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SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。独断と偏見に満ちた妄想。あたりで書いてます。

Twitterログ3/13(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

『気仙沼から相馬へ、打ち合わせと雑談の旅。』
 から戻ってきました。
 毎年3月11日は、なにがなくても気仙沼に行くと決めて、
 それを続けています。
 理由は、わりに単純なことだと思います。
 2011年の冬に、陸前高田「八木澤商店」の河野さんが、
 「正月を過ぎたら、忘れられちゃうんじゃないか」と、
 本気でさみしそうに言ってたのがきっかけでした。
 「そんなことないですよ、忘れないですよ」と、
 ぼくは言いましたが、未来のことですから、
 忘れないという自信があったわけではありませんでした。
 だから、「忘れないですよ」という約束を守るのに、
 じぶんたちに対しての、いろんな仕掛けをしたわけです。
 やりかけの仕事をつくる、というのは、
 そのためのいちばんわかりやすい方法です。
 「たとえ忘れたって、また来る」しかないのですから、
 忘れなくなっちゃうに決まってます。
 じぶんを、いいかげんな人間だと思っているぼくは、
 そんなじぶんの決意とか意志みたいなものを、
 あんまり信用できないものですからね。
 
 で、今年は、もっとわかりやすく用事がありました。
 福島県相馬市での「気仙沼さんま寄席」の打ち合わせ。
 立川志の輔師匠と、じっくり計画を進めてきて、
 場所も、日程も決められました。
 その計画を、どんなふうにふくらませるか、
 いろんな人に会って、相談してきたわけです。
 気仙沼のきっぷのいい「さんま関係」の方々、
 さらに、発想も行動力もある「おかみさん」たち、
 福島の前向きな新しいなかまたちに会ってきました。
 なんていうか、ものすごくたのしい旅になりました。
 関わるメンバーが、みんなそれぞれに、
 じぶんの力をみんなのために役立てる場面が、
 このプロジェクトでつくれるんじゃないかしらん。
 これを読んでいるみなさんも、ぜひ、
 相馬に観にくる、食べにくる、遊びにくるという感じで、
 力を貸してくださいね。
 ただ、今回の旅のたったひとつの困ったところは、
 あちこちうまいものばかりに誘惑されて、
 いつも腹いっぱいで苦しかったこと、でした。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
家にもどってから、夜中まで続いた野球中継も観ましたよ。

Twitterログ3/12(日)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・この日、この場所に、空から降りてきたのだとしたら、
 昨日、3月11日の気仙沼は、とてもいい日だった。
 お天気のいい穏やかな日を、人びとは過ごした。
 昔からある港町は静かで、そう、
 さみしいくらい静かだった。
 近所にある大人気の青果スーパーの話やら、
 どこそこの店の改装の話やら、
 複雑な編みもののちょっと苦労する部分のことや、
 ぼくの煮魚の食べ方がきれいだということや、
 ツリーハウスに集うこどもらの話ができた。

 かたちのあるものは、ずいぶん戻ったと、
 とてもあかるい顔で言った毛糸店の奥さんが、
 それに続けて、こころのことはぜんぜん戻ってないと、
 ふつうの顔になって言った。
 誰を責めるわけでもなく、じぶんの近くの、
 亡くなった何人かのことを数えるように口に出した。
 ただの天気のいい穏やかな日には、
 いろんな思い出が隠れているのだった。

気仙沼の港に着いた漁師さんたちに親しまれていた
 町の銭湯がなくなってしまうという。
 なんとか、港の関係者の手で銭湯をつくれないか、と、
 いろんな算段を始めたのだけれど、なんとも難しい。
 一億以上の金がかかるということと、
 漁船の寄港しない季節の営業はビジネスとして厳しい。
 気仙沼は、漁師さんたちの入れる銭湯のない町に、
 なってしまうということなのだろうか。
 漁師さんたちだけでなくて、
 町の人たちがみんな来たくなる銭湯ならいいのか。
 銭湯だけでない事業が組み合わさるといいのか。
 ぼくには、まだいい考えがないのだけれど、
 どうにかならないものかなぁ。
 市営の銭湯とかっていうのも、できないものなのかな。

・さて、今日もは相馬市にクルマは向かう。
 気仙沼の人たちは、相馬での「気仙沼さんま寄席」を、
 縁の下で力を発揮する役割で、参加してくれる。
 「あのときのうれしさ」を、福島でまた再現する。
 全国から、気仙沼から、秋に相馬へバスが行く。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「たのしくやっぺ」は、気仙沼でもよく聞くんだよね。

Twitterログ3/11(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・3月11日だから、ということで、
 なにかものを書く人は、それぞれに考えることになる。
 まる6年経ったということで、なにを書くのか。
 それとも、なにを書かないのか。
 いったん、たくさんのことを考えて、
 やがて、どうするのかを決めなければならない。
 
 品のない言い方をすれば、書く「ネタ」はある。
 怒り、悲しみ、やるせなさ、諦念、警鐘、
 どういう表現になるのかによって、
 いろんな文章が書かれていくことになるだろう。
 地元にいて、ふだん思ったことを書いている人たちは、
 なんとなく、この日には書かないということで、
 この日を過ごそうとしているふうにも見える。
 なんだか、とてもわかる気がする。
 現地では、震災からの日々は、ずっと日常そのものだ。
 あえて、3月11日に「書かない人」になるということは、
 日常から離れ、特別な日として黙するということだろう。

 悲しみに関わる儀式には、かならず黙祷がある。
 どんなことばを発するよりも、発することをやめる。
 それは、なにも言えない小さなものになることで、
 祷るべき相手への敬意を示すというやり方だと思う。
 
 たしかに、いろいろと思うところはある。
 あることはあるのだけれど、それは、
 根本的にたいしたことのないものだとわかっている。
 最初から、ずっとそう言ってきたけれど、
 ぼくやぼくらは、ほんとうにたいしたことのないものだ。
 たぶん、ぼくらが口を開くよりも大事なことは、
 いくらでもあるし、それはわかっている。
 
 ‥‥わたしはこう思う、わたしはこう考える、
 わたしはすばらしい、わたしは知っている‥‥。
 そんなことばが、空中で交通渋滞を起こしている。
 「いいでしょう?」というプレゼンテーションよりも、
 「よかったよ」のほうが、ほんとうなのだ。
 「こんなに思ってます」の告白ではなく、
 「思いをありがとう」の側に、ほんとのことばはある。
 なんてことを、ぼくは結局、書いているけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ともだちに会いに行くつもりで、東北に行ってきまーっす。

Twitter貼り付け曲まとめ23

https://twitter.com/s_ballkun/status/833385415482564608

Twitterログ3/10(金)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・今日が3月10日、ということは、明日が3月11日。
 昨年は10日に気仙沼に入って、そのあとは、
 閖上に臨時でつくったテレビのスタジオで過ごしました。
 今年は、気仙沼から福島の相馬に向かいます。
 しばらく顔を見てない人たちの顔を見ることと、
 秋に予定しているイベントの大事な打ち合せがあります。
 もうじき、詳しいことをお知らせしますが、
 あらためて、全国のみなさんと東北がつながる企画です。

・このひと月ほどは、実に目まぐるしかったです。
 あれこれとやることが多いのは覚悟していましたが、
 思わぬこともいくつか重なり、
 しかも悲しいこともあったりしたために、
 かなりハードな日々になりました。
 昨日、ひとつ仕事の予定をサボらせてもらって、
 家事やら昼寝やらに勤しんだおかげで、
 ちょっとなにかしらが、楽になりました。
 情熱も冷静も持ち合わせていたつもりでしたが、
 無意識の部分がかなりくたびれていた感じです。
 でもね、気仙沼で温泉につかってくるから大丈夫です。

・みんなに、まだ、本格的には相談してないけど、
 じぶんなりに熟成させてる企画があります。
 コンセプトとしては「Get Back」と呼んでいて、
 ビートルズの歌のタイトルのままなのですが、
 意味は、彼らの歌詞とはちがうところにあります。

 あえて言えば「うしろにあるぞ」というようなことかな。
 歴史というか、古典への敬意がテーマです。
 「古典の素養」、というものは、
 かつては大事にされてきたらしいのですが、
 このごろになると、そんなものは不要とばかりに、
 新しいもの新しいものに人びとの関心が向かっています。
 ぼくも、教養を押し売りされるのは嫌いですが、
 いまごろになって、自身の「古典の素養」の貧弱さに、
 これはなんだか根っこの弱い木みたいだなぁと、
 思い直しはじめているところです。
 会社の仕事が終わった後に「シェークスピア」やら、
 「ダーウィン」「万葉集」やら「源氏物語」を学ぶ場。
 そういう場を、つくってみようと思っています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくらの後、足跡のさらに後に、たからものが隠れている。

Twitterログ3/9(木)ほぼ日メモ

今日のダーリンより

・外国語の得意な人にはわからないと思うけれど、
 日本語しかわからない人間にとって、
 外国語の文化圏というのは、無音の空間なのである。
 
 近くに「日本語しゃべり」がいれば別だけれど、
 そうでないかぎりは、空港に着いたときから、
 ずっと耳には「音楽」だけが流れている。
 つまりその、どういう意味のことを言ってるのか、
 まったくわからない会話は、ぼくには「音楽」なのだ。
 英語の文化圏だろうが、中国語圏だろうが、
 欧州のさまざまな言語圏だろうが、ほとんど同じだ。
 ああ、これは怒ってるんだろうな、とか、
 たのしそうに笑いあってるなぁということはわかる
 (ときには、笑いながら脅かしてる人だとかも
 いないとも限らないから、気をつけたほうがいいね)。
 じぶんのいる環境から、意味のあることばのやりとりが、
 ほとんどなくなってしまっているのだ。
 これは、ふだん、いつでも過敏なほど
 意味を発見したり解釈したりしてて生きてる身としては、
 たいへんな変化にさらされているということなのだ。
 
 必死で語りかけてくる猫や犬のことばでも、
 わかってやりたいと思って聞くと、
 こっちの心が苦しくなったりもするものだ。
 人と人とが、せっかく交換しあっている言語なのに、
 すべてが「音楽」として聞こえてくるという環境は、
 お気楽なのではなく、なかなか苦しいものなのだ。

 外国へ、ことばがわからないままひとり旅する人がいる。
 こういうのって、すごいものだと思う。
 好意的に言えば、意味にとらわれない自由さが素敵だ。
 しかし、ぼくは、じぶんが意味から遠ざけられた孤独は、
 どうにも苦しくてだめみたいだ。
 
 「そのつもりになってみる」というシリーズで、
 しばらく、「日本語のわからない人」になって、
 暮らしてみるということをやってみようかな。
 そしたらもう、ここに連なっている文字だって、
 なにかの模様にしか見えなくなるということだぜ。
 「犬になったつもりで、1時間」とか、やってみよう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
(昨日、この一行を書くのを忘れていました。あしからず)

Twitterログ3/8(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・カップに入った、インスタントの味噌汁には熱湯を注ぐ。
 ふと思い立って、このお湯を、熱い牛乳にしてみた。
 意外にもまずくなることだってないことじゃない。
 ただ、ぼくには勝算があった。
 味噌バターラーメンの存在である。
 味噌ラーメンにバターを入れるとうまい。
 そこからのヒントで、味噌汁にバターを入れてもうまい。
 これは、すでに試し済みなのだから、
 牛乳で溶いたインスタント味噌汁は、
 十分にうまいだろうと想像できた。
 答えは簡単に出てしまった、やっぱりうまい。
 同じことをこれからも必ずやるかと問われたら、
 やるときもあるし、やらないときもあるだろうと答える。

 ぼくは、「ふつうはそうしない」と思われがちな
 料理素材の組み合わせを、けっこう好きだ。
 たとえばバターは、洋食のものだから
 日本の料理では使わないと思われがちだけれど、
 けっこう使い道はたくさんある。
 じゃがいもの煮っころがしの隠し味にもバターは使う。
 だいたい、油脂と炭水化物の組み合わせはうまいものだ。
 つまり、バタートーストはとてもうまいのだけれど、
 これはつまりバターライスもうまいということになる。
 そしてそれは、たまごかけごはんのように、
 バターとかしごはんもうまいに決まってると想像できる。
 意外に思えるのは、人の勝手なジャンル分けのせいだ。
 バターにはパンだと、思いこんでいる人には、
 「バターごはん」は邪道に見えるにちがいないが、
 それはバターのせいでも、ごはんのせいでもないはずだ。

 バターとごはんがうまいとわかったら、
 ごま油とごはんの組み合わせも肯定できるだろう。
 塩か、しょうゆで味をつけるのもいいし、
 焼きのりや、ごま、柚子こしょうなど加えてもいい。
 さらには、すき焼きなどのときに利用する
 牛肉の脂身を熱で溶かして、ごはんに混ぜるのもうまい。
 なんなら、すき焼きのたれで味付けしてもよいだろう。
 どれもこれも、あぶらと炭水化物のコンビネーションだ。
 あえて冒険をしているというわけではない。
 ヨーグルトに塩コショウなんかも、わるくないんだよ~。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。