SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ4/12(水)ほぼ日メモ、メモ

今日は、ある書籍の一部分が引っかかったので、そこをメモっておきたい。

 

題名:考えの整頓

著者:佐藤雅彦

 

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「たくらみ」の共有

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「謀」つまり企みが、一体感を生むこの独特の感じは、何か他にも自分の『記憶の棚』のどこかにもあった気がして、内省し、探索してみた。すると、果たしてあるひとつの出来事が見つかった。

中学生の時の事である。父兄参観日の前日のホームルームでこんな意見が出た。

「先生、明日、これわかる人って問題だすの、やめてほしい。俺、絶対手を挙げられないから、母親が恥をかく」

それに対して、先生は、ちょっと考え込んで、こんな策を提案した。

「じゃあ、わからなくてもわかっても手を挙げろ、ただし本当にわかる人はパーを、わからない人はグーを出せ」

 

かくして、父兄や見廻りの校長・教頭が目を見張るほどの活気あるクラスが当日できあがった。そこで父兄が見たものは、なぜか、いきいきとした楽しいクラスの様子だったと思う。先生の機智に富んだ企みの下、私たちは何か愉快だった。答えがわかる者もわからぬ者も平等に愉快だった。あの一体感は幸せに溢れるものだった。いつもは、授業に斜に構えて臨む不良も思いきり手を挙げた。

〜〜〜

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この先生、天才。

・答えがわかる者もわからぬ者も平等に愉快だった。

・いつもは、授業に斜に構えて臨む不良も思いきり手を挙げた。

この雰囲気が、なぜか、手に取るようにわかる気がします。頭のいい悪い・声の大小に関わらず、クラス内の個人・グループが「それぞれに楽しみつつ一体感を感じられた」、それがパッと想像できるんです。「それぞれ・全体が両立できる」、良い企みの大事な要素じゃないかな、と。

そしてきっとこの企みが、この授業だけでなく、その後の授業やそれに臨む生徒にも大いに影響したんじゃないか、と強く思います。

 

またひとつ面白いのは、この良い企みは、父兄参観といういわゆる「めんどくさいタイミング」に「図々しくモノを言える生徒」がいたからなり得た、ということ。

普通の生活の中で、生徒が「これわかる人って問題だすの、やめてほしい。」と先生に言っても、なんでやねんとつっこまれて終わりだったと思う、当然だけど。それを、親(校長・教頭含め)の第三者の目を意識させ(責任転嫁?笑)、良い意味で先生も生徒も一丸と「ならざるを得ない」タイミングだったことで、なんとまあ面白くて優しい企みが出て、一体となることができたんじゃなかろうか。ある種の「図々しさ」とも取れることを素直に言えるということも、その人の良さのひとつだよなとつくづく思う。

 

 

今回この文章からの感触に、とても大事なものがある気がしてならなかったので、忘れないようにメモらせてもらいました。忘れません。

 

 

 

 

今日のダーリンより

・たぶん、いまの若い人たちは
 「殺し屋」というぶっそうな単語を聞いても、
 ちょっと古いけど一般的なことばだと思っているだろう。
 しかし、このことばが、ひとつの流行語のように
 ふつうの人びとの前に登場してきたのは、
 おそらく戦後の高度成長期のいつごろかだったと思う。
 それほど古くからあったわけじゃないのだ、おそらく。
 ある時期から、「職業として人を殺す人間」のことが、
 語られるようになっていった。
 「そんなことまで、職業にできるのか」という驚きと、
 「そんな職業が現れる時代になったのか」という嘆きが、
 世間の人びとの興味を引いたのだろう。
 「殺し屋」は、ドラマの重要な登場人物に育っていった。

 他人の生命を奪おうとするには相当の覚悟と決意が要る。
 そういう事件があったときに、警察などが、
 「殺害するにいたる動機」を調べるのは、
 理由もなしに人を殺す者などは、なかなかいないからだ。
 ところが、「殺し屋」という職業の「代理人」だと、
 その動機の部分が、見えにくくなるはずだ。

 「殺し屋」というものが、うまく仕事をできるのは、
 当事者でなくて、「代理人」だからである。
 なにかの問題の当事者だとうまくできないことも、
 「代理人」を間に入れて距離をとると、
 うまくいくことがとても多くある。
 問題を解決しやすくするためには、
 当事者が持っている「感情」がじゃまなのだ。
 さらに言えば、代理人がその道の熟練者だったら、
 本人がじたばたするより、ずっとうまくいくことが多い。
 それは、冒頭から極端な例を出したけれど、
 「殺人」みたいなものでさえ、そうだし、
 弁護士も、引っ越しも、医者も、教師も、
 ほとんどは当事者の「代理」で仕事をしている。
 分業というのは、「代理のしくみ」でもある。

 代理で、なにかをやってもらう、やってあげる。
 代理でなにかするというのは、
 人が、いったん「使える道具」となることだ。
 代理人が勇み足をするのは、代理だからなのである。


今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「殺」という文字を、10年分以上使ってしまったかもねー。

Twitter貼り付け曲まとめ25

Twitterログ4/11(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・四月の、いまごろ。
 新しい環境にある人は、戸惑ったりしやすい。
 新しい場所でなにをしていいのか、
 なにをするべきなのか。
 そうそうわかるものじゃない。あれれれ、である。
 じぶんの力が、どこでどうやって発揮できるのか。
 まったくわからないし、力なんて、あったっけ?
 戸惑ったりもするし、悩みやすくもなる。
 もっと、ずっと、たのしみにしていた四月なのに。
 どきどきわくわくしていたはずなのに。
 たった三日で疲れちゃった、かもしれない。
 いや、たのしいことだって、なくもないかな。
 だけど、わたしはどうなっていくのかな。
 このままでよかったんだろうか。
 夢を見過ぎていたのだろうか。
 もっと、つまらないと覚悟してればよかったのか。

 ‥‥というようなところにいても、
 それでいいのだと思う。
 そんなもんだと思う。
 もし、戸惑ってなくて、
 とても元気でやれている人がいたなら、
 そりゃもう、とても運がいいってことだ。
 
 四月のいまごろは、戸惑いの時間。
 急いでどうにかしようとしなくてもいい。
 小さくてもたのしいことを、
 ひとつでもふたつでも見つけられたらいいんじゃない。
 近所に、おいしいパン屋さんがあったとか、
 通い道ですれちがうかわいい人がいたとか、
 それくらいのことを、見つけただけで大当たりだ。

 うまくても、へたでも、「そこに一所懸命にいる」。
 いることだけが大事だと思っていい。
 「いる」って、どういうことか?
 あえて助言をするならば、「いる」というのはね、
 「耳でよく聞いていること」と、
 「目でよく見ていること」そして
 「足でよく歩いていること」だよ。
 それをちゃんとやっていることが「いる」ということ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あと、むだ吠えしないこと、拾い食いをしないこと(笑)。

Twitter貼り付け曲まとめ24

Twitterログ4/10(月)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

・例えば、どこかの運動場だとか、学校だとかの辺りで、
 野球部の連中かなと思われる若い人たちが、
 笑いあったりしゃべりあったりしていたら、
 「おお、野球少年たちか、がんばれよ」と、
 好意的に見ながら通り過ぎることであろう。

 それは、サッカーの格好をした若い人たちであっても、
 ラグビーでもテニスでも卓球でも、みんな同じことだ。
 スポーツをやっている青少年たちが、
 わいわいとたむろしている景色を、
 ぼくは、決して嫌がったりしないで見ているはずだ。
 勉強してるわけでも、仕事してるわけでもないけれどね。
 楽器を持った若い人たちにしても、同じだ。
 古典的な音楽を演奏するための楽器を持った青年たち、
 ドラムスティックやらギターとかを持った若い人たち、
 それが、ユニーク過ぎるくらいの姿だったとしても、
 おおやってるなと思って、静かに眺めていると思う。

 マンガのことを夢中になって研究している若い人たち、
 フィギュアを真剣に集めている青年たち、
 お笑いに命懸けてるかもしれない若い男女たち、
 どれも、みんな行けるところまで走れって思ってるよ。

 さて、どうして、ぼくはこんな例をいくつも出して、
 そういう若い人たちを好もしく見てるなどと言ったか?

 それは、青山のファッションブランドの店の辺りを、
 うれしそうにはしゃいで回遊している青少年たちを、
 ぼくが、ちょっと冷たい目で見ていたと気づいたからだ。
 野球に夢中になってる若い人たちと、
 音楽をたのしくやっている人たちと、
 ファッションに興味を持ってる人たちと、
 ほんとは、みんな同じなんじゃないかい、オレよ!
 ということが、いまさらわかったのだ。
 いままで一度も文句を言ったことはないけれど、
 ファッションブランド聖地巡りをしている
 国内や海外の若いみんなに、謝るよ。
 どうして、いろんなことに夢中になっている若者たちに、
 好意の序列をつけていたのか、これから考えてみるよ。
 やっぱり貧しい時代に育ったせいも、あるのかなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんの無意識って、気づいたときにハッとするよなぁ。

Twitterログ4/9(日)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

・いろんな場所で、しばらくぶりに出会った人たちが、
 「おめでとうございます」と声をかけてくれます。
 それは、3月中旬の「ほぼ日がジャスダック上場」
 というニュースのおかげなんですよね。
 たしかに、それは簡単な道のりではなかったし、
 社会のなかの「会社」として認識されたということで、
 祝われるのはうれしいものなのですが、
 ぼくの、ほんとの気持ちは、もうちょっと複雑です。
 「ありがとうございます」という気持ちの他に、
 なんとなく、初めてこどもを持った父親みたいな、
 「目が笑ってない」硬い笑顔になっているんです。
 新車を受取ってガソリン入れに行くときだとか、
 入学式や入社の式に向かう駅からの道だとか、
 やっぱりちょっとぎこちなくなるじゃないですか。
 ぼくは、じぶんのことを、
 けっこういろんなことに馴れた人であると、
 じぶんにも言い聞かせて、そうふるまってきましたが、
 そういうものでもないんだなぁと、よくわかりました。
 
 「ほんとうに問われていることは、なんなのか?」
 それを、真剣に自問自答してきたはずです。
 根本的とは言いにくいような現象や思惑にとらわれて、
 ほんとうに大事なことを見失わないようにしようと、
 こころを引き締めてきたのですが、
 考えがやっぱりまだ、のびのびできてない感じです。
 このへんのある意味で初々しい感覚は、
 やがて馴れてから忘れてしまいそうなので、
 あえて記しておこうと思いました。
 
 実際に考え中だったりやり出していることは、
 いままで以上に真剣だったり大胆だったりしています。
 どうやら、というか、けっこう確信的に、なのですが、
 「ほぼ日」は、変わります。
 政治家がよく「チェンジ!」と言いたがりますが、
 あんまりそういう感じじゃないような気がします。
 でも、起承転結でいえば、おもしろく「転」します。
 少しずつわかってもらえるようになると思いますが、
 「やさしく、つよく、おもしろく」の精神はそのままで、
 できることをひと回り大きくしていくような変化です。
 19周年の記念日である6月6日に向けて、動いています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。

Twitterログ4/8(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・ドーナツの穴というものについて、
 それはなんなのかと考えた人はたくさんいるでしょう。
 けっこう多くの人が、その話をしたことがありそう。
 だから、それは、平凡な話題ではあるのでしょうが、
 会話がころころ転がるおもしろさがありますよね。
 よく言われてそうな「ドーナツ買ったら、穴をやるよ」
 というくらいのふつうの冗談でも、
 「ありがとう、でもかじりかけの穴だろ」とか、
 「前にもらったやつがあるから、いらない」とか、
 なにかしら、言い返せそうなところがあります。
 おもしろいかどうか以上に、キャッチボールができる。
 ドーナツの穴、という「ない」ものが「ある」。
 こういう世界について、あれこれやりとりするのは、
 意味も意義も考えずに遊べるものです。
 だいたい、はじめからでたらめで、
 正解も不正解も、まったくどっちでもいいんですから。
 ことばや考えがころころ転がって、
 その転がり方そのものをたのしんでいればいい。
 ネットで調べても、まったく意味がないわけです
 ‥‥と、ここまで書いて、
 ネットで「ドーナツの穴」と検索したら、
 なにが出てくるのかをたしかめてみようと思いましてね。

 そしたら、ああ、なにも言うまい、やらなきゃよかった。
 ぼくが世間知らずだった、遅れてました。
 いいとかわるいとかを超えて、いまの時代、
 検索したらなんでも出てくるわけです。
 「ここまでは考え終わっている」というところから、
 いまの時代を生きるものは始めなきゃならないんですね。
 じぶんが、これから言うかもしれないことが、
 じぶんよりうまくまとめてあって、いつでも読める。
 こんな状況のなかにいると知っていたら、
 たしかに、じぶんからなにかを言い出しづらくなります。
 そういえば、ツイッターなんかで、
 いま思いついた冗談を落書きのように書いたりすると、
 「それ、とっくに、ありますよね」とか注意を受けます。
 めんどくせぇ時代だなぁと思ってはいましたよ。

 南伸坊さんとやってた『黄昏』のたのしさって、
 あれは、いったいどういうものだったんでしょうかねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
また『黄昏』で遊びたいなぁ。伸坊、時間空けられるかな。