SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ2/28(火)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

・どうやら、現代でも、かなり多くの人が、
 「愛」というものはあると考えています。
 これが愛、それが愛、愛がある、愛がない。
 見えなくても、数字で計測できなくても、
 「愛なんてものはない」と言う人はほとんどいない。
 よく探せば、どこかしらに、
 「これは愛と呼べるものじゃないか」というふうな
 欠片(かけら)くらいは見つけられるものです。
 
 でもね、ぼくは「愛」については考えあぐねたままです。
 いろんな「いいことのスキマ」に、
 「愛」というやつをはめているんじゃないかと、
 ちょと疑っているようなところがあります。
 「それが愛なんだよ」と、いい感じのことには、すべて、
 人びとが勝手に「愛」と名付けているんじゃないか。
 「愛、ずるいよ、総取りして」と言いたい気分なんです。
 
 さらに、人はわりと「愛」を語り合うのも好きです。
 歌いたがったりもします。
 そこにあるのかないのか、探しもします。
 けっこうひっきりなしに、愛は人気ものになっています。
 
 それに比べて、というつもりもなかったのですが、
 「心」ということばは、あんまり人気がないような‥‥。
 「心」も、どこにあるのか見えません。
 重さも、かたちもありません。
 「そんなものはない」という人もいるのが「心」です。

 で、ぼく自身は、「心」がどんどん好きになっています。
 たいていのことは「心」が関わっていると思っています。
 なにかするときに、マニュアルとか見ながら、
 その通りにやればいいとかは、どうにも考えられません。
 「心のあるもの」と「心のないもの」は、
 いくら似ているように見えていても、
 まったくちがってくると、言いたくてしかたありません。
 だけど、そういうことを言うと、
 古い人とか、神秘主義の人だと思われちゃいそうです。
 そういうわけじゃないんですけどね。
 だって「心」はあるでしょう、実際に‥‥と思うんです。
 なんかもっと「心」のことを言ってもいいんじゃない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
『ラ・ラ・ランド』、心がこもった映画だと思いましたよ。

Twitterログ2/27(月)ほぼ日メモして

 

今日のダーリンより

【・「ただのお客さん」でいるということが、いちばんじぶんに合っているし、快適だと知っている。つまり、好きなことに突っ込み過ぎないということかな。

他の人がぐいぐい突っ込んでいくのは、おもしろい。ラーメンの食べ歩きをやっている友人がいるおかげで、ぼくも、「そうか、その店に行ってみよう」と思える。野球のことなんかでも、ぼくは、どんどん忘れていく。だれかが、その部分を補ってくれているわけだ。「なんだっけ、だれだっけ、いつだっけ」は、もう、ぼくのボキャブラリーの10%くらいを占めている。ちっとも憶えてないのだ、これだけ野球を観てるのに。

それをよろこんでいる、それを感じている。そういう「ただのお客さん」であり続けることは、簡単っちゃぁ簡単なのだけれど、難しいっちゃ難しい。人より詳しく知っていることには、うれしさがあるし、だれよりも好きかもしれないというのは、誇りにもなる。また、好奇心とか向上心というものの使い道は、仕事の場でなかなか見つかりにくいものだから、そのエネルギーは、趣味の世界に使うことになる。いわば、遊びがどんどん高度になるみたいなことだよね。これは、なかなかたのしいものだから、つい、そっちに頭から突っ込んでっちゃうわけだ。で、「ただのお客さん」に戻りにくくなっちゃう。

いつのまにかなのか、もともとの性質なのか、ありがたいことに、ぼくは、ずうっと、けっこううまいこと「ただのお客さん」をやっている。冷たいのかもしれない、ものごとに。だけど、そのおかげで、なにかと楽なのはたしかだ。好奇心や向上心の足りなさについては問題だけどねー。世間の人たちが、ぼくのことをけっこう「凝り性」だと思っているらしいのだが、ぼくなんかもう、ものすごく「凝らない性」ですからっ。

ただ、ここ一年くらい、「とんかつ」に興味を持って、これまでにない熱心さで、足を使い時間を使い、いろんな「とんかつ」を食べに行っている。でも、やっぱり、ただの「とんかつ好き」くらいかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。とんかつのことについて書くことも、多くなってますよね。】

Twitterログ2/26(日)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

【・あるときから、思っている。すべての表現は、悪夢なのである。

悪夢といっても、悪のほうに意味を持たせる必要はない。夢だけだと、なにかいいことのように思われそうだから、悪夢と思うことにしたのだ。

セザンヌを見ても、ピカソを見ても、写楽を見ても、それが作者の悪夢なのだと思ってみる。どう解釈するのですか、というようなことは要らない。その悪夢につきあっていればいいだけだ。

シェークスピアでも、ドストエフスキーでも、ガルシア・マルケスでもハルキムラカミでも、文字になって表れてくる悪夢だと思って、それをいっしょに見ているようにする。

音楽にしたって、クラシックも、ロックも、ジャズも、耳で聴く悪夢なのだと思ってついていく。

こういうふうにすることが、まったくまちがいでとんちんかんなのかもしれない。ただ、こんなふうに思うようになって、 過剰な意味や、興ざめな説明にではなく、夢の時間の流れていくところに、乗れるようになる。

短い詩だって、悪夢だ。「万有引力とは、引き合う孤独の力である」谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』の一行を、そういう悪夢だと思ってつきあってみようか。漂い、そして集まる文字とことば。そういう夢を詩人が見ている、わたしはそこにいる。

たのしい悪夢、うれしい悪夢、おそろしい悪夢、勇気のわいてくる悪夢、うっとりする悪夢、色っぽい悪夢、笑っちゃう悪夢‥‥。

本のなかや、映画館のなかにばかりあるわけじゃない。悪夢は、探せば、どこにでもある。あなた自身のなかに、こんこんと湧いている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。悪夢はでたらめで、わけわからなくて、常識の前を走る。】

Twitterログ2/25(土)ほぼ日メモ

今日のダーリンより

・「ほぼ日」の乗組員たちの名刺には、
 肩書きというものがない。
 どうしても肩書きの必要になる場所に向かうときには、
 たぶん「裏名刺」というようなものをつくるであろう。
 そういうものは、ふだんの仕事のなかでは不要だ。
 社内でも部長だの課長だのいう呼び方はない。
 みんなが「どうも、あったほうがいい」と言い出したら、
 そのとき、あらためて考えるようにする。
 唯一、役職名で呼ばれることがあるのは、
 実は「イトイさん」こと、ぼく自身である。
 仕事上のつきあいの人が「社長」とか言うものだから、
 それがおもしろいのか、社内でもよく
 「しょちょー」と呼ばれたりしている。
 ただ「社長」というより、ひらがなの「しゃちょー」ね。
 ぼくは、それをよろこんでいるわけでもないが、
 格別に嫌がっているということもない。
 「先生」と呼ばれるのは苦手だけれど、
 「せんせー」ならいいや、みたいなことと似てるのかな。
 どっちにしても、ぼくは、実を言うとですね、
 じぶんが「しゃちょー」であることを自覚しているのだ。
 意外? そうでもない?

 もちろん、「ほぼ日」をはじめるまで、
 あるいは、「ほぼ日」をはじめてからしばらくの間は、
 「しゃちょー」だと思わないように、
 そして、思われないようにふるまっていた。
 しかし、ちょっとずつ、それは変わっていったのだった。
 これ、無意識に近い感じで進んでいったことなので、
 ふとしたときに、「あ、おれは社長になってる」と、
 その都度、気づいてきたのでありますよ。
 たとえば「人間ドック」をきちんと受けようと思うとき、
 たとえば、タバコをやめようと決めるとき、
 たとえば、クルマの運転を慎重にしようとしたとき、
 それはすべて、「しゃちょー」の責任として、
 じぶんの命やら健康やらを粗末に扱っちゃいけないから、
 という考えがあったわけです。
 急にそうなったのではなくても、少しずつ、
 「おいら職人、風の吹くまま気の向くままよ」
 みたいなことを考えないように修練してきたのでした。
 そういうの、あんがいできるようになるものなんですよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「あなたひとりの身ではない」は、みんなに言えることさ。

Twitterログ2/24(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・「ロードショーはつらい」とは、ずいぶん聞いていた。
 アホなぼくは、なんのこっちゃと思っていた。
 映画館のことしか思い浮かべてなかったから。

 実は、株式上場が決まった企業が、
 機関投資家向けに会社の内容を説明して回ることが、
 「ロードショー」というものなのだとは知らなかった。
 映画とはなんの関係もなかったよ。
 株式会社「ほぼ日」の代表者として、
 ぼくはその役割を果たさなければならない。
 もともと、ひとりしゃべりの苦手な性質で、
 講演の依頼もすべてご遠慮してきた人間が、
 質疑応答を含めて1時間の説明会を、1日5回×6日間、
 計30回やることになったのでありました。
 
 ものすごく前向きに考えれば、直接に会って、
 じぶんたちのことを知ってもらえるいい機会だ。
 そして、じぶんたちが、どういう診断をされるのか、
 あらためて知れる「人間ドック」でもある。
 後ろ向きに考えれば‥‥や、それは考えないことにした。
 まさに「たのしめ!」のおまじないに助けられるときだ。

 相手をしてくれるのはプロで、真剣勝負の場だ。
 小賢しい言い訳やら、じぶんを過大に見せる修辞など、
 よくあることと簡単に見破ってしまうにちがいない。
 ぼくらは、寸法のまま、裸で向かい合うしか方法はない。
 このロードショーが重要なポイントになるということを、
 さんざん吹き込まれていたのだけれど、
 自慢じゃないが「ぼくは門外漢だぞ」である。
 付け焼き刃で優等生のふりをするのにも、
 いまさらもう間に合わないに決まってる。
 相手への敬意だけは忘れるな、とじぶんに言い聞かせて、
 ただただ真剣に、率直なやりとりをすることになった。
 門外漢ならではの減点も、さぞかし多かったろうなぁ。
 
 ‥‥というような一週間のロード、すべて終えました。
 ワタクシはいま、無事でここにおります。
 身体と無意識は、疲労困憊していると思いますが、
 正直な気持ちとして、ほんとにおもしろかったです。
 そのへんの理由は、さらに考えてみたいところです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「あってもいい会社」から「あってほしい会社」へ、ね。

Twitterログ2/23(木)ほぼ日メモ

今日のダーリンより

・今回は、このリンクの先にある、
 2006年にぼくが書いた『ダーリンコラム』を参照してね。
 タイトルは「ちょっと低いところで落ち合おう」です。
 先日、「ほぼ日の塾」の受講生の人たちから、
 くりかえし質問されたのが、このコラムの内容でした。
 高いところをめざせ、ということをさんざん言われ、
 じぶんでも高いところに上がろうとしてきたのに、
 「低いところで会いましょう」みたいなことを言われた。
 これは、どういうことなんだろう?
 そんな気持ちがあったのだと思います。
 
 たしかに、高いレベルでの共感には、
 こころが震えるようなうれしさがあります。
 よくよく理解し合って握手できるときには、
 つくづくよかったなぁという実感もあるでしょう。
 だけど、「低いところで落ち合おう」という考えには、
 なんとなく妥協やガマンの感じがあるかもしれません。
 「狭き門より入れ」ということばに従って、
 真実にたどりつくという歓びに比べて、
 「広き門から入らせてもらいました~」は、
 いかにもバカっぽいかもしれませんよね。
 
 でも、ぼくはこの2006年のあたりで気づいたのでしょう。
 高いところでの、理想的な相互の理解‥‥なんて、
 本気でそれを求めていたら、じぶんの生きる場が、
 どんどん閉じていってしまうばかりだ、と。
 高いところをめざすのはかまわない。
 しかし、高いばかりが大切なことではない。 
 たぶん、このあたりのことについては、
 2006年のほうが切実に考えていたと思うので、
 そっちを読んでもらったほうがいいような気もします。
 
 ひとつ、まとめがわりにエピソードのようなものを。
 よく東京を離れて、地方に出かけていくと、
 「えーっと、だれだったか、樋口可南子さんの旦那さん」
 と微笑みながら近づいてくるおばちゃんに会います。
 昔は、ちょっと逃げ腰になっていたと思いますが、
 いまのじぶんは「はい、ヒグチさんのダンナです」と、
 差し出された手と、固く握手をします。
 いまのじぶんのほうがいい、と本人は思っています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
新井編集長の渾身の一冊「SWITCH」、買ってくださいね~。

Twitterログ2/22(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・人間が、原始の時代だとかのように、
 もっと直線的な日常を送っているころには、
 一日のなかに、あんまり多くのことがなかった。
 会う人の数にもかぎりがあって、
 やることもひとつとかふたつとかだったと思う。

 人の一生についても、いまの人たちのような
 あれがあってこれがあってというふうな、
 たくさんの出来事はなかったろう。
 日が昇って、日が照って、日が沈んで、月が出て‥‥。
 そんなふうに、くり返しのリズムがあって、
 生まれて、生きて、死ぬ。
 そういうことを、退屈だと思うのか、
 ちょっとうらやましく思うのか、
 ひとりの人のこころのなかには、どっちもあるだろう。

 ぼくらの生きているいまの時代には、
 あれもあって、これもあって、あれこれあって、
 いくつもいくつものことが泡のように浮かんでは消える。
 悲しくてたまらないような出来事があっても、
 その感情にずっと浸ってはいられない。
 次の場面になったら、しっかり者の顔で、
 いかにも希望に満ちた明日を語ったりする。
 そして、うれしいことのあった人に会えば、
 いっしょにそれをよろこんで笑い合ったりもする。
 深く考えなくてはならない問題などがあれば、
 電気スタンドのあかりの下で悩んだりもする。
 そのたびに、感情の流れも変えるし、
 想像する景色も変えているはずである。

 ひとつの感情にいつまでもつきあっていることも、
 次々に起ることに対応するために、
 くるくると考えも思いも変えていくことも、
 どっちも人間のやることにはちがいない。
 ぼくらは、ひとりずつが、
 ひとつの肉体を持つひとりの人間だけど、
 昔の人のようなこころと、いまの人のこころとを、
 行ったり来たりできるはずだと思っている。
 ゆっくりできる日をつくって、ひとつの感情に、
 じっとゆっくり浸るようなことをしてみたいと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やっぱり、人のこころの底の底には、さみしさがあります。