SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ 11/28 ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

『・たとえば猫がいる。

その猫にあたっている光が、猫のすがたを見せてくれている。光のないところでは、猫は見えない。どんなふうに光があたっているのか、それをレンズをとおして記録する装置がある。つまりはカメラだ。カメラで撮影した猫は、猫にあたっている光だ。

猫を絵に描くときにも、絵を描く人は、猫にあたった光を見ている。しかし、その光は、ときには意識され、ときには忘れられ、ときにはないものにされて、紙やカンバスの上に描かれる。光やら動きが、どう見えているのかのところで、まずは、もう、絵を描く人の勝手だ。そして、その絵を描く人の神経や筋肉の活動には、なかなか個性的ででたらめなところがあるがゆえ、描かれる猫は、猫そのものとは、ある意味、同じと言いにくいものとなる。それは猫という以上に、その絵描きの見た猫のような幻を表したものだ。

猫と、猫の絵は、ほんとは、ものすごくちがうものだ。猫の絵には、猫が描かれているようだけれど、猫を描いているという絵描きの行動が描かれている。

文章だって、そういうもので、猫がいる、とことばをならべて書いたからって、なにを言っているのかなんてことは、ほんとは決めつけられるものではない。猫がいる、と書くことで、こころのなかのなにかを押し出しているのかもしれない。

絵やら、文やら、音楽やらという表現は、人間のすばらしい隠しごとであり、しょうがないものだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。ついでだけど、「猫」と「描く」は文字がよく似ているね。』

Twitterログ 11/27(日)ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・旅の多い11月だったけれど、この福岡で最後になる。
 いちいち印象に残った旅だったはずなのに、
 これだけ続くと記憶が整然と並べられなくなる。
 京都、四万十、箱根、前橋、大阪、長野、福島、京都、
 そしていまいる福岡である。
 出不精で家にいるのが好きなぼくが、
 こんなふうに旅ばかりしている人間になるとは、
 10年前のじぶんが知ったらどう感じることだろう。
 そのスケジュールも、これで中締めとなる。
 いやいや、旅も終わるけれど、11月も終わる。
 それどころか、2016年という今年も終わりそうだ。

・決まり文句になってしまうけれど、
 あっという間の一年だった。
 なんにもできなかったなぁとまず思い、
 でもなにかはあったはずだと記録を見ると、
 あれこれあれこれいくらでも出てくる。
 なんにもできなかったという思いとは逆に、
 これだけ、みんなこの一年でやったのかいと思う。
 いやいや自慢しているのではないよ、
 そういうものだったということだ。

 イメージしてたよりずっといろんなことができていた。
 その理由はうすうす見当がつく。
 仕事の仕方が、ぼく個人ではなく、
 「ほぼ日」のチームプレイになっていたからだ。
 1人があれをやっている間に、別の人がこれをやる。
 さらに他の人たちがそれをやり、
 だれかとだれかがなにをやる。
 こういういつも同時に、連鎖して光る花火のように
 いろんなプロジェクトがうごけるようになったから、
 思い出せること以上にやれたことが多くなるのだ。
 個人でやっていく仕事もおもしろいけれど、
 チームでやることはもっとおもしろい。
 ある意味、チームでやっているほうが、
 個人の個性みたいなものは生きるかもしれない。
 そんなことを言えるようになったんだなぁ、と、
 しみじみ博多の夜中に感じ入っている。

 なんにせよだよ、今年は終わりに近づいている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
博多の人たちにも親切にされてて、実にごきげんでーす。

Twitterログ 11/26(土)ほぼ日メモ

 

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・だんだんと年下のともだちが多くなっていく。
 つまり、じぶんが年上のおやじになる場面が多くなる。
 まわりの人たちよりたくさん生きてきたせいで、
 つまらないことも、何度も何度も経験してきた。
 やってみなきゃわからないことを実際にやって、
 うまくいったり失敗したりもしてきた。
 なるべくなら、めんどくさい判断はしたくないし、
 いざ決戦のときみたいな場面は好きじゃないけれど、
 人間を長くやっているものだから、
 そういうことからも逃げてばかりはいられない。
 決断をすることも、賭けてみることもやってきた。
 
 そういうことの積み重ねで、利口になったとは思わない。
 ちっとも利口になってはいないけれど、
 これは覚えておかなくちゃということがたまってくる。
 若いときには気づけなかったけれども、
 苦い味わいとともに気づかされてきたこともある。
 たまに、そういう、ちょっと先に知ったことなんかを、
 若い人に教えておいてやろうと思ったりもする。
 まことに、お節介なことなのだけれど、
 「これを知っておくと、けっこういいぞ」ということを、
 ちょっと伝えておくこともある。
 うるさいなぁと思われるのもいやなので、
 いまなら聞いてもらえるかな、というタイミングで言う。
 先日の、そういう場面が、なんだか印象に残っている。

 ある年下の親しい知りあいが、いい仕事をしていた。
 これはいい仕事だなぁと思って、
 「あれ、いいね」と連絡を入れた。
 とてもうれしい、という返事が弾むように返ってきた。
 とてもうれしいのついでに、
 「はじめての仕事だったので、すっごく緊張しました」
 と書いてあったので、間髪入れずに返事を出した。
 「これからは、一切、緊張しました、とか
 緊張してます、とか言わないように」と書いた。
 緊張してるとかしたとか、だれにとってもどうでもいい。
 それを言うことで、なにかの言い訳になってしまう。
 言わないぞ、と決めればいいのだ、緊張していてもね。
 「それをやせがまんするだけで、一皮むけるぜ!」
 なんだったら、これ読んでるあなたにも、あげよう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
緊張するのは当たり前よ。それを言わないで、行くんだ!

Twitterログ 11/25(金)ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・今場所の相撲は、いつもより見ているかもしれない。
 夜遅くのスポーツニュースでだから、
 あんまりいい観客じゃないのだけれど、
 それでも、稀勢の里の取り組みなどに興奮している。
 ぼくの側に、相撲に「感心できる目」が育ってないので、
 これくらいのところでおもしろがるしかない。

 昨日は『聖の青春』という映画のことを書いたけれど、
 映画のことを「感心する目」は多少持っているけれど、
 実は将棋のことについては「感心する目」がないので、
 ただの将棋盤の上に駒が並んでいるだけにしか見えない。
 役者たちが、盤をじっとり見つめていたり、
 一手ごとに「おおおっ」とか唸ったりしているのを見て、
 そういう場面なんだろうなと思うばかりである。
 将棋だけのことではないが、
 「感心する目」には質というものがあって、
 上級者が感心するところを、入門者などは気づかない
 というようなことなど、いくらでもある。
 
 ぼく自身のことで言えば、野球については
 「感心する目」はけっこう育ててきたように思う。
 その質が高いかどうかについては、問われても困る。
 じぶんで必死になって野球をやってきた人たちが
 培ってきた「感心する目」と、
 観戦ばかりをしてきたぼくらの「感心する目」とでは、
 ずいぶんとちがうはずなのだ。

 ぼくは、たぶん「広告」や「表現」についての
 「感心する目」はけっこうあると思っている。
 こういう分野のことについては、それほど興奮しない。
 感心するにしてもしないにしても、わりと冷静なものだ。

 世のすべての「コンテンツ」について、ぼくが思うのは、
 「もちろん、じぶんがそれをできなくてもいい。
 せめて感心させてもらえないだろうか」ということだ。
 古代都市を観光するにしても、絵画の前に立つにしても、
 若い音楽を耳にするにしても、殴り合いを見るにしても、
 「感心できるだけの目」がなかったら、おもしろくない。
 赤ん坊のよちよち歩きにも彼女のちょっとした笑顔にも、
 「感心できる目」があれば、生きることがうれしくなる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ちゃんと「感心できる」人に、ぼくは感心したりもします。

Twitterログ 11/24(木)ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

『・気になっていた映画『聖の青春』を観た。またまた傑作だった。俳優たちが、とにかくよかった。実在の人物がモデルになっているだけに、どう演じてもむつかしいことになりそうな題材だ。取材や研究を重ねて、その人に近づけようとすれば、ただのモノマネになってしまいかねない。本人を意識せずに新しい人物として演じたとしても、モデルから離れた分だけ、あれはちがうと言われやすい。主役のふたりは、そのどちらにもならないギリギリのところに、じぶんたちの歩く道を見つけて、そこを確実な足取りで歩み通したと思う。映画の宣伝のため、数多くの番組に出演しているのをただただ熱心な俳優さんたちだと思って見ていたのだが、あれは、こころからの宣伝だったのだろうと思った。「ぜひこの映画を、このおれたちの芝居を見てください」と、言いたくて言いたくてたまらなかったのだ、きっと。あんないい試合(試合のようだった)をしたら、みんなに見てもらいたくなるに決まってる。

つい先日『この世界の片隅で』を観て、今年は、どうしてこんなに日本映画が豊作なのだと言ったばかりだったのに。その前は西川美和監督の『永い言い訳』に感心しきりで、これはぼくの人生のベスト映画になるかもとか言ってた。大根監督の『SCOOP』だっておもしろかったし、『シン・ゴジラ』に興味が引きつけられていたし、 そうだそうだ『君の名は。』もあったじゃないか。すべて今年になって上映された映画なのだ。これらは、ぼくが映画館で観たものだけなので、他の傑作を数えてないかもしれないけど、御免よ。

なにがあったの? 邦画がこんなにおもしろい理由って?テレビの視聴率のような単一基準にしばられないとか、やりがいのある仕事をスタッフも役者も探していたとか、技術の進歩で、制作予算が低くても映画がつくれるので、作品の母数がぐんと増えていたとか、シロートなりに想像してはみるのだけれど、わからない。でも、いい映画は、次の映画制作への目標になるから、また来年もたのしみになったよねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。忙しいと言わずに歳末を全うしたい。それにしても寒いね。』

Twitterログ 11/23(水)ほぼ日メモ

 

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・知らず知らずのうちに、
 「そうかなぁ?」ということをじぶんでもやっている。
 じぶんでやっていることなのだけれど、
 それはある時期からの「思いこみ」にしかすぎない
 ‥‥ということが、いくらかはありそうだ。
 
 そういうことを語りはじめると、
 コペルニクスやらガリレオやらが登場して、
 天動説が常識だった時代に、
 その「思いこみ」をひっくり返すような地動説を‥‥
 というような、よくあるお説教みたいになりそうだが、
 そこまでよくある常識的な話をするつもりはない。
  
 ぼくが、いま思ってるのは、もっとせこいお話なのね。
 短く言えば「充電池」にし過ぎたかな、ということ。
 電池を使う製品って、いっぱいあるんだけど、
 たとえば「電気かみそり」とか「電動歯ブラシ」とか、
 乾電池だとすぐに消耗しちゃうし高くつくからって、
 充電式のに替えてたんだよ。
 でも、このごろ、そこらへんの電池を使う製品を、
 乾電池式のものに戻していったのだ。
 そしたら、軽くて使いやすくて値段も安くて、
 しかも、乾電池で半年以上も持ったりするんだな。
 さらに、あのめんどくさいコードがないんだよ!
 「充電式」がいいに決まってると思いこんでたのだ。
 世の中のいろんなものが、充電池になってるけど、
 乾電池的なものも、あんがいいいところがあるのだ。
 
 若い人たちが、クルマを持たなくなって
 電車やバスに乗ったり歩いたり自転車に乗ったりするのも
 クルマがなくちゃという「思いこみ」が消えたってこと。
 音楽がCDを経て配信になってるのに、
 アナログレコードが見直されているのも、
 別にただの酔狂じゃなくて、いいところがあるからだ。
 
 建築だって耐震耐火の高層マンションがあるけど、
 実際に暮らすのには、木造だってわるくないよ、とかね。
 これも乾電池っぽいものの例じゃないかな。 
 新幹線も、「のぞみ」をやめて「ひかり」にするとかさ。
 ぐっすり寝て移動したいなら、その選択もあるよ~。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば芸術の分野も、進化と関係ないような気がする。 

Twitterログ 11/22(火)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・京都にくると、思い出すことがある。

 この場所が、いわゆる都会じゃないせいなのだけれど、
 田んぼや畑がすぐ近くにあることで、
 その季節その時期の食べ物のことを思うことになる。
 無人販売所に置いてあるのは、
 近くの農家の人たちのいちばんつくりやすい作物だ。
 
 夜を歩くとき、月がでていないと真っ暗になる。
 家もあるし、街路灯もあるのだけれど、
 散歩のコースによっては、真っ暗の闇にも出合う。
 この、闇の黒さをふだんは忘れている。

 そして、ほとんど無音という状態もある。
 自動車の通る音がないと、
 家があっても音のしない時間がある。
 鳥やカエルや、セミなんかの声は娯楽のように聞こえる。
 
 自然を求めての旅先でのことなら、
 もう少しものめずらしい気分で味わうのだろうが、
 ぼくのいるのは、いちおうは生活の場なのである。
 さっきまでの言い方とは逆なのだけれど、
 人びとの暮らしが、ここにはあるわけだ。
 
 静けさのせいもあって、道で立ち話している人たちの、
 あれやこれやのおしゃべりが、よく聞こえる。
 路地のどこかから、京都弁のやりとりが、
 ドラマのように響いてくる。
 夕方から夜になると、窓の開いている家から、
 家族の話し声やテレビの音が聞えてくる。
 こういうことは、東京では感じてなかった。
 
 どうしてなのか、老犬が、京都に来るとよく歩く。
 田んぼの間の畦道なんかだと、ノーリードで、
 得意げに前を歩いて、ぼくの行き先を決めてくれる。
 「このあたりは、老犬とおやじのカップルが多いな」
 と言ったそばから、あ、それはじぶんのことだと気づく。
 
 こんな場所と、港区北青山がワープトンネルで、
 つながっていたらいいのになぁとしみじみ思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いずれ未来の都市計画って、都市と自然のセットだと思う。