SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ2/19(日)ほぼ日メモ

 

 

 

今日のダーリンより

・昨日は、「ほぼ日の塾」第3期のはじまりでした。
 朝の9時半に受付をして、そこから全体のミーティング、
 お昼ごはん、分科会をぐるぐる回って、
 また全員で集まって話を聞いてもらって、
 晩ごはんを食べて、一部の帰らなきゃの人は下校。
 ここから、ぼくへの質問と答えの猛練習みたいな時間、
 終了は11時前になったようです。
 ぼく自身は、夕方6時からの参加でしたが、
 それでも約5時間、今回もなかなかハードな夜でした。

 生徒さんというか、受講生の方々は、
 むろん現役の学生さんとかもいるけれど、
 実社会でとっくにがんがん仕事している人が多くて、
 ひょっとするとベテランの域の人まで混じっているので、
 講師役のぼくらよりも、先輩だったりする可能性もある。
 「ほぼ日」のメンバーのほうが、
 逆に教えていただきたいことがあるような顔ぶれでした。
 でも、みんな、なにかを「ほぼ日の塾」で吸収しようと、
 身を低くしてしっかりと目を見開いているのがわかる。
 いいなぁ、真剣というのは、それだけでいい場をつくる。
 学ぼうという姿勢は、ものごとを受けとめやすくする。
 それに対応する「ほぼ日」乗組員の講師陣も、
 (あんまり緊張しているようには見えなかったけど)
 いつも以上に真剣で一所懸命なようすでした。
 
 手前みそな言い方にはなるけれど、
 こういう相手が真剣なときの「ほぼ日」の乗組員は、
 ほんとうに真剣に誠実にまっすぐ向き合ってくれる。
 どうしても仲間ぼめになるけれど、
 設営、案内、誘導やら食事づくりなども含めて、
 「ほぼ日」の人たちの姿勢は、誇れるものだと思います。
 13時間は、生徒さんたちにも大変だったでしょうが、
 裏方や講師役の人たちにとっても、大ハードですものね。
 
 そして、第3回の「ほぼ日の塾」も、初回、2回と同じく、
 やってよかったぁのすばらしい時間になりましたね。
 いちおう年長さんのぼくも、うれしくてたまらないよ。
 世の中をほんとうに動かすのは、真剣さだと思う。
 相手への敬意さえ失わなければ、上も下もない。
 真剣な相手には、人は真剣に対応するものだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
千歳まで長生きするつもりだったけど、百でもいいかもな。

Twitterログ2/18(土)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・考えがまとまらないときには、
 なんでも思ったことの切れ端を書いておく。
 そういうことを、いつだったかに発明した。
 
・たとえばね、
 カモノハシは哺乳類だけれど、卵をうむ。
 そして、くちばしがある。
 そして、水かきがある。
 だけど、汗のような母乳がおなかから滲み出てきて、
 こどもはそれをなめて育つ。
 なんじゃそれ!
 と思うのは、ぼくらの勝手なのだけれど、
 カモノハシにとっては、別に、なんにもおかしくない。
 ‥‥なんてことを書いても、数行が埋められる。

・昨日「こっちから先に好きになる」は、いいねと書いた。
 「相手が好きになってくれたならば、
 こっちも好きになってやらないわけでもない」
 というような態度でいる人は、とても多いと思う。
 でも、それは相手も、そう思ってる可能性が高いから、
 なかなかうまくいくものじゃない。
 「こっちから先に好きになる」ことなんだ、とにかく。
 ぼくは、これをいまごろわかって、残念でしかたない。
 もっと若いときから、知って、そうしていればよかった。

・真剣に相手をしてくれる人と、真剣に話すのはたのしい。
 たいていの悪口とか、半端な批判とかがいやなのは、
 そういうことを言うものが、真剣じゃないからだと思う。
 じぶんと意見がちがっても、
 それが真剣だったら耳に入るものだ。

・土曜日は、家でパソコンを開かない人が多いから、
 「ほぼ日」も、あんまり新しいコンテンツを
 入れないようにしよう、と言ってた時代があった。
 このごろは、スマートフォンで見る人も多いし、
 もう土曜日をもっと盛りあげてもいいかもしれない。
 
・間食用に用意してもらった「いなりずし」を、
 五時半くらいに食べた。
 大当たりだ!と叫びたいくらいうまかったぜ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
真剣にぼくにつきあってくれてる人びとに、感謝してます。

Twitterログ2/17(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・人のことばで、とても助けられるということがある。
 いかにも見事な名言もいいのだけれど、
 もっと、すっとこころに届くようなことばがありがたい。
 ぼくは、いま矢沢永吉のことばに助けられている最中だ。

 なかなかのハードワークを目の前にして、
 周囲の人だとか、経験者だとかが、
 それがどれほどつらいことなのかを教えてくれて、
 「がんばってください」とリハビリ担当者のように言う。
 そうか、そんなに恐ろしいことなのかと、ぼくも思う。
 どうしてもむつかしいようなら、
 多少の予定を変更してもいいのではないか、
 というような提案さえもあった。
 こどものころの、「きもだめし」のようではある。
 だんだんそうやって言われているうちに、
 これまでもよく、じぶんに言い聞かせてきた
 おまじないのようなことばを思い出したわけだ。
 「たのしめ!」である。
 これは、矢沢永吉がじぶん自身に言うことばだそうだ。
 うねって波打つような大観衆を前にして、
 たったひとりでステージに出て行くときには、
 矢沢でも特別な緊張感に襲われるのだという。
 そのとき、「いいぞ、矢沢、たのしめ!」と、
 もうひとりのじぶんから声をかけるのだという。
 
 そんなおまじないのようなことばが効くのかと言えば、
 まちがいない、「たしかに効く」のである。
 緊張や恐怖から逃げようとすると、ますます怖くなる。
 それよりは、緊張も恐怖も「よく来たな」と迎え入れる。
 それが「たのしめ!」なのだと思う。
 たった4文字で、これほどありがたい呪文はないよ。
 
 いまの時期、受験生なんかもそうだろうけれど、
 逃げ出したくなるような状況を前にしている人は、
 たくさんいると思う。
 そういう人たち、「たのしめ!」だよ。
 それで結果もうまく行くのかと問われれば、
 「それはわからない」としか答えられないのだけれど、
 つらくて逃げ出そうとしているじぶんよりも、
 「たのしむ」じぶんに会えるほうが、いいと思わない?

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あと、「こっちから先に好きになる」ってのも、いいねー。

Twitterログ2/16(木)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・ぼくはじぶんのことを
 特に「はたらきもの」だとは考えていない。
 人の目を盗んではさぼり、
 じぶんにいいわけをしては遊び、
 すきあらば眠り、機嫌がよければなにもしない。
 そういうふうに生きてきたと思っている。

 「ほぼ日」の創刊からしばらくの間は、
 ぼくも「はたらきもの」だったと思う。
 じぶんのなかで、はたらくのが流行っていた。
 あのときに、とてもたくさんはたらいたせいで、
 その後に、とぼけたことをやっていられる土台ができた。

 しかしまぁ、長く生きているというのはたいしたことで、
 あれやこれやと、じぶんのやった仕事を、
 ひとつずつ足し算していくと、それなりの分量になる。
 この『今日のダーリン』の連載にしたって、
 もし、毎日書いた18年分をまとめて本にする、
 というようなことを企んだとしたら、
 内容はともかく、形式だけは大全集のようになるだろう。
 これじゃ「はたらきもの」にも見えてしまう。
 だけど、ぼくはほんとうに「はたらきもの」じゃない。

 と、これまでの約20行とまったく関係ないのだけれど、
 いままた、ぼくは「はたらきものの旅」に出ている。
 スケジュール表を見ていると、頭がくらくらしてくる。
 ほんとうに帰港できる航海なのだろうか、とか、
 冗談のように言っても、だれも笑いやしない。
 しばらくは、ぼくに会えないと思っててください、
 というのも冗談ではあるのだけれど、
 さまざまな不義理もたくさんしなきゃならないと思う。
 なにせ「はたらきものの旅」の空の下にいるのだから。 
 つらそうに書いているようだけれど、
 実はおもしろがってもいるので、ややこしい。

 たぶん、この一週間の航海が終わったら、
 人として一皮むけてるかもしれないよ。
 そういう緊張感のある日々が、
 こんな年齢になってもあるということに感謝さえしてる。
 さ、これ書いたら風呂に入ってすぐ寝るぞー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくの元気を確かめるためにだけでも、毎日来てくらさい。

Twitterログ2/15(水)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

【・じぶん自身が、「人生の先輩」の役をしなきゃならない場面もたまにはあるもので、それらしい顔で、それらしいことを言ったりする。ただ、もともとが頼りない人間だから、あんまり肚の据わったことも言えない先輩なのである。

ぼくが「人生の後輩」として、先輩に言われて、すごいもんだなぁと感心したことも、何度かある。故藤田元司監督が、満面の笑みで「いのちまでとられるわけじゃなし!」と言って、ぼくのおしりを叩いたのは、そのうちの一度だった。忘れもしない1989年の秋のことだった。日本シリーズの真っ最中、相手は近鉄、巨人が3連敗して迎える4戦目の試合前。藤田監督の姿を見つけて、がんばってくださいというのも申しわけない感じで、静かに会釈したぼくのところに、その笑顔が歩いて来た。「いのちまでとられるわけじゃなし!」の前に、なにか言ったのか言わなかったのか、憶えていない。時代劇以外で、聞いたことのないことばだったけれど、いちばんの当事者である監督から、逆に励まされてしまって、ぼくも笑うしかなかった。

あんな先輩のようになりたいものだ、と思うけれど、なかなかそうもいかない。いまになって思うのだけれど、あのときの藤田さんのすごみは、ことばではなくて、満面の笑顔のほうに表れていたのだ。ことばは、「よし、ここから4つ勝ってくるよ」でも、「さぁ、本気にさせられちゃったね」でもなんでもいい。先に笑って、その気持ちを伝えるようにしりを叩く。その、顔や身体の表現のほうがかっこよかったのだ。

1989年のことだったから、藤田さん58歳のときだ。監督を引退したのが61歳、いまのぼくよりずいぶん若い。しかし、先輩とはああいうものだと、ぼくは思っている。同じことはできないのだけれど、苦しいときに笑えるものでありたいし、うまくいっているときに、黙せるものでありたい。亡くなっていても、先輩は教えてくれるものだなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。ほんとうは、まだ後輩役を続けているのが、好きなんだよ。】

Twitterログ2/14(火)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

・うちの犬は、もうおばあちゃんになっているけれど、
 ずっと、犬のともだちがいない。
 小さいころから、他の犬に対してのふるまいがよくない。
 けんか腰というか排他的というか、なかよくできない。
 相手が小さくても大きくても、いんねんをつけていた。
 やがて、年をとっていくと、
 けんかはしないけれど、犬を無視をするようになった。
 遠くに別の犬を見つけると、そっちを見ないようにして、
 足早になって、さっさと通り過ぎようとする。
 ドッグランという場所には、二度ほど行った。
 とてもうれしそうには見えなかったのと、
 なにか争いでも起ってはいけないと、
 人間のぼくらのほうが遠慮して、行かなくなった。
 
 そんなこんなで、うちの犬は、
 犬のともだちのいないまま、老犬になってしまった。
 保護者としては、ちょっとさみしい思いもあるけれど、
 それはそれでそういう人生だったんだと、納得している。
 うちの犬は、人間とはなかよしなので、
 犬のともだちがいないことを残念がってもいない。
 ぼくがもっと教育パパみたいな気持ちでいたら、
 犬となかよくできない犬のことを、
 あんまり「いいこ」じゃないという理由で
 矯正しようとしたかもしれない。
 しかし、そうする必要も感じなかったので、そのままだ。

 人間となかがいいとは言っても、
 このごろはもう、あんまり甘えたりもしてくれない。
 独立独歩と言えば聞こえはいいけれど、
 特に人間に媚びなくても、やっていけると覚った感じ。
 愛想がなくなったということでもある。
 そして、かつては興味のうすかった
 「食べもの」への執着は10倍にもなってきている。
 
 そんなふうな、ぜんぶ、まるごとが、うちの犬で、
 もっといいこになる必要もないし、
 この先も、ずっとこのままでいいと思う。
 あとどれくらいの時間、いっしょに過ごせるのか。
 ずっとそんなことも考えてきたけれど、
 今日も、それなりに元気で寝たり食ったりしています。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なにかできるから愛されるわけじゃない、っていいことだ。

Twitterログ2/13(月)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリンより

【・ものすごく茫洋とした言い方をすれば、会社は、「あったほうがいい会社」になりたいものだ。「あってもいい会社」と言われるだけでも、なかなか簡単なことじゃないのだけれど、それなりの人数の人に、「あったほうがいい会社」と思われるというのは、なかなかたいへんなことだと思う。「ぜひ、あってほしい会社」とまで言われようとすると、ちょっと余計な勇み足をしそうな気もするので、そこまでは望まないほうが身の丈に合ってる感じだ。

「ほぼ日」ってのは「あったほうがいい会社」かなぁと、何度も問いかけてきたつもりだ。胸を張って「あったほうがいいだろう、わははは」とは、どうも言いにくいものではある。「なかったら、さみしいよ〜」とかね、言われたら、ほろりとしてしまうな。この、乗組員や関係者だけでなく、比喩的に100万人の支えてくれる人たちをも含めた「ほぼ日」っていうものがなかったら、ぼく自身が、いちばんさみしがるのではないかな。

・もともと、こんな話を書いているのは、会社のことを言おうとしたからではなかった。

「いてもいい人」、さらには「いたほうがいい人」であるかどうかについて、人間はとても真剣に悩むと思ったからだった。他人が「いてもいい人」と認めてくれるのか、「いたほうがいい人」として歓迎してくれるのか。そして、じぶん自身が、じぶんのことを「いてもいい人」「いたほうがいい人」と思えるのか。そのことが、とてつもなく大きい問題なのだ。そこから、そうだ、会社についても、そんなふうに考えてきたんだっけなぁと思い出したのだ。

ほんとは、すべての人間が、あらゆるものが、「いてもいいんだよ」とか「あってもいいんだよ」と、無条件で肯定されている世界が理想なんだけどねー。なんだか、いまって、あらゆるものを「裁きすぎる」よ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「いてもいい」「あってもいい」「あったほうがいい」。】