SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ1/11(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

ぼくの「ぜんそく」の話は、何度かしているから、
 知っている人は知っていると思うのだけれど、
 いまの時期、また話しておきたくなった。

 もともとは「小児ぜんそく」で、
 冬になって寒さが増して風邪をひいたりすると、
 呼吸が苦しくなったり咳が止まらなくなったりした。
 医者に通ったり、梅干しの種のシロップを飲んだり、
 ねぎを黒焼にして首に巻いたりしたが治らなかった。
 年齢が加わって、体力がついてきたら自然に治っていた。
 そこから、アレルギー体質ではあったけれど、
 ぜんそくの症状は出てなかったのだが、
 三十代の半ばくらいになって、どういうわけか再発した。
 咳き込んだら止まらないし、横になると咳が出るので、
 なかなか眠りにつけなくて、寝不足がつらかった。
 咳き込むときには、壁にもたれて上半身を起こしたまま、
 「スーパーマリオブラザース」をやっていた。
 ほんとうにひどい時には、クルマで病院に担ぎ込まれて、
 気管支拡張剤の注射を打ってもらったりもした。

 当時は、医院でもらう薬で治らないものだから、
 あらゆるせんじ薬やら民間療法だけでなく、
 遠くまで出かけて、いわゆる加持祈祷にまで頼った。
 どれほど信じにくい療法でも、「実際に治った人がいる」
 というふうに言われると、説明はつかなくても治るなら、
 と、真剣に通ってしまうものなのだ。
 治してくれさえすれば、どんなものでもよかった。
 医師の肩書きのある人のなにやら特別な治療などは、
 待合室が満員電車のようだった。
 ぼく自身の、この時期の経験があるから、
 「藁をつかもうとする溺れた人の気持ち」は理解できる。
 でも、どの特別な療法でも、ぜんそくは治らなかった。
 結局、実際に治ったのは、呼吸器科の医師の指導で、
 現代医学の地道な治療を受けたことによってだった。

 人は、想像以上に弱いもので、つらい病気になれば、
 理性なんか揮発して、迷信や偽薬にでもすがってしまう。
 じぶんが、そういうふうになることを、そのとき知った。
 でも、また同じことをやらないとは、言い切れない。
 それくらい、人ってものは弱かったりするんだよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
奇跡の治療とか、神の手とか、霊薬とか‥‥ないよ、ない。

Twitterログ1/10(水)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・こどもに向けた物語の「ちょっと怖いところ」。
 ぼくは、そういうものに惹かれる傾向がある。
 童話と呼ばれるジャンルのなかにある
 「恐ろしさ」については、研究書などもあるけれど、
 こども用の歌のなかにある「ちょっと怖いところ」は、
 あんまり語られてなかったように思う。
 ちょっとひっかかるところがあっても、
 歌であるがゆえの「詩的な跳躍」として、
 「ま、いいんじゃないか」と見逃されやすいのだろうか。

 「かごめかごめ」も、「シャボン玉」も、
 「赤とんぼ」も「夕焼け小焼け」も、
 どれも、メロディのさみしさもあることながら、
 やっぱり歌詞で描いている世界が怖いのだ。
 「かごめかごめ」の「夜明けの晩」ってなんだ。
 こどもは起きてちゃいけない時間だろう。
 「シャボン玉」は、「こわれて消えた」と歌われる。
 「赤とんぼ」、十五で嫁に行った「ねぇや」って、
 さみしすぎるだろう、「便りも絶えはてた」らしいし。
 「夕焼け小焼け」だって、遊びが終わって帰る歌だ。
 あとはもう星の見える夜が歌われるんだよ。
 終わりやら、暗さや闇やらばかりが歌われていた。
 ランララランランラララン たのしく遊びましょ
 ‥‥みたいな歌は、ぜんぜんなかったよ。
 幼いときに聞いた歌の影響というのは、
 かなりこどものこころにしみついていると思う。

 そういうなかでも、西條八十の作詞した歌には、
 格別な雰囲気をまとった怖さがある。
 「唄を忘れた金糸雀カナリア)は
 後の山に 棄てましょか」とはじまるんだよ。
 「背戸(せど)の小薮に 埋(い)けましょか」
 「柳の鞭(むち)で ぶちましょか」と続くんだよ。
 「いえいえ それはなりませぬ」と否定したところで、
 その前の提案が怖すぎるだろう。
 結局、「象牙の船に 銀の櫂(かい)
 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を おもいだす」と
 終わるんだけれど、異国情緒と怖さの螺鈿細工みたいだ。
 このひとつの詩だけでも、すごいなぁと思うけれど、
 西條八十という人は、たくさんの歌をつくっている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
書きかけのままみたいになりましたが、また、いつかね。

Twitterログ1/9(月)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・まったく一日中外に出ないで過ごした。
 前の日にも外出したおぼえがないから、二日間になるか。
 ありがたいことに熱のある風邪じゃないので、
 どっこいしょっと力を入れれば外に出られるのだろうが、
 このときとばかりに「廃人療法」を実行している。
 小中学校時代の「ずる休み」にちょっと似ている。
 こういうこと、したかったんだろうねー、きっと。
 水やらジンジャーエールやらをがぶがぶ飲んでは、
 テレビを観たり、本を読んだりして過ごしている。
 
 この年末年始の休みが終わった直後の三連休というのは、
 なんだか、「とんでもなく奇妙な企画」だね。
 カレンダー上の偶然なんだから、しょうがないけどさ。

・いくらでも観るべき録画はあるんだけど、
 その選択のカンが鈍っているような気がする。
 選んでしまったのが70年代の『不毛地帯』って映画。
 ある程度、おもしろいんだよ、骨組みがしっかりしてて。
 だけど、いまのじぶんが3時間半をささげるんだったら、
 この映画じゃないほうがいいような気がしたなぁ。

 大商社とか、大政治家とかが、大舞台で動いている感じ。
 戦争やら、外国の思惑やらの設定も影響するから、
 善いにつけ悪いにつけ、登場する人物の大物感がすごい。
 黒塗りのクルマ、料亭、札束、ビル群などの道具立て。
 この視線で社会を見たら、「すっごい強い巨悪」が、
 むやみに強調されちゃうような気がする。
 そんなに巨大だと思わせられてちゃだめなんだと思う。
 人間のやってることだからね、たいていのことは。
 なめちゃいけないんだけど、人間のやってること。
 そういうこと、20歳のころには、わからなかったなぁ。
 
・星人の日だ。1月9日だからね。
 わざと漢字をまつがっちゃったけど、
 これもなかなかわるくないんじゃないか。
 「バルタン星人」とか「おっぱい星人」とか、
 なにか希望する星の人になったらいいよね。
 人間の一生がどんどん長くなってる時代だから、
 オトナになるのも、30歳くらいじゃないのかって、
 ぼくはずっと言ってるんだけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ああ、でも「20歳の意志」って、やっぱり大事にしたいや。

Twitterログ1/8(日)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

・「じぶんは、たいした人間じゃない」ということと、「おれはおれで、すばらしい人間だ」ということは、まったく矛盾することではない。

もっと言えば、「たいした人間じゃない」ほど、「すばらしい人間」なのだとも言える。

・たまたまNHKスペシャル『ばっちゃん』を観た。道にはぐれた少年少女や青年たちに、食事をつくる「ばっちゃん」のドキュメンタリーだった。非行に走るこどもは、腹が減っているという。「ばっちゃん」の家を、ありがとうも言わずに、食堂がわりに利用していた少年たちが、おとなになって、いちばん会いたくなるのが、この人。

少年たちが、ほんとにいい顔をして、「ばっちゃん」と話しているのが印象的だった。そして、「ばっちゃん」のほうは、ずいぶんと愛想のない表情のまま、ごはんを食べさせる。「ばっちゃん」には、いい顔も、いいことばもないのに、少年たちは、この人は信用できると見抜いてしまうのだ。

「いいことなんか、なんもない。つらいばっかりじゃ」と広島弁で語る「ばっちゃん」に、会いたくてしょうがない青年たちが涙ぐんだりする。こどもたちは、人を見抜くというより、見破るんだよな。つくった表情や、つくったことばは、まったく空振りなんだよなぁと、テレビの前で思った。(再放送は1月14日(土)午前0時10分からあるよ)

・熱はないのだけれど、風邪の症状があって、よく寝た。そういえば、年末から軽い躁状態で、考えごとをしてオーバーヒートしていた。「もうほんとに休め」と身体に怒られたのだと思った。ばかみたいに寝て、なんにもしないで1日を過ごした。食欲はあるものだから、よく食った。

正月休みは終わったと思っていたところに、この三連休というのは、使えないおこづかいのようだ。さて、今日も日曜日、どうなることでしょう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。寒さがきつくなると、春を待つというたのしみを思い出す。』

Twitterログ1/7(土)ほぼ日メモ

 

今日のダーリンより

プロ野球の人気に影が差してきたとか言われて、
 サッカーのJリーグがスタートしたとき、
 「やっぱり、おれの目をつけていたサッカーが来たろ?」
 とか自慢そうに胸を張っていた人、いたと思うんだよね。

 いわゆる銀塩カメラがふつうに「カメラ」だった時代に、
 これからは「デジタルカメラが来るんだよ」と、
 だれよりも先に、デジタルカメラを買った人、いたよね。
 
 これからはインターネットが来るんだと言って、
 「ほら、やっぱり言ったとおりになったぜ」と、
 得意になっている人も、もちろんいた。

 もう渋谷でもないし原宿でもないんだ、
 「代官山、中目黒が来てるんだよ」と、
 そっち方面に案内してくれようとする人も、いた。

 「必ずIoT来るから、いま知っとかないと大変だよ」
 と、かつて「もうじき絶対Blu-rayが来るから」と
 言っていたときと同じ顔つきで言う人も、いるよ。
 
 「来てる」とか「来る」とか言いたがる人は、
 いつの時代にも必ずいるものだよ。
 なにが目的で、「来る」とか「来てる」とか言うのか、
 言ってる本人にも、よくわからないのではないだろうか。
 「来てる」「来る」に賭けて大成功したという人も、
 いないわけじゃないとは思うのだけれど、
 そういう人は、ほんのひと握りだろう。
 たいがいは「あいつが詳しいよ」と言われる立場にいて、
 なんか便利に「雑誌がわり」に重宝されることで終わる。
 
 どんな「来てる」も「来る」も、
 ずいぶん遅くなってから知ったり使ったりしても、
 ぜんぜん不自由も不便もしないものだ。
 なんにも先取りしない人がハイブリッドカーに乗ってて、
 そんなつもりのなかった人がスマートフォン使ってて、
 情報に疎いという人たちが新しい街で食事をしている。
 「来てる」とか「来る」とかに関して、
 まったく興味を持ってなくても、なんの不都合もない。
 いま、そういう考え方が「来てる」んじゃないか‥‥?

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
早めに知っておくと、いいことありそうに思えるんだよね。

Twitterログ1/6(金)ほぼ日メモ

 

 

今日のダーリんより

・「おそらく去年と同じような今年を過ごすだろう」と、
 思っている人にとっても、新年は新年だけれど、
 「今年は、あきらかに去年とは変わる」と、
 覚悟している人にとっての新年は、
 ずいぶん新年らしい新年なんだろうと思う。
 
 今年の予定のなかに、じぶんの結婚がある人。
 就職が決まっていて、新しい環境が待っている人。
 通っていた学校を卒業する人。
 おっと、いま受験勉強をしている人もそうだ。
 だれかとの別れが、強く予感されている人。
 住み慣れた家から、引っ越しをする人。
 新しい家族が生まれる予定の人。
 ずっとやっていた仕事が完成する予定の人。
 
 こんな人たちは、それぞれに、
 今年は、この年からは、新しいじぶんとして
 生きていくことになるんだと思っているだろう。
 そして、実は、新しいじぶんにとっての新しい年を、
 うれしくてわくわくしながら迎えているとはかぎらない。
 心配やら不安やらが、たっぷりあるはずだ。
 いいことに決まっているような予定だとしても、
 だからこそ、なにかあるのではないかという心配がある。
 あらゆる新しいことというのは、たいてい怖いのだ。
 そういえば「マリッジブルー」ということばがあった。
 うれしい、めでたいはずなのに「ブルー」がともなう。
 あらゆる新しさ、あらゆる変化は、
 いいことでもいやなことでも、ストレスたっぷりなのだ。
 ぼく自身も新しいことの前に、いつもそうだったから、
 その不安な感覚もよく憶えている。
 
 あの「不安」やら「心配」やらって、
 いいもんなんだよなぁと、あらためてぼくは思っている。
 「ブルー」を呼び起こさざるをえないような変化、
 じぶんにとっての未知の世界という見通しのなさ。
 ほんとうは、人は、そういうものが大好きなのだと思う。
 そのせいで、毎日がおもしろくなったりするからね。
 いやなんだけど好きで、逃げたいけどたのしみ。
 「おそらく去年と同じような今年を過ごすだろう」と、
 いまは思っている人も‥‥そうはいかないかもよ~。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
変化を歓迎する、というのが、おそらくいちばんいい対応。

Twitterログ1/5(木)