SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

Twitterログ 8/18(木)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

オリンピックを、けっこう長い時間観ていて、
 もちろん、あの選手この選手がんばれみたいなことを、
 いちばんたくさん思うのだけれど、
 その他に、もうちょっと「遠い」ことを考えたりもする。

 たとえば、「国際オリンピックでよかったなあ」
 というようなことだ。
 それこそ、肌の色のちがい、しゃべることばのちがい、
 住んでいる地域のちがい、育ってきた文化のちがい、
 からだの大きさのちがい、からだのかたちのちがい、
 信仰しているもののちがい、国の体制のちがい、
 たくさんのちがいが、ほんとうはこの場に集まっている。

 商社マンが集っているのでもなければ、
 政治家が顔を揃えているのでも、
 芸術家が集まってるのでもなくて、
 いろんな種類のスポーツの選手たちが、
 いろんな国からリオデジャネイロにやってきている。
 そうは言っても、ぜんぶスポーツ選手じゃないか、
 と思う人もいるかもしれないけど、そう言いなさんな。

 馬術の紳士と、サッカーのアニキと、陸上の青年と、
 砲丸投げのおにいさんと、体操のかわいこちゃんと、
 見た目だけだって、ほんとにいろいろだ。
 そして、ふだん使っていることばの壁も超えて、
 同じルールでその力や技術、そしてこころを競っている。

 こんなに「国際」を表現してくれる場面が、
 他にどこにあるだろうかと思う。
 オリンピックの裏側だとか、黒い政治だとか語られるが、
 実際に起こっている国際競技大会の日々は、
 すべてのちがいを超えて、すべての人が集い競う時間だ。
 十数万年の昔に、アフリカで生まれた
 けっして数多くはなかった人間たちの祖先が
 世界中に広がっていって、
 いまのような「いろんな人たち」に別れたのだという。
 その「いろんな人たち」が、同じところに集まって、
 顔を見せ合い、可能性を探し合うことができるなんて、
 「国際オリンピック」という発明のおかげだなぁ、と、
 ぼくは遠い目をして思ったりしている。 

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
何度も生まれ変れるのなら一度くらいは五輪に出場したい。

Twitterログ 8/16(火)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

 

 ほぼ日、今日のダーリンより

・人には、それぞれ、それなりに役割というものがあって。
 たとえば、落ち着いている人という役割がある。
 これは、たいてい、年長者が引き受けている。
 あわてて、あるいは、急いでなにかに反応しても、
 大きなところで穴が空いてしまうこともあるし、
 ほんとうに大事な判断をするには情報が足りない、
 というような場合がある。
 年長者というか、年寄りは、
 何度もそういう経験をしてきているので、
 「おっとっと」と、ものごとの重心を見定めようとする。
 
 あわてるとか、急ぐとか、とにかく行くという役割は、
 わりに若い人がやることになっている。
 こちらは、まさしく危なっかしいこともあるけれど、
 それまでの流れとちがう方法や、解決を探しだすには、
 こういう要素がないと、なにもはじまらない。
 
 なんで、こんなことをいまさら考えたかというと、
 うちの犬の動きに、ムダがなくなったからである。
 老いるというのは、こういうことなんだなと思ったのだ。
 必要なことだけをして、あとはじっと休んでいる。
 それを見ているぼくが、似てきているような気がして、
 なかなか複雑で「どうしたもんかなぁ」と思案中である。
 行動を禁じられてもいないのに、余計なことはしない。
 行こうと言われれば、行かないでもないし、
 言われなければ、そのままでもいい‥‥という態度だ。
 ものぐさ、というよりも、それが自然なのだと思える。
 
 「ドコノコ」のおかげで、世界中の犬や猫を見られる。
 「ドコノコ」が登場した日と、ほとんど同時期に生まれた
 アメリカで育っている仔犬をフォローしている。
 毎日、写真や動画をたのしみに見ているのだけれど、
 この仔犬の行動が、すべて「余計なこと」だらけなのだ。
 飛びつく、転がる、走る、噛む‥‥と、寝る以外は、
 すべてが、しなくてもいいことばかりなのだ。
 すなわち、これが遊びというものなのだろうなと思う。
 「遊び」と「生きること」が同じなのだ。
 いまは老いて落ち着いているウチノコも、こうだった。
 どっちも、自然で、どっちも必要なことをしている。
 ん~、つくづくじぶんはどうありたいかを考えちゃうね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日手帳2017」のいろんなことが揃いつつありますよ。

Twitter貼り付け曲まとめ 13

 

Twitterログ 8/15(月)メモ貼り、ほぼ日メモ

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・この時期、いろんなことが起こっているなぁ。
 少なめに言っても、まずは、
 前の戦争に敗けて終った記念日、終戦の日がある。
 そしてリオデジャネイロでのオリンピックがある。
 さらに、お盆だということで亡くなった人がやってくる。
 離れていた家族が故郷に集ったりもする。
 そうそう、こどもたちは夏休みという大行事の真っ最中。
 さらに、ここに「SMAPの解散発表」を
 付け加える人もたくさんいるにちがいない。
 あ、甲子園では高校球児たちが熱戦を繰り広げている。
 
 ずいぶん盛り沢山なのだ。
 これらのすべてについて、なんとなく、
 目で耳で情報を追っていたら、けっこう忙しい。
 ニュースの優先順位は、受取る人によってちがうけれど、
 どれも、これこそが大事だというイメージで伝えられる。
 
 そして、その大事のすべてを足してまとめたものよりも、
 たとえば「わたしが失恋したこと」やら、
 「こどもが、原因のわからない高熱を出したこと」やら、
 「大切な人が亡くなった」ことのほうが大きい。
 世界から見たら些細なことなのかもしれないけれど、
 たったひとりやふたりの問題なのかもしれないけれど、
 世界を震えさせる出来事が霞んでしまうようなことが、
 ちっぽけかもしれない個人の「生活」のなかにある。

 大きなことと小さなことに、優先順位をつけるとしたら、
 大きなことを先にするのがいいとは、思う。
 ただし、その大きなことというのは、
 おそらく(小さなことに思われているような)
 個人の「生きること」なのだ。

 なんども書いていることだけれど、
 「LIFE」ということばには、
 人生、生活、いのち、生きもの、などなどの意味が、
 折り重なるように込められているけれど、
 いろんなことばを忘れても、いちばん大事なのが、
 このこれ、なのだと思っている。
 どんな大きな、どれほど大事なものごとも、
 最小単位は「LIFE」だと、この日に言っておこうかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
休んでいるのに寝不足。老犬と共にのろのろ歩く数日だ

Twitterログ 8/14(日)メモ貼り

Twitterログ 8/13 メモ貼り

 

 

ほぼ日、今日のダーリンより

・この時期、たくさんのスポーツの話題があります。
 よく目にしたり耳にするのは、
 勝った選手、健闘した選手たちに対して、
 「元気をもらった」「励まされた」という意見です。
 いちばん言ってるのは、メディアのなかの人たちかな。
 たくさんの人たちが、スポーツ選手の活躍によって、
 元気になったり、勇気が奮い起こされたりしている、と。
 すごいなぁ、と思います。
 ぼくも、応援しているスポーツ選手たちの活躍を、
 こころからよろこんだり、うれしがったりしています。
 ただ、ぼくは、いままでじぶんでは、
 「元気をもらった」「励まされた」とは
 言ってなかったような気がします。
 どうも、その実感がなかったからだと思うのです。
 
 ところが、オリンピックの話題からちょっと離れて、
 夜のプロ野球中継をみておりましてですね。
 追いつ追われつのシーソーゲームでしたが、
 どうも、ひいきのチームのプレイがピリッとしない。
 ぼくの人間ができてないからではあるのですが、
 次第にじぶんの機嫌がよくなくなるのがわかります。
 食事はおいしいし、夏休みのはじまりのたのしい日です。
 それなのに、こころが晴れなくなっていきます。
 やがて、なんとも情けない敗戦をみることになり、
 気分はすっかり落ち込むわけです。
 そのあとで、あれを読もう、この仕事をしようと
 予定していたことに手を付ける気もなくなって、
 どんよりと元気をなくして、まぶたが重くなるのです。
 そんなのダメなんですけど、そうなっているのに気づく。

 そして、ああ、わかりましたよ。
 スポーツ選手の「非・活躍」によって、元気を無くす。
 これは何度も実感してきました(まさに、いまも)。
 そして、勝ったときとか、活躍してくれたときには、
 すっかり大よろこびで、「さ、おれもがんばろう」と、
 前向きに仕事に向かったりしてたのを思い出しました。
 ぼくも、「元気をもらった」「励まされた」を、
 何度も何度も経験してきてたんだとわかりました。
 野球ばかりでなく、オリンピックでもそうだったわ。
 これからは、実感とともに、そう思うようにいたします。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
スポーツだけでなくいろんな人に勇気や元気をもらうよね。

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