのケースだとか、コンタクトだとかあったんだ。
 おれは、まったく知らなかったんだ」
 そんなに驚くことではないのかもしれないが、
 十年以上いっしょに暮らしていても、
 その相手が近視だということを知らないことはある。
 ぼくも、その話を聞いてちょっと笑ったけれど、
 じぶんだって、家人のことについて、
 なにを知らないのかさえ、知らないのだとも言える。
 もっと言えば、ぼくは、ぼく自身のなにを知っている?

 そう思ったら、会社のことはどうだろうかとも思う。
 ずいぶんたくさんのことを知っている。
 知らなければいけないことを、おそらく知っている。
 いや、知っていることになっているとも言える。
 しかし、知ってることと同じように、
 残念ながら、知らないこともあるはずだ。
 知らないことさえ知らないままのこともありそうだ。

 じぶんの関わってない会社やらのことなんかは、
 ほんとうに、まったくなにも知らない。
 けっこう知ってるようなつもりでいたとしても、
 おそらく「なんにも知らない」に近いんじゃないかな。
 よその国で起こっていることなどは、
 ニュースで3分ほど語られる内容くらいは知っている。
 で、さて、それは、知っていると言えるのだろうか。
 テレビでよく見るタレントさんのことも、
 たくさん知っているように思いこんでいるけれど、
 ほとんど知らないと言ったほうがいいだろう。
 ぼくらは、毎日、毎日、
 たくさんのことを知ってるつもりになって、
 たくさん決めたり、裁いたり、憂えたりしている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
知ってると思ってたことがじゃまになる場合も、よくある。

Twitterログ4/25(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・こどものとき、長嶋茂雄さんの、選手時代の色紙に、
 「好球必打」と書いてあるのを見て、それを記憶した。
 意味は、「いい球がきたら、必ず打つ」ということだ。
 これ以上の意味はないだろう、小学生でもわかった。
 「いい球を打つ」って、当たり前だろうと思った。
 しかし、ずっとそのことばを忘れないままでいた。
 いま、「好球必打」ということばが、とても好きだ。

 打席に立ったとき、いい球がくるとは限らない。
 打ってはいけない球、打つのがむつかしい球を、
 投手は投げてくるに決まっている。
 「いい球」なんかひとつも来ないかもしれないのだ。
 その「好球」が来ただけでもうれしいことで、
 そいつは、必ず打つべきなのである。
 見逃してもいけないし、いい加減に打つのもいけない。
 「必ず打つ」のである。
 
 いい球がきたら、考えてちゃいけない。
 「好球考打」なんてものはない。
 どんな球でも打ってみせるぜ、なんて過信しちゃだめだ。
 「全球必打」ということも、ありえない。
 「好球必打」とは、チャンスに誠実にあれ、である。
 
 かつて、ぼくは、初心者のときに感じたはずの
 「打席に立てるよろこび」を忘れちゃいけないと書いた。
 打てる場にいるからこそ、打てる可能性がある。
 どれだけ打席に立てるかが、ヒットの数を決めてくれる。
 そして、「好球必打」だ。
 恵みの「好球」を、必ず「打て」だ。
 見逃すんじゃない、考えるんじゃない、ありがたく打て。

 以上は、ぼく自身に向かって言っている。
 ぼくらは、いや、ぼくはグラウンドにいて、試合中だ。
 打席に立つことをよろこべ、そして、「好球必打」だ。
 だれが? ぼくが、打って走るのだ。
 打席のなかで論じるな、考えるな、見ろ、好球を待て。
 打てる球は、絶対にくるはずだ、ほら、今日もまた。 
 長嶋茂雄の色紙のことばを、憶えていてよかった。
 朝から、夜まで、いくつもいくつもいい球がくる。
 眠ってるんじゃなかったら、「そいつを必ず打て!」。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
毎日、好球を見逃し悪球に手を出し、居眠りしてるわしら。