SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ4/27(木)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・東京タワーは、おそらくエッフェル塔がなかったら、
 誕生しなかったのではないかと思う。
 鉄骨を組み上げてむやみに高い塔を立てるということが、
 アイディアとしてひょいっと出てくるかどうか、
 また、あのようなかたちでできたかどうかを想像すると、
 やっぱりちょっと考えにくいものがある。
 エッフェル塔という「モデル」があったせいで、
 その後の世界にエッフェル塔的なものが増えていたのだ。
 
 人間の姿かたち、装いの流行などにも、
 もちろん「モデル」の存在が大きく影響している。
 「矢沢永吉」にしても、「木村拓哉」にしても、
 その後に「永ちゃん的」な人びとやら、
 「キムタク的」な人びとをたくさんつくることになった。
 ヘアスタイルや、服装、ことばのくせ、趣味嗜好などが、
 人びとに憶えられ、コピーされることで、
 「モデル」の役割は強められていく。
 雑誌の「モデル」が、実際にたくさんの読者たちの
 「元コピー」になっているのだけれど、
 職業名としての「モデル」は、いまの時代には、
 存在として「モデル」の役割をしているのだと思う。

 「モデル」があることによって、
 その「コピー」がしやすくなる。
 賛成、反対、憧れ、軽蔑、なんでもしやすくなる。
 「あれみたいなもの」だとか「あの人みたいな存在」とか
 すぐに目に見えるように語り合える。
 いろんなものごとを、どうにかしようと思うときには、
 あれこれすべての準備を整えるなんてことより先に、
 「モデル」が動き出すことが大事なんだよね。
 「うまくいったら、ああなるのか」という「モデル」が、
 元気で動き出せば、その先の未来に行って見たくもなる。
 お役所は、平等に公平にというルールを重要視するから、
 ぴょんと飛び抜けたものをつくりにくいんだ。
 でも、民間の場合には「お先に!」という挨拶とともに、
 「モデル」を生み出すことができるんだよね。
 2011年からいままでの東北復興の「モデル」って、
 なにがあったんだろうと考えるんだけど、
 なかなか、そういうものが思いだせないんだよな。
 それが「東北タワー」だとは言えないんだけどねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば、お金ってのは、価値というもののモデルだね。

Twitterログ4/26(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・家のなかに、あれがあったりそれがあったりするが、
 そのあれやらそれやらが、どこにあるのか知らない。
 留守番しているときなんかに、家のことなのに
 「知らなすぎるかなぁ」と思うことがある。
 知ってることは、ほんの少しだけなのかもしれない。

 そういえば、知りあいに昔聞いた話。
 「離婚してからさ、荷物の整理してて初めて知ったのは、
 女房が近眼だったということだよ。
 メガネのケースだとか、コンタクトだとかあったんだ。
 おれは、まったく知らなかったんだ」
 そんなに驚くことではないのかもしれないが、
 十年以上いっしょに暮らしていても、
 その相手が近視だということを知らないことはある。
 ぼくも、その話を聞いてちょっと笑ったけれど、
 じぶんだって、家人のことについて、
 なにを知らないのかさえ、知らないのだとも言える。
 もっと言えば、ぼくは、ぼく自身のなにを知っている?

 そう思ったら、会社のことはどうだろうかとも思う。
 ずいぶんたくさんのことを知っている。
 知らなければいけないことを、おそらく知っている。
 いや、知っていることになっているとも言える。
 しかし、知ってることと同じように、
 残念ながら、知らないこともあるはずだ。
 知らないことさえ知らないままのこともありそうだ。

 じぶんの関わってない会社やらのことなんかは、
 ほんとうに、まったくなにも知らない。
 けっこう知ってるようなつもりでいたとしても、
 おそらく「なんにも知らない」に近いんじゃないかな。
 よその国で起こっていることなどは、
 ニュースで3分ほど語られる内容くらいは知っている。
 で、さて、それは、知っていると言えるのだろうか。
 テレビでよく見るタレントさんのことも、
 たくさん知っているように思いこんでいるけれど、
 ほとんど知らないと言ったほうがいいだろう。
 ぼくらは、毎日、毎日、
 たくさんのことを知ってるつもりになって、
 たくさん決めたり、裁いたり、憂えたりしている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
知ってると思ってたことがじゃまになる場合も、よくある。

Twitterログ4/25(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・こどものとき、長嶋茂雄さんの、選手時代の色紙に、
 「好球必打」と書いてあるのを見て、それを記憶した。
 意味は、「いい球がきたら、必ず打つ」ということだ。
 これ以上の意味はないだろう、小学生でもわかった。
 「いい球を打つ」って、当たり前だろうと思った。
 しかし、ずっとそのことばを忘れないままでいた。
 いま、「好球必打」ということばが、とても好きだ。

 打席に立ったとき、いい球がくるとは限らない。
 打ってはいけない球、打つのがむつかしい球を、
 投手は投げてくるに決まっている。
 「いい球」なんかひとつも来ないかもしれないのだ。
 その「好球」が来ただけでもうれしいことで、
 そいつは、必ず打つべきなのである。
 見逃してもいけないし、いい加減に打つのもいけない。
 「必ず打つ」のである。
 
 いい球がきたら、考えてちゃいけない。
 「好球考打」なんてものはない。
 どんな球でも打ってみせるぜ、なんて過信しちゃだめだ。
 「全球必打」ということも、ありえない。
 「好球必打」とは、チャンスに誠実にあれ、である。
 
 かつて、ぼくは、初心者のときに感じたはずの
 「打席に立てるよろこび」を忘れちゃいけないと書いた。
 打てる場にいるからこそ、打てる可能性がある。
 どれだけ打席に立てるかが、ヒットの数を決めてくれる。
 そして、「好球必打」だ。
 恵みの「好球」を、必ず「打て」だ。
 見逃すんじゃない、考えるんじゃない、ありがたく打て。

 以上は、ぼく自身に向かって言っている。
 ぼくらは、いや、ぼくはグラウンドにいて、試合中だ。
 打席に立つことをよろこべ、そして、「好球必打」だ。
 だれが? ぼくが、打って走るのだ。
 打席のなかで論じるな、考えるな、見ろ、好球を待て。
 打てる球は、絶対にくるはずだ、ほら、今日もまた。 
 長嶋茂雄の色紙のことばを、憶えていてよかった。
 朝から、夜まで、いくつもいくつもいい球がくる。
 眠ってるんじゃなかったら、「そいつを必ず打て!」。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
毎日、好球を見逃し悪球に手を出し、居眠りしてるわしら。

Twitterログ4/23(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・じぶんたちの長所と、短所を知って、
 長所を伸ばすようにすること。
 なににも増して、これが大事なことです。
 それしか考えなくていいくらいかもしれません。
 そう言ったのは、岩田聡さんだった。
 もう二十年近くも前のこと。

 「ほぼ日」をはじめて、間もないころだった。
 ぼくは、それまでのほとんどの時間を、
 フリーランスとしてやってきてたから、
 チームを率いていく経験はほとんどなかった。
 得意なことはなにか、不得手なことはなにか。
 それがわかっていて、得意なことをさらに得意にする。
 口で言うのはかんたんだけれど、
 それがほんとうにわかるのは、なかなかむつかしい。

 まず、なにが得意なのかがわからない。
 そんなものがあるのかどうかも、まったくわからない。
 わからないものは伸ばしようもない。
 なのに、不得意なものごとについては、
 いくらでも思いつくし、それをなんとかしたくなる。
 そうすると、いつのまにか、
 苦手なこととばかり格闘することになる。
 得意を探すことなど、さらにできなくなっていく。 
 ぼくは、いまだに、長所がなんであるのか、
 よくわからないままでいる。
 だから、いまでも、それを伸ばすことができてない。
 そんなふうに思えてならない。

 しかし、ちょっとした思いつきが生まれた。
 長所も短所も、探さないという方法もあるのではないか。
 動きやすいほうに動く、ということ。
 やっていておもしろいことをする。
 やってもやってもやっていたいことをする。
 したくないことをするなとは言わないが、
 やりたくないことには、注意深くなくてはならない。
 これは、自然に得意なことをしていくことになりそうだ。
 長所を探していくのではなくて、長所を生きる。
 それをくりかえしているうちに、得意になる。
 そういうことで、どうだろうねー、岩田さん。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
無理をしないと続けられないことは、きっと長所じゃない。

Twitterログ4/22(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

矢野顕子は、作曲、歌、ピアノの他、作詞もすばらしい。
 「つくりたいときに、つくる」「できたとき、歌にする」
 というスタイルの作詞家だものだから、
 いいものばかりになってしまうのは、しょうがないさ。
 なかでも、ぼくがとても好きなのは
 『ひとつだけ』という曲の歌詞である。
 アンダーラインを引きたいほどいいのは、
 「いちばん楽しいことは 
 あなたの口から あなたの夢 きくこと」というところ。
 若さがあって、大好きな気持ちがあって、未来があって、
 口のほうにも、耳のほうにもなりたくなる。
 
 恋愛ばかりではないとも思うのだが、
 「こっちをじっと見てやさしくしてくれる人」よりも、
 「どこか向こうをうれしそうに見ている人」のほうが、
 惚れさせちゃうんじゃないだろうか。
 なにかに真剣で、夢中になっている人はかっこいい。
 そして、その横にいっしょにいてみたいと思わせる。
 アイラブユーと何万回も言ってくれるよりも、
 黙って新しい世界への手を引いてくれるほうが、
 「いちばん楽しいこと」、というわけだ。

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、
 「ごきげんをうかがっている」より、
 「思ったことを思いっきりやってくれ」ということ。
 それは、男と女の関係だけでなく、大人とこどもでもね。
 「どこに行って、なにがしたいの?」と訊ねて、
 それを実現してくれる大人よりも、
 うれしそうに「こっちへ行こう」と
 連れていってくれる大人のほうが、
 こころの奥に思い出を残してくれるのではないだろうか。
 
 いやいや、これは、ぼく個人の考えで、
 「そんなことないよ、大反対」という意見もありそうだ。
 娘が幼いころに、プロ野球観戦やらキャンプやら、
 じぶんが真剣になる場所に連れていったことについての、
 言い訳をしているように聞こえるかもしれない。
 でもね、相手のためばかりを優先して、
 「やってあげている」なにかというのは、
 ほんとうには、どっちも楽しめてないものだと思うよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人がうれしそうにしている様子は、だいたい魅力的だよね。

Twitterログ4/21(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・「やりとり」、漢字で書くと「遣取」。
 やったりとったりすることだ。
 「交換」ということだ。
 これが、ものすごく重要なことなんだよね。

 「吸う吐く」、つまり「呼吸」も酸素の「やりとり」。
 「交通」「往来」なんて、まったくの「やりとり」。
 「貿易」、これも「やりとり」で。
 「収支」も当然「やりとり」だ。
 「交際」、もちろん「やりとり」。
 「試合」も「やりとり」だし、
 「ゲーム」やら「戦さ」も、「やりとり」だ。

 「やりとり」が停滞しているとか、止まっている場合、
 活性がなくて、眠っているとか、死んでいるとかだ。

 うちの犬を見ていると、幼いころからずっと、
 世界と意味もなく「やりとり」していたが、
 このごろは老犬になって、「やりとり」の量が少ない。
 ぼくとの関係も、むろん「つながり」はあるけれど、
 「やりとり」はすっかり少なくなってきている。
 ぼくのほうから、一方的になでているくらいのものだ。

 人間の活動も、「やりとり」から遠ざかることを、
 「充電」とか「準備」とか言ったりするけれど、
 ほんとは「やりとり」しながらの「充電」がいい。
 
 前に、ネパールのライくんと話していたときに、
 彼が、「ネパールは、海がないので貿易がやりにくい」
 というようなことを言っていた。
 そういえば、栄えている都市は、大きな港を持っている。
 なにかが来て、なにかが行く、入れて、出す。
 その「やりとり」のなかに、繁栄もあるということだ。
 ネパールは、陸地で、高地で、つまり海から遠いので、
 なにかを持ってくるにしても、持ち出すにしても、
 いちいちよいしょよいしょと運ばなきゃならない。
 売るも買うも入れるも出すも控えめにならざるを得ない。
 「これをつくって売ろう」だって、やりにくいわけだ。
 国も、人も会社も、港が活発に「やりとり」してなきゃ、
 成長することも、よろこばれることもむつかしいよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「放電」できないと「充電」もできない、ということもね。

Twitterログ4/20(木)