SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ 9/21(水)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・時代がすこしずつ変化していくと、
 あらためて考え直したほうがいいことも出てくる。

 印刷物の価値というのも、そのひとつだ。
 グーテンベルグによる活版印刷の実用化というのは、
 歴史的な偉業だったということで、
 ぼくらはその意味もよくわからぬまま学校で習って、
 そのまま漠然とそのことを憶えている。
 それまでの時代にだって、書も本もあった。
 文字を書いたり、それを石に彫り付けたり、写したり、
 暗誦したりということは、それまでにもあった。
 しかし、グーテンベルグがやったのは、
 当時にしてみれば「大部数」の聖書を、
 短い時間で印刷したということだった。

 手で書き写す「写経」にしても、
 グーテンベルグの活版印刷で刷られた「聖書」にしても、
 大変な動機や労力の要る仕事である。
 そんなにまでして「書物」の複製をつくろうとするのは、
 そこに記されている内容がありがたいものだからだ。
 めんどくさいことを経てでも、読みたい読ませたいという
 価値のあるコンテンツだったからコピーをつくったのだ。

 時代が進んで、印刷技術もどんどん進化して、
 紙や製本の都合もつけやすくなり機械化もできたが、
 それでも、手間をかけて印刷物にするというのは、
 「印刷するに足る内容」だから、だった。
 そういう時代に「本を出している」というのは、
 なんらかの意味で「ひとかどの人物」だと思われていた。
 その時代が、いつごろまでだったかは知らないけれど、
 いまは、印刷にしても製本にしても、
 どこでも、いくらでも、手軽に安価にできる時代である。
 「本を出している」ということの意味も、
 とんでもなく軽くなっているはずだ。
 印刷のコストが高くなくなったいまでは、
 本がでているということが、内容の保証にならないのだ。

 で、本題として言いたかったことは、以下の二行です。
 「名刺」って、いまどういう意味があるんだろうね。
 もう、やめてもいいような気がするんだよねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
名刺よりいい「名刺的なもの」のアイディアって、ない?

Twitterログ 9/20(火)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日メモ。今日のダーリンより

・こどものとき、大人がかっこよく思えた理由のひとつは、
 「たいしたことないよ」という感じで、笑うことだった。
 こどもは、いつも、じぶんの小さい器のなかで、
 勇んだり、脅えたり、行き詰まったりしている。
 そういうときに、大人は、その問題について
 「はっはっはっはっは」と笑うのだ。
 笑うことそのものがかっこいいのだけれど、
 実際のところは、大人の「笑っていられる落ち着き」に、
 「幼いどうぶつ」として感じ入っていたのだと思う。
 つまりは、怖々と生きているじぶんにとって、
 「頼れる存在」であることを伝えてくれている。
 それが、「笑う大人」のイメージだったのだろう。
 
 その「頼れる存在」であることを演出するために、
 あえて笑う大人たちも存在していた。
 映画のなかで主役になる「正義の味方」はもちろん、
 その相手側の組織のボス役なども、
 なにかと言えば「はっはっはっはっは」と笑っていた。
 悪の軍団の子分たちも、高笑いする親分のことを、
 「頼れるよなぁ」とかね、よろこんでいたわけだね。
 そういえば、映画『となりのトトロ』のなかで、
 引っ越したばかりの家の風呂場で、怖がるこどもたちに
 むやみな爆笑をすすめる場面がある。
 ひ弱そうなおとうさんが、「頼れる存在」に見えた。
 
 ぼくの育った時代の大人は、曲がりなりにも、
 「頼れる存在」の役割を果たしていたのかもしれない。
 そして、こどもだったぼくは、
 それを「かっこいい」と感じていたのだろう。
 大人になるということには、そういう憧れがあった。
 怖かろうが切なかろうが、ちょっと見栄を張って、
 より弱いものの不安を掻き立てまいとする大人像。
 そのうえで、おちついて「どうするべきか」を考える。
 そういう大人に憧れて、へたくそなりに大人になった。
 
 長年、町内会のおじさん程度にでも、
 大人の役をやってるうちには、だんだん大人になる。
 無理に「頼れる存在」になろうとしなくても、
 わりと「はっはっは」と笑えるようにもなるものだ。
 怖がりのこども、不安な若者のままじゃいられないしね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あんまり笑ってばかりだと、ばかみたいに思われるけどね。

Twitter貼り付け曲まとめ 15

Twitterログ 9/19(月)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・日本の街の景色が、「看板だらけ」だということは、
 景色の表現を仕事にしている人には、よく知られている。
 いくら建物や道路を描いても、街のように見えないのだ。
 そこに、看板やネオンサインを加えると、
 びっくりするほどリアルな日本の街ができあがる。
 
 ぼくは、いわゆる「趣味のいい」という領域には、
 なるべく行かないようにしている凡人なのだけれど、
 「看板だらけ」というのは、やめたほうがいいかなぁと、
 なんとなく思っている。
 「われも、われも、われも、われも、われも」という
 自己主張の群がりは、結局うるさいだけになってしまう。
 宣伝広告としても、あんまり得でないと思うのだ。

 テレビでも、ぼく個人としてはだけど、このごろは、
 いわゆるバラエティ番組がうるさくて観られなくなった。
 大人数が出てきて「われも、われも、われも」なのだ。
 そのにぎやかさがよくて、観ている人もいるだろうし、
 昔のじぶんは、それが気にならなかったのだから、
 そういう番組はよくない、というつもりもないが、
 「われも、われも、われも、われも」のスタイルは、
 逆に表現の幅を狭めているような気もする。

 これが成功例と言えるかどうかはわからないけれど、
 「Apple」の商品なんかは「看板だらけ」の逆で、
 不親切だとかも言われつつ、個性になっている。

 なにかとお騒がせの『週刊文春』の表紙には、
 内容についての文字やら惹句やらが一切ない。
 書店やコンビニの店頭で多いに不利になる、と、
 たくさんの人たちが考えているかもしれないが、
 現実にそうしなくても売れているらしい。
 ま、それでも「内容を表紙に入れたらもっと売れる」と
 いう意見を持っている人も、いそうだけれどね。

 なんか、いまの日本の「看板だらけ」というか、
 「われも、われも、われも、われも」の自己主張は、
 もう、古くさくなっているんじゃないのかなぁ。
 かえって迷惑だとか、うるさいばかりだという人が、
 そろそろ少数派じゃなくなっているように思うのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日」はどうなんだと言われたら、試行錯誤中ですと。

Twitterログ 9/18(日)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・犬や猫ばかりでなく、生きものの世話をするときに、
 教科書的な本を読むと、ほとんど書いてあることがある。
 「清潔な水を用意します」である。
 生きもので、水を必要としないものは、おそらくない。
 だから、なんども目にした文章だ。
 生きものを飼うことになったときに、
 寝床、食事、運動、と、考えなくてはいけないことは、
 それぞれたくさんあるにちがいない。
 でも「清潔な水」は基本中の基本だろう。
 ぼくは、このフレーズが大好きになっていた。

 とても、おおげさに言ってみる。
 清潔な水が用意できる環境は、人の責任である。
 それを、確実に与えられる実力がなくてはならない。
 清潔な水を得られるまでの人の歴史に思いを馳せよ。
 いまも、清潔な水の確保できない場所や人がいる。
 そういうことをすべて含めて、言えるのが、
 「清潔な水を用意します」なのだ。
 
 「清潔な水を用意します」を基本にして、
 おまけに、「人間の飼い方」ということも考えてみた。
 人間とは、ぼく自身のことでもあるし、
 他のすべて人のことでもある。
 人間を飼うなら、これが最低の義務だということとは?
 「清潔な水を用意します」
 「暑さや寒さから身を守れる部屋を用意します」
 「清潔な寝具を用意します」
 「栄養があって、おいしい食事を与えましょう」
 ここまでだけでも、他の動物と同じように必要なことだ。
 ここに、あと、なにが入るのだろうか。
 「他の人間たちと、自由に会える環境をつくります」
 「じぶんで生きていける方法を教えていきます」
 「特に目的のない遊ぶための時間を確保します」
 「安心して生きられる環境を用意します」
 まだ、もう少しありそうだけれど、
 ここまでのことは、必ず必要なことだという気がする。
 刑務所は「他の人間たちと、自由に会える環境」だけが、
 与えられていないということなのだろうな。
 こんなことを整理してみると、
 ホームレスをやっていくのは大変なことだよなぁと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あたたかいベッドで寝られる。これがぼくの感謝の源泉だ。

Twitterログ 9/17(土)メモ貼り

Twitterログ 9/16(金)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・未来から、現在を見るということは、
 ほんとうはできない、ということは知ってる。
 いつも、ぼくらは現在にしかいられないのだから。
 過去から現在を見ることも、もちろんできない。
 ぼくらはもう、過去にはいないのだから。
 (そして、ややこしくなるけれど、
 現在から現在を見るというのも、
 なんだかほんとうはできないような気がする。
 でも、めんどうだからそれは考えないようにしよう)。
 
 しかし、過去から現在を見ている人はいくらでもいる。
 過去のデータを集めて、その上に立って、
 現在を見たり未来を見ようとする人たちは多い。
 いやいや、そんなマーケティングの話ばかりじゃないよ。
 じぶんの息子を、ずっと10歳くらいのときのままだと
 思いこんで見続けている親とか、
 若い後輩のやっていることを、いつまでも、
 じぶんより劣っていると思いながら見ている先輩とかも、
 けっこう危ういことしてると思うんだよね。

 ぼくは、いつごろからか、イメージとしてだけれど、
 「未来のその先」みたいなところに、
 じぶんを立たせて、現在という「こっち」や、
 近い未来というものを見るようなことをしている。
 ただの趣味的なイメージの遊びだと思ってくれればいい。

 例えば、渋谷のスクランブル交差点のようなところを、
 これはずいぶん昔の景色だと思いながら見るのだ。
 未来の先に立っているじぶんが、
 過去の、つまり2016年の渋谷を見ている。
 そう思ったら、ずいぶん景色が妙なものに見えてくる。
 じぶん自身のことでも、この先の老後、の先の、
 「死んじゃったじぶん」がこっちを見ていると想像する。
 仕事も同じように、ずっと先に立ってこっちを見てみる。
 で、過去としての現在を、やさしく観察するわけだ。
 「まだこんなことやってたっけなぁ」と感じるんだよね。
 こっちから、なにかを積んでいってあっちに行くよりも、
 あっち側からの目で、こどもを見るよう現在を見る。
 これ、ぼくにはずいぶんおもしろい遊びになっている。
 コツをつかむと、けっこうできるようになると思うよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
夢を持つのではなくて、「夢になる」ということなのかな。